第十九話:虚構の平穏と、酸惨たる一滴
太陽が、容赦なく天頂へと近づいていく。
正午まで、あと数分。
血を吐くような屈辱の中で、地べたに這いつくばっていた小狐は、ふと絶望の渦の底で、思考の裏返りに至った。
(待て……。わしは何を焦っておったのじゃ?)
狐は、ゆっくりと荒い息を整えた。
【5本目の尾】の瑠璃色の光を鎮め、逆立っていた毛皮を伏せる。
(このジジイは『全知』じゃ。わしが「次にあいつをどう驚かせてやろうか」「どんな凄まじい大技を繰り出してやろうか」と謀略を巡らせれば巡らせるほど、その凄まじい思惑の波動が『予知』の引き金になっていたのではないか……?)
そうだ。手品師が「これから凄まじい手品を見せます」と宣言して構えれば構えるほど、観客は身構え、裏を読む。
仙人の『千里眼』は、相手が「何かを企んでいる」という巨大な意図の波を捉えて未来を計算しているのだ。ならば——企みそのものを完全になくしてしまえば、どうなる?
「……ふぅ」
狐は、深々と息を吐き出した。
そして、妖力を完全に体内に収めると、トコトコと無防備な足取りで断崖の角へと歩み寄り、仙人の座布団から少し離れた岩の上で、ぽてんと丸くなった。
その瞬間、仙人が静かに薄目を開けた。
『……ほう。手札が尽き、ついに降参か。見苦しく暴れ回るよりは、賢明な判断だな』
仙人は冷淡に言い捨て、再び深く目を閉じた。
……しかし。正午の刻限が過ぎても、神は現れなかった。
なぜなら、神が定めたこの空間の時間は、試練が「決着」を見るまで、密かに引き延ばされていたからだ。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
小狐は、何もしなかった。
仙人を驚かせるための妖術も使わなければ、化け術の仕掛けも作らない。
ただ、毎朝太陽が昇ると「ふぁ〜あ」と欠伸をし、毛づくろいをし、断崖の端に生えている木の実をかじり、昼下がりにはぽかぽかとした陽気の中で「すやすや」と気持ちよさそうに昼寝をした。
ただの、どこにでもいる無害で平穏な、ただの「小狐」として過ごし続けたのだ。
『……』
仙人は、最初はその挙動を冷ややかに観察していた。
だが、四日、五日と経つにつれ、仙人の心の中に小さな「隙」が生じ始めた。
(……ふむ。完全に諦めたか)
仙人の千里眼は「膨大な未来の可能性」を演算する力だ。しかし、目の前の相手が「何も企んでおらず、ただ日向ぼっこをして死を待っているだけ」の状態が何日も続けば、わざわざその無価値な未来を毎秒毎秒、全力で深読みし続ける意味がなくなる。
(所詮は化け狐の浅知恵。挫折し、野生の獣と同等にまで精神が退化したか。……つまらん奴だ)
仙人の中で、小狐に対する警戒心は完全にゼロになり、存在そのものが「ただの風景」へと成り下がった。
完全なる油断。
「この狐はもう何もしてこない」という、全知ゆえの絶対の確信。
そして、七日目の昼下がり。
雲海から静かな風が吹き抜け、ぽかぽかと温かい陽射しが断崖を包み込んでいた。
小狐は、相変わらず岩の上で「すやすや」と丸くなって寝息を立てている。その心の中は、完璧なまでに「無」だった。「驚かせてやる」という殺気も、「化かしてやる」という意図すらもない。
『ふぅ……』
仙人は静かに息を吐き、足元に置いてあった土瓶から、古びた湯呑みへと静かにお茶を注いだ。
湯気がふわりと立ち上る。
仙人は、世界の理を想い、静かに湯呑みを口元へと運んだ。
その瞬間——。
丸くなっていた小狐の【5本目の尾】が、ぴくりと一ミリだけ揺れた。
(……今じゃ)
思考ではない。企みでもない。ただの「野生の直感」と、条件反射。
狐は『驚かすための大層な術』など一切使わなかった。
【5本目の尾】が宿す『空間干渉の変化の術』。
狐は、仙人が口につける寸前の湯呑みの中の「お茶の分子の空間」を、ほんの僅かだけ歪めた。
そして、断崖の脇に落ちていた「山葡萄の強烈な極酸エキス」の空間と、湯呑みの中のお茶の空間を、コンマ一秒の目にも留まらぬ速さで「入れ替えた(変化させた)」のだ。
大蛇を倒した酒でもない。怪鳥を落とした大音響でもない。
ただの、子供が仕掛けるような、「お茶をめちゃくちゃ酸っぱくする」という、あまりにも初歩的でくだらない悪戯。
仙人の『千里眼』は、万が一に備えて「この狐がどんな恐ろしい大禁術を仕掛けてくるか」「どんな空間崩壊を起こしてくるか」という、高度で複雑な未来の深読みばかりを無意識に演算していた。
まさか、五本もの尾を持つ大妖怪の雛が——。
何日も粘った挙句に——。
「お茶を酸っぱくする」などという、三歳児レベルのくだらない悪戯を仕掛けてくるなどという未来は、あまりにも愚かしすぎて、仙人の全知の思考回路の「演算の範囲外」として完全に切り捨てられていたのだ!
何も知らず、重厚な悟りの表情のまま、仙人はお茶を「ずずず……」と一口すすった。
——次の瞬間。
ジワアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!
仙人の口内に広がる、目を背けたくなるほどの、脳天を突き抜ける猛烈な酸味!
梅干し一千個を一度に凝縮したかのような、狂気的な酸っぱさ!
『っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!????』
ドッパァァァァァァァァンッ!!!!!
「げふっ!? ぶっはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!???」
仙人は、目玉が飛び出さんばかりに見開き、口に含まれていた極酸のお茶を、勢いよく前方へ向けて「盛大に」吹き出した!
茶柱ならぬ酸っぱ茶の噴水が、雲海に向かって色鮮やかに舞い散る!
「ぶほっ! か、酸っ!? な、なんじゃあこりゃあぁぁぁぁぁっ!?」
あの絶対の平静を保ち、世界の理を知り尽くしていた気高き白眉仙人が!
顔をシワシワの梅干しのように歪ませ、舌をダラリと出し、むせ返りながら激しく咳き込んでいる!
そして、その拍子に——。
すてーんっ!!
座布団の上でバランスを崩した仙人は、派手に後ろへひっくり返り、足を天に向けて無惨に転げ回ったのだ!
「……」
静寂。
吹き出されたお茶の滴が、ポタポタと岩肌を濡らす。
岩の上で丸くなっていた小狐は、ゆっくりと起き上がると、ニヤリと……今日一番の陰惨で、最高に性根の悪い笑みを浮かべた。
「ひ……ヒヒヒ……」
狐は五本の尾をゆらりと誇らしげに立て、腰に手を当てて高らかに言い放った。
「ハハハハハハハハハハッ! どうじゃあぁぁぁぁっ、全知の仙人様よぉっ! わしの特製・超極酸山葡萄茶の味はぁっ!?」
『お、お前……ッ!! な、何を……ワシの予知に、このようなくだらん悪戯など……っ!?』
仙人は咽びながら、必死に体を起こそうとしたが、あまりの酸っぱさに口の中がシビれてうまく言葉が回らない。
「クックック! お前さんは頭が良すぎたのじゃよ!『大妖怪の狐がどんな恐ろしい術で攻めてくるか』ばかりを深読みしすぎて、自分の足元にある『ただのくだらない悪戯』に全く気づかんかったのじゃ!」
狐は前足を指差し、大笑いした。
「未来が見えるだと? 全知全能だと? ハッ! お前さんは今、お茶を盛大に吹き出して、無様にひっくり返って驚いた! これが動かぬ『事実』じゃあぁぁっ!」
『ぐ……ぐぬぬぬぬ……ッ!』
仙人は真っ赤な顔をして絶句した。
見破られたのではない。力で破られたのでもない。
あまりの深読みと油断の裏をかかれ、子供騙しの悪戯によって「心底驚かされ、無様に翻弄された」のだ。
全知の賢者の誇りは木っ端微塵に打ち砕かれ、断崖の上に、化け狐の歓喜の笑い声がどこまでも高く響き渡るのだった。




