第十六話:黄金の雨と、五つ目の尾
ジャラジャラジャラァッ!
静まり返った夜の境内に、下品なまでに煌びやかな黄金の音が絶え間なく鳴り響いていた。
「捨てろ! 全部外へ出せ! わしの命を吸うな、呪われた悪魔どもめぇぇぇっ!」
富豪・金蔵は、もはや人間の顔ではなかった。
髪を振り乱し、口から白い泡を撒き散らしながら、蔵の奥から千両箱を引きずり出しては、狂ったように庭へと放り投げている。重厚な木箱が石畳に激突して弾け飛び、中から溢れ出た無数の小判や銀貨、色彩豊かな宝石や骨董品が、夜目にも眩しく乱れ飛ぶ。
「だ、旦那様! 正気に戻ってください! 何をしておられるのですか!」
「おやめください! せっかくの財宝が……!」
駆けつけた用心棒や奉公人たちが慌てて止めに入ろうと手を伸ばすが、金蔵は鬼のような形相で手近な金の屏風を振り回し、彼らを狂暴に追い払った。
「触るな! この財宝に触れた者は全員、地獄の業火で焼き尽くされるのだぞ! わしの命を助けたくば、手出しをするな! 外へ投げ捨てろ、町へ放り出せぇぇぇっ!」
錯乱しきった主人の前では、自慢の警備網も、百人の用心棒も、腕利きの術者たちも何の役にも立たなかった。
自ら結界を解き、自ら鍵を開け、自ら蔵の中身を外へ投げ捨てる——。
「絶対に破れない」と誇られた鉄壁の蔵は、所有者自身の狂気によって、内側から完璧に死体へと変えられていた。
その狂乱の光景を、母屋の屋根の上から見下ろしていた小狐は、お腹を抱えてくっくっと肩を揺らしていた。
「クックック……! 見事な投げっぷりじゃな、金蔵よ。あそこまで威勢よく自分の宝を捨ててくれれば、こちらの手間が省けて助かるわい!」
狐は背中に揺れる【4本目の尾】をゆらりと揺らし、爪先を軽く鳴らした。
外から打つ手がないなら、内側から開けさせればいい。
強欲で、己の命が何よりも惜しい悪徳富豪の精神の弱みを、最高精度の幻術で完膚なきまでに叩き潰す——化け狐の知略とハッタリの完全勝利だった。
だが、試練の達成条件は「蔵を開けること」だけではない。
神から課された条件は「一夜にして全ての財宝を奪い、蔵を空にすること」だ。庭にぶち撒けられた山のような千両箱と宝石の群れ。これを朝が来る前に一残らず運び出さなければ、試練を達成したとは言えない。
「さて……いくらわしの身体能力が上がったとはいえ、この膨大な財宝をわし一匹で運ぶのは骨が折れる。……出番じゃぞ、お前たち!」
狐は前足を口元に当て、ヒュッと甲高い口笛を吹いた。
直後、屋敷を囲む鬱蒼とした裏山の影から、幾筋もの不気味な気配が湧き出してきた。
シュシュシュ……ッ!
現れたのは、かつて第3の試練(雷雲の怪鳥)の際に、狐の強烈なハッタリとカリスマによって巻き込まれ、共に太鼓や爆竹を叩き鳴らした山の中の下級妖怪たち——タヌキやイタチの化け物、一つ目小僧、烏天狗、そして木こりの妖怪たちであった。
「待っていたポン! 狐の親分!」
「ヘヘッ、親分からの合図だ! おい野郎ども、残らずかき集めろ!」
妖怪たちは影から影へと音もなく滑り込むと、金蔵が狂ったように庭へ投げ捨てる小判や千両箱、宝石の入った袋を、見事な手際で次々と拾い集め始めた。
金蔵は幻覚の恐怖で視界が激しく歪んでいるため、足元をすばしっこく駆け回る妖怪たちの姿など視認できていない。用心棒たちもまた、庭に乱れ飛ぶ小判の眩しさと主人の奇行に毒され、足元を通り抜ける「黒い影たち」に気付く余地すら無かった。
千両箱が一つ投げ捨てられるたびに、タヌキたちがヒョイと担ぎ上げて山の中へと姿を消す。
小判の袋が転がるたびに、烏天狗が空から滑空してきて爪で引っ掴み、夜空へと消えていく。
まるで、巧みな手品を見ているかのような、息の合った全額回収の手際。
「よし! そのまま山の裏手へ運べ! そして……貧しい者たちの家に、上空から残らず投げ落としてやるのじゃ!」
狐は屋根の上から指示を出した。
妖怪たちは山を越え、金蔵によって暴利を貪られ、家や土地を奪われて極貧の生活を強いられていた麓の貧民街へと向かった。
そして、まだ静まり返っている村々の上空から、かき集めた金銀財宝を、まるで恵みの雨のように豪快に降らせ始めたのだ!
ジャラジャラジャラァッ! ドスン!
貧しい農民たちのあばら家の庭先に、屋根の上に、重厚な千両箱が落ちていく。
小判がジャラジャラと瓦を叩く音に、驚いた村人たちが着の身着のままで飛び出してきた。
「な、なんだ!? 空から小判が降ってきたぞ!?」
「千両箱だ! おい、本当だ! 金蔵の奴から奪われた金だぁぁっ!」
「神様……いや、お稲荷様のお恵みだ! これで子供に飯を食べさせてやれる! 借金が返せるぞぁぁっ!」
極貧に喘いでいた人々は、涙を流して抱き合い、空に向かって何度も拝み倒した。
金蔵という一人の強欲な悪徳高利貸しが溜め込んでいた悪銭が、一夜にして何百人もの貧しい人々を救う命の水へと姿を変えた瞬間だった。
そして——時が流れ、東の空がほの暗く白み始めた頃。
金蔵の屋敷の庭は、惨憺たる有様となっていた。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ッ!」
蔵の中身をすべて放り出し終えた金蔵は、冷たい石畳の上に泥のように倒れ伏していた。
全身は汗と泥で汚れ、豪華な着物はビリビリに破れ、息も絶え絶え。
そして、彼が必死の思いで解錠した黒塗りの巨大な蔵の中を覗き込めば——。
そこには、千両箱ひとつ、宝石ひとつ、銀貨一枚すら残されていなかった。
見事なまでに、完璧に、一晩にして「空っぽ」にされていたのだ。
「あ……あぁ……わしの……わしの財産が……」
錯乱からようやく冷めかけた金蔵は、空っぽになった蔵と、手元に何も残っていない現実を目にして、血の気の引いた顔で震え上がった。
命は助かった(と思い込んでいる)。
しかし、彼がこれまで他人の肉を喰らい、血を啜って集め重ねてきた膨大な財宝は、すべて影も形もなく消え去っていた。
庭に転がっていた用心棒たちも、朝の光の中で空の蔵を見て絶句している。
「旦那様……財宝が……すべて消えております……」
「そんな……まさか、一夜で全部……!?」
「あぁぁぁぁぁぁぁっ……! わしの金ぇぇぇ! わしの宝がぁぁぁぁぁっ!!」
金蔵は髪をかきむしり、天を仰いで狂ったような悲鳴を上げた。
悪行を重ね、他者を虐げて肥やしてきた強欲な男に下された、これ以上ない無惨で残酷な報い。命を残されたことこそが、彼にとって一生の地獄の始まりであった。
その哀れな悲鳴を、高みの見物と決め込んでいた小狐は、爽快感たっぷりの顔で聴き下ろしていた。
「ハハッ! 自業自得じゃな、金蔵! 自分の命と引き換えに財宝を捨てたのじゃ、命があっただけ感謝するが良いわ!」
狐は軽やかに屋根の上で立ち上がった。
神から与えられた「一夜にして全財宝を奪い、蔵を空にする」という第4の試練は、完璧に、そして最高の形で達成されたのだ。
その瞬間——。
ドクンッ!!
背中の根元から、これまでの試練を遥かに凌駕する濃密で熱い妖力の波が跳ね踊った。
「あぐっ……!? きた……きたぞいっ!」
狐はその場に四本足を突き、背中を丸めた。
体内の妖力が渦を巻き、骨がミシミシと鳴り、細胞の隅々までが黄金の光を帯びて書き換えられていく。
四本の尾のさらに隣。背中の皮がメリメリと音を立てて裂け、圧倒的な存在感を放つ新たなエネルギーの根元が形作られていく。
ポンっ!!
可憐で、重厚で、空間そのものを震わせるような澄んだ音が早朝の空に響き渡った。
生えてきたのは、毛先が神秘的な瑠璃色に輝き、揺れるたびに周りの光を屈折させる【5本目の尾】!
ゆらり……ゆらり……。
背中に生え揃った五本の尾が、優雅に扇のように広がり、神聖なオーラを纏ってゆらめいた。
「尾が……! 尾が五本になったぞ……っ!!」
狐は歓喜の声を上げた。
体内に満ちる妖力は、もはや並の大妖怪を遥かに超え、準神級の域へと足を踏み入れようとしていた。
狐が五本目の尾をゆらりと動かした、その時である。
フッ……。
狐の目の前の空間が、まるで水面に波紋が広がるかのように、ゆらりと「歪んだ」。
「ぬ……? これは……!?」
狐が意識を集中させると、己の身の回りの空間がわずかに湾曲し、光の屈折が変化した。
ただの煙による化かしではない。ただの視覚騙しの幻術でもない。
【5本目の尾】が生えたことにより、狐は『空間を少し歪める変化の術』を獲得したのだ。
空間そのものを僅かに歪ませることで、攻撃の軌道を物理的に逸らしたり、己の姿を空間の隙間に隠したり、さらには変化の術の精度を「物質の次元」で変化させることができるという、極めて高度な妖術である。
「空間を……歪める変化……! すごすぎるぞ! わしの化け術が、ついに世界そのものに干渉し始めたんじゃ!」
狐は己の五本の尾を愛おしそうに撫で回し、朝日に向かって高らかに胸を張った。
たった一本の尾しか持たず、山道で坊主に返り討ちにされて瀕死で転がっていたショボい小狐。
それが今や、五本の尾を従え、幾多の死線と過酷な試練を智略とハッタリで乗り越えてきた、名実ともに強大な大妖怪へと成長を遂げていた。
朝日が昇り、町を黄金色に染め上げていく。
貧しい村人たちの歓声と、一文無しになった富豪の泣き叫ぶ声が混ざり合う中、五本尾の化け狐はニヤリと不敵に笑い、朝の光の中へと颯爽と跳んでいくのだった。




