第十七話:千里の眼と、果てなき問い
豪奢な富豪の屋敷も、金銀財宝が乱れ飛ぶ狂乱の夜も、すべては朝日に洗われるようにして消え去った。
次に向き合った景色は、静寂そのものだった。
そこは、雲の海を見下ろす断崖絶壁の頂だった。
蒼穹の青と、どこまでも広がる真っ白な雲海。切れ味の鋭い冷気が鼻腔を突き、風が吹き抜けるたびに古木の枝が「カサリ」と控えめな音を立てる。下界の喧騒や人間の業など、何ひとつ届かぬ絶対の静寂が支配する神域。
「ふむ……今度は山の上じゃな」
小狐は断崖の淵に軽やかに降り立ち、背中の尾をゆらりと振った。
背後に生え揃うのは、誇らしく輝く【5本目の尾】
第一の試練で二本、第二で三本、第三で四本、そして第四の試練で悪徳富豪の蔵を一夜にして空っぽにしたことで手に入れた、五つ目の尾。毛先が神秘的な瑠璃色に輝くその尾は、ゆらりと動かすだけで周囲の空間をわずかに歪め、光の屈折すら自在に操る『空間干渉の変化の術』を宿している。
「へへん! 尾も五本目となり、空間すら歪められるようになったわしの化け術に恐れ入ったか! さあ神様、次はどんな凄まじい試練じゃ? 大妖怪との戦いか? それともまた何か盗み出すのか?」
狐は腰に手を当て、胸を張って空を仰いだ。
智略、ハッタリ、妖力、そして何より場の空気と人間の心理を支配する冴え。度重なる試練を経て、狐の自信は確固たるものへと昇華していた。
『相変わらず、尾が増えるたびに図に乗る奴だな』
頭上から、すっかり馴染みとなった神の声が降ってきた。
雲を穿つ陽光の中から、後光を背負った神がゆっくりと降臨し、断崖の先端に立つ巨石の上に腰を下ろした。
「図に乗ってなどおらん! わしはいつでも本気じゃぞ! さあ早く命じるが良い、第5の試練の『標的』をな!」
鼻息を荒くする狐に対し、神はどこか深く、試すような眼差しを向けた。
『良かろう。九つある試練の折り返し地点……『第5の試練』の相手は、そこにいる』
「ぬ……?」
神が静かに顎でしゃくった先。
断崖の端にぽつんと置かれた古びた座布団の上に、一人の老人が坐していた。
薄汚れた麻の衣を纏い、目を閉じたままじっと動かない老人。
白い髭は胸元まで伸び、その肌は枯れ木のように干からびている。気配があまりにも薄く、まるで最初からそこにあった岩か木の一種であるかのように風景に溶け込んでいた。
「ん……? ただのジジイではないか。これが標的? このじいさんをひっつかんで谷底に叩き落とせばいいのか?」
『馬鹿者』
神の声に一瞬で冷気が混じり、狐は「ひっ」と首をすくめた。
『あのお方こそ、過去・現在・未来のすべてを見通すと言われる、気高き全知の仙人……『白眉仙人』様だ。その実体は、この試練の領域を管理する神の化身のひとり』
「か、神の化身……っ!?」
『そうだ。白眉仙人様は世界の理そのものを解き明かし、人の心はもちろん、これから起きる未来の出来事、過去の歴史のすべてをその『千里眼』と『悟り』によって見通しておられる。ゆえに、この世のあらゆる事象において、仙人様を欺くことなど誰一人として不可能だ』
神は冷徹な眼差しで狐を見下ろした。
『第5の試練の条件はひとつ。……武力による戦闘は一切禁止。この『絶対に騙されない賢者』を……『心底驚かせる』か、あるいは仙人様の放つ『見破れぬ嘘を暴く』こと』
「な……なんじゃと……!?」
狐は目を見開いた。
「過去も未来も、人の心もすべて見通すじゃと!? そんな相手を『心底驚かせる』か『嘘を暴け』だと!? 戦闘なしの精神戦じゃと!?」
『そうだ。妖術の力押しも、安直な破壊も、この試練では一切の価値を持たない。お前の持つすべて——知略、化け術、そして『言葉』の刃だけをもって、全知の仙人の心を揺さぶってみせよ。……制限時間は、あの太陽が天の真上に登りきる正午までだ』
神は言い残すと、陽光の中に溶けるように姿を消した。
「ま、待て神様! 未来まで見通せる奴を驚かせるなんて、物理的に不可能なではないか!」
狐の叫びは、断崖を吹き抜ける冷たい風にかき消された。
「くそっ……! またしても無茶苦茶な条件を押し付けおって!」
狐は悪態をつきながら、座布団の上に座る老仙人へと視線を向けた。
ゆっくりと歩み寄る。
【5本目の尾】の妖力を研ぎ澄ませ、老人の全身を探ってみるが、恐ろしいことに「隙」というものが微塵も存在しなかった。
妖気も、殺気も、迷いも、執着すらもない。ただそこにあるのは、底なしの深い海のような、透き通った「無」の境地。
狐が近づくと、老仙人は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
——その瞳を見た瞬間、狐の毛皮がゾクリと逆立った。
瞳孔の奥に宿っていたのは、濁りのない清冽な光。
その眼差しに射抜かれた瞬間、己の過去の記憶——ショボい小狐として人間に追い回されていた惨めな記憶から、第一から第四の試練で何を考え、どう欺いてきたかという思考のプロセス、果ては今この瞬間に胸の中で芽生えている焦りや策略に至るまで、すべての「中身」を丸裸にされたような感覚に襲われたのだ。
『ほう……四本目の尾を超え、五本目の尾に達した化け狐か』
仙人の声は、まるで風が古木を揺らすかのように、穏やかで低く、山全体に染み渡るように響いた。
『神から話は聞いている。ワシを驚かせるか、ワシの嘘を見破ってみせよ、とな。……だが小狐よ、無駄な足掻きはよせ』
「ぬ、ぬにぃ……!?」
『ワシの眼には、お前がこれからどのような妖術を使い、どのような口八丁でワシを騙そうとするか……その未来の道筋がすでに明確に見えている。お前が次に口にする言葉も、取る行動も、すべてワシにとっては『すでに終わった過去の出来事』に過ぎん』
仙人は干からびた手で静かに白い髭を撫でた。
『未来を知る者を驚かせることはできず、すべての真実を知る者に嘘を吹き込むこともできぬ。お前が何を仕掛けようとも、ワシにとっては『予定通りの茶番』でしかないのだ』
仙人の瞳には、怒りも蔑みもなく、ただ圧倒的な「退屈」と「全知」の確信だけが漂っていた。
絶望的な宣言。
これまで狐が勝ち抜いてきた最大の武器——相手の隙を突き、心理の盲点を突く「化かし」と「ハッタリ」が、最初から「未来予知」という絶対の回答集によって完封されているのだ。
「ぐ……ぐぬぬぬ……ッ!」
狐は冷や汗をダラダラと流し、前足を強く握り締めた。
(落ち着け……落ち着けわしよ! 未来が見えるだと? 人の心が読めるだと? そんなものはハッタリじゃ! 神の化身とはいえ、本当にすべてを見通せるわけが……!)
狐は試すように、五本目の尾の妖力を急解放した。
覚醒したばかりの『空間干渉の変化の術』を発動。自身の周囲の光を屈折させ、空間を歪めて一瞬で姿を消し、仙人の真後へと音もなく背後を取った。
そして、頭の中に全く脈絡のない突拍子もない言葉——「焼き芋が食べたい」という念を浮かべながら、仙人の背後から驚かせようと手を突き出そうとした。
動き、思考、空間移動のタイミング、すべてが完璧な急襲——!
しかし。
狐が手を突き出す直前、仙人は後ろを振り返りもせず、ぽつりと呟いた。
『……背後に回り込み、『焼き芋が食べたい』などという無意味な雑念でワシの心を乱そうとしながら前足を突き出す気か。愚かしい』
「ひぇっ……!?!?」
狐は空中でのけぞり、そのまま派手に地面へと転がった。
完璧に読まれていた。
空間を歪めた移動も、頭の中の脈絡のない雑念も、次に突き出そうとした動作の角度すらも、完全に予知されていたのだ。
『言ったであろう、無駄だと』
仙人は座布団の上からピクリとも動かず、ため息を漏らした。
『ワシの千里眼に映る未来は絶対だ。お前が如何なる奇策を思いつこうとも、お前がそれを思いついた瞬間に、ワシの頭の中にはその結末までの全行程が映像として流れ込んでくる。お前にワシの心を動かす術など、万に一つも存在せぬ』
刻々と、太陽は天の真上へと登り始めていく。
正午までの制限時間は、着実に削られていた。
暴力も通じない。妖術の驚きも通じない。心理戦を仕掛けようにも、その心理の構造すら筒抜け。
全知全能の賢者・白眉仙人という絶対の壁を前に、五本尾の化け狐の知略は、かつてない完全な「手詰まり」へと追い詰められようとしていた。




