第二十話:全知の敗北と、六つ目の導尾
「ゲホッ……! ゴホッ、ゴホッ……! 酸っ……、酸っぱぁぁぁぁいっ!!」
雲海を見下ろす静寂の断崖絶壁に、老人の情けない悲鳴と猛烈な咳き込みが響き渡っていた。
かつて世界の理を全て修め、過去・現在・未来のすべてを見通すと豪語していた全知の賢者・白眉仙人。
その気高きお姿はどこへやら。足は天を向いて座布団から転げ落ち、白い髭は吹き出したお茶で濡れそぼり、顔は梅干しのようにシワシワに縮こまっている。
「ヒハハハハハハ! どうじゃ、どうじゃあぁぁっ! 全知全能の仙人様が、お茶を吹き出して腰を抜かす気分はどんな感じじゃあぁぁっ!?」
岩の上に仁王立ちした小狐は、五本の尾を扇のように広げ、腹を抱えて大笑いしていた。
力押しでもない。大層な怪奇現象でもない。
何日も何日も「ただの無害な小動物」を演じ切り、相手の警戒心を完全にゼロへと叩き落とした末に繰り出した、三歳児レベルの『お茶を劇的に酸っぱくする』というあまりにも初歩的でくだらない悪戯。
仙人の高度すぎる『千里眼』は、化け狐が仕掛けてくるであろう凶悪な大禁術や複雑な空間崩壊の未来ばかりを深読みしすぎていた。ゆえに、あまりに愚かしくくだらないその悪戯の波長を「ノイズ」として完全に切り捨ててしまっていたのだ。
頭が良すぎたがゆえに、あまりの愚行の前に思考の隙をつかれ、裏をかかれた完全なる敗北。
「う、ぬぬぬ……っ! おのれ……おのれ化け狐め……ッ!」
仙人は舌をピリピリと痺れさせながら、必死に肘をついて体を起こした。
そのシワシワに歪んだ顔には、初め怒りと屈辱の色が濃く浮かんでいた。
しかし——。
口の中に残る狂気的な酸っぱさと、自分が盛大にお茶を吹き出してひっくり返ったという、あまりにも情けなく無様な現実を噛み締めるうちに、仙人の胸の奥から「ある感情」がフツフツと湧き上がってきた。
三千年。
この神域で世界の理をすべて見通し、退屈な全知の中に身を置いて三千年。
何が起きるかすべてを知り、驚きも感銘も失っていた己の心が、今……猛烈に沸き立っている。
「……ッ、……ハっ!」
仙人の肩が、かすかに震え始めた。
「ハハ……! ハハハハハハハハハハハハッ!!!」
突如として、仙人は天を仰ぎ、腹の底から大爆笑を破裂させた。
その声は山々にこだまし、雲海を揺らすほどに豪快で、晴れやかだった。
「見事! 見事じゃぁぁぁっ! まさか……まさか五本もの尾を持つ大妖怪の雛が、何日も死んだふりをした挙句に、お茶を酸っぱくするなどという阿呆な手を使ってくるとはなぁっ!」
「ぬ……? じ、じいさん……?」
笑い転げる仙人の姿に、狐は少し毒気を抜かれて首をかしげた。
仙人は涙を流しながらお腹を押さえ、何度も岩盤を叩いて笑い続けた。
「ハぁーッハハハ! 参った! ワシの完全な負けじゃ! 『大禁術が来る』『空間が壊される』と必死に深読みしておったワシの頭の中に、そんなアホな未来など一切存在しなかったわ! まさかワシの千里眼の盲点が、三歳児の悪戯にあったとはな!!」
仙人はようやく笑い発作を収めると、濡れた髭を袖でガシガシと拭い、座布団の上に再びドカリと座り直した。
その瞳からは、最初にお会いした時の冷淡な退屈さと高慢さが完全に消え去り、晴れやかな敬意と深い満足感が宿っていた。
『白眉……いや、白眉仙人の化身として、宣誓しよう。お前の勝ちだ、小狐よ』
仙人は深々と頭を下げた。
『未来を知る者を驚かせることはできぬ……そのワシの奢りを、お前は己の『知略』と『ハッタリ』、そして何より『意地』で見事に打ち砕いて見せた。お前が見せたのは、暴力でも恐怖でもない。知恵と心理の極致……真の『化かし』の美学であった』
ポンっ。
仙人がそう言葉を口にした瞬間、澄み切った蒼穹から、後光を背負った神が静かに舞い降りてきた。
『見事だ、小狐』
神の声には、隠しきれない感嘆の色が混じっていた。
『武力も妖術も通じぬ全知の賢者に対し、己の存在そのものを消し去り、相手の『深読み』という最大の強みを逆手に取って打ち破るとは。お前の化かしの冴えは、ついに神の領域へと届きつつあるな』
「ふはははは! 見たか神様! わしの『くだらない悪戯』の威力を! 全知の仙人だろうが何だろうが、わしの化かしの手にかかれば一コロじゃ!」
狐は五本の尾を激しく振り回し、腰に手を当てて高らかに胸を張った。
その時である。
ドクンッ!!!!!
これまでのどの試練の達成時とも比べものにならないほど重厚で、濃密な妖力の爆発が、狐の身体の芯から巻き起こった。
「あぐっ……!? く……きた、きたぞいっ……!」
狐は激しい妖力の奔流に耐えるべく、岩場にしっかりと四本足を突き立てた。
背中の根元が、黄金と紫の交ざり合った眩い光を放ち始める。
第一、第二、第三、第四、第五の試練を潜り抜け、鍛え上げられてきた魂の容れ物が、さらに大きな次元へと拡張されていく感覚。
五本の尾のさらに隣。背中の皮がメリメリと音を立てて裂け、異次元の気配を纏った新たな尾が力強く解き放たれる。
ポンッ!!!!!
空間そのものが共鳴し、鈴を転がすような神聖で美しい音が山全体に響き渡った。
生えてきたのは、毛先が銀色と漆黒の交ざり合った、怪しくも神々しい光を放つ【6本目の尾】!
ゆらり……ゆらり……。
背中に生え揃った六本の尾が、優雅な扇となって広がり、周囲の空間を圧倒する壮大な妖気のオーラを撒き散らした。
「尾が……尾が、六本になったぞぉぉぉっ!!」
狐は己の背中を見上げ、震える声で叫んだ。
九つある試練の三分之二——【6本目の尾】の覚醒。
もはや単なる「化け狐」の域は完全に脱していた。山一つを統べる大妖怪どころか、歴史に名を残すレベルの「大妖」の領域へと己の存在が昇華されたのだ。
そして、六本目の尾が静かに揺れた瞬間——。
シュゥゥゥ……ン。
狐の脳内に、言葉では言い表せない不思議な「波動」が流れ込んできた。
(……ぬ?)
狐がふと目の前にいる仙人へと視線を向けると、言葉を交わしてもいないのに、仙人の頭の中に浮かんでいる「思考」と、彼が重ねてきた「記憶の断片」が、微かな泡のように狐の意識の中に直接流れ込んできたのだ。
『(……いやはや、本当に酸っぱいお茶であったな。しかし、久々に心が躍ったわい……)』
(な……なんじゃこれはっ!? じいさんの頭の中の言葉が……聞こえる……!?)
狐は驚愕して目を丸くした。
【6本目の尾】の覚醒によって狐が手に入れた新たな力。
それは、全知の仙人の「心と記憶の深淵」に触れたことで開眼した——『相手の思考や記憶を少し読み取る力(心読の術)』であった!
相手が次に何を考え、何を恐れ、どんな過去を抱えているのか。その思考の表層や記憶の断片を、尾を揺らすだけで直感的に読み取ることができる能力。
「ハッタリ」と「知略」を最大の武器とするこの狐にとって、相手の思考を読み取る力など、鬼に金棒、化け狐に超絶的な武器以外の何物でもなかった。
「ふ……ふふふ……! 思考を読み取る力……! わしのハッタリと化かしの術が、これで完璧なものになったぞい!」
狐は六本の尾を誇らしげに揺らし、絶大な妖力の充満に酔いしれた。
山道で人間に追い回され、坊主に一撃で叩きのめされて命を落としそうになっていた、あのショボい小狐。
それが今や、大蛇を討ち、巨猪をハめ、雷鳥を落とし、鉄壁の蔵を空にし、全知の仙人すらもお茶を吹き出させて降伏させた。
九つの試練のうち、すでに五つを突破。
六本の尾を手に入れ、風と雷、空間変幻、そして心読の術までをも手中に収めた化け狐の成り上がりストーリーは、いよいよ物語の最終盤——神の領域へと向けて、さらに大きく加速していくのだった。




