第十八話:嘲笑う千里眼と、崩れ去る十八番
じりじりと、陽光の角度が変わっていく。
雲海を見下ろす断崖絶壁の上。風が渡るたびに、古木の枝が「ギィ……」と乾いた悲鳴を上げていた。
天の真上へと刻一刻と近づいていく太陽。正午という絶対の刻限まで、残された時間はもはや半分を過ぎようとしている。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
小狐は粗い息を吐きながら、断崖の岩場に四本足を突き、激しく胸を上下させていた。
背中には、瑠璃色に輝く【5本目の尾】。
空間すら歪める至高の妖力を身につけ、大妖怪の領域へと足を踏み入れたはずの己が、今や汗と泥に塗れ、惨めに爪を立てて震えている。
その数メートル先。
古びた座布団の上で、白眉仙人は相変わらず微動だにせず座していた。
白い髭を悠然と撫で下ろし、その濁りのない澄み切った瞳には、一切の動揺も、恐怖も、驚きすらも宿っていない。ただひたすらに、退屈さと冷淡さが満ちていた。
『ふん……。三千年前の天変地異を模した『地裂の幻術』か。大層な仕掛けであったが、起こるタイミングも、お前が妖力を練り上げた順番も、すべてワシの予知通りだ』
仙人は欠伸交じりに、氷のように冷ややかな声で吐き捨てた。
『実にくだらん。お前が見せる怪奇現象は、すべて過去の歴史の焼き直しに過ぎん。世界の理をすべて修めたワシにとって、そのような現象は何の目新しさもない。ただの『既知の出来事』だ』
「く……ぐぬぬぬ……ッ!!」
狐は歯を食いしばり、血が出るほど強く前足を握り締めた。
この数時間、狐は己の持つすべての「化け術」と「妖術」の引き出しを空にして挑み続けていた。
最初は【3本目の尾】の最高精度の幻術を駆使し、空が割れて血の雨が降り注ぎ、地底から無数の亡者が這い出てくる地獄絵図を作り出した。
——だが、仙人は目一つ動かさず、『次は右の地裂けから角の生えた鬼が出るな』と冷ややかに言い当てた。
次は【4本目の尾】の風と雷の妖術を組み合わせ、突風とともに極彩色の紫電を仙人の鼻先数ミリで炸裂させる怪異を起こした。
——だが、仙人は眉ひとつ動かさず、『雷撃の出力が甘い。あと三割妖力を高めねばワシの髪の毛一本すら焦げんぞ』と嘲笑した。
さらに【5本目の尾】の『空間干渉の変化の術』を全開にし、仙人の視界の上下左右を反転させ、世界そのものが崩壊していくような異常空間を作り出してみせた。
——しかし、仙人はただ薄く笑い、『空間の歪みの角度は三十二度。お前が三秒後に息切れを起こして倒れ込む未来が見える』と、淡々と結果を予告したのだ。
そして、その予告通りに狐は妖力を使い果たし、惨めに地に伏せた。
勝てない。
手も足も出ない。
これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた狐の最大の武器——相手の心理の隙を突き、常識の外側からハッタリと驚きを叩き込む「化かしの技」。それが、この『絶対に騙されない賢者』の前では、完璧に全否定されていた。
(アカン……! 全否定じゃ……! わしの得意分野が、何ひとつ通じぬ……っ!)
絶望の冷や汗が、狐の全身の毛皮を重く濡らす。
相手は未来の出来事を、まるで「すでに読んだ本のページ」をめくるように知っているのだ。
どれほど派手な幻術を見せようが、どれほど複雑な怪奇現象を起こそうが、仙人にとっては「ああ、次は102ページ目のあの場面だな」と確認する作業に過ぎない。
どれほど巧みな手品も、種明かしを事前に知っている客を驚かせることはできない。
どれほど恐ろしいホラーの仕掛けも、どこで何が出るか知っている者を怖がらせることはできないのだ。
『どうした、小狐。もう終わりか?』
仙人は目を細め、哀れむような視線を投げかけてきた。
『お前が第一の試練で酒を使って大蛇を倒したことも、第二の試練で巨猪を岩場に誘い込んだことも、第三の試練で音を使って怪鳥を落としたことも、第四の試練で富豪の精神を壊して蔵を開けさせたことも……ワシはすべて知っておる』
「な……なんじゃと……!?」
『お前は己の知略とハッタリを誇っておるようだが、ワシから見ればすべては『浅知恵』だ。人間の幼子がお手玉をして見せびらかしているのと何ら変わりない。お前の思考のパターンなど、すでにワシの中で完全に解明されているのだからな』
仙人の言葉は、鋭い刃となって狐のプライドをずたずたに切り刻んだ。
化け狐としての誇り。
幾多の凶悪な怪異を知略で退けてきた自負。
尾を五本まで増やし、成り上がってきた軌跡。
そのすべてが、「全知の者」の前では、ただの幼子の戯れとして一蹴されたのだ。
『試練の制限時間は間もなく尽きる。太陽が天頂に達した瞬間、お前の敗北が確定する』
仙人は静かに瞼を閉じかけた。
『神に命じられたゆえ付き合ってやったが……期待外れであったな。ワシの心を一瞬たりとも揺さぶることができぬまま、ここで消え去るがいい』
絶対的な拒絶。
圧倒的な高みからの冷笑。
狐は地に爪を立て、震える体でゆっくりと顔を上げた。
視界が赤く染まるほどの悔しさと怒り。
(悔しい……! 悔しいぞいっ! わしの化け術が……わしの生きてきた証が……こんなジジイの『予知』とかいうズルい力ひとつで、全て無駄だと切り捨てられるなど……っ!)
断崖の淵。
天の真上へと、太陽が刻一刻と迫っていく。
術はすべて見破られた。
手札はすべて尽きた。
未来はすべて読まれている。
八方ふさがりの完全なる絶望の中で、五本尾の化け狐は、ただじっと、座布団の上の全知の仙人を睨みつけ続けていた。




