第十四話:呪縛の黒蔵と、封じられた暴力
夜の帳が、すっかり町を覆い尽くしていた。
昼間の熱気が嘘のように冷め、湿った夜風が富豪・金蔵の屋敷を通り抜けていく。しかし、その広大な屋敷の敷地内には、重苦しい緊迫感が静まり返っていた。
「おい、油断するなよ。今夜は月が陰っている。盗人や妖怪の類が動きやすい夜だ」
「へい! ですが頭、この蔵に手を出せる命知らずなど、この世にいるはずもありませんよ」
松明の火がちらちらと揺れる中、塗笠をかぶり、鋭い槍を手にした用心棒たちが敷地内を巡回している。その数、ゆうに数十人。それもただの町道場の門下生ではない。どこかの藩を追われた凶悪な浪人や、腕に覚えのある凄腕の傭兵たちだ。
その巡回網の頭上——屋敷の敷地を囲む巨大な蔵の屋根の陰に、一匹の小狐が影のように身を潜めていた。
「ふむ……巡回の手が込み入っておるな。だが、この程度の人間どもの目を盗むなど、今のわしには朝飯前じゃ」
狐は背中に揺れる【4本目の尾】を静かに引き締めた。
かつての弱小な化け狐なら、用心棒の一人に気付かれただけで悲鳴を上げて逃げ出していたことだろう。しかし今の狐は、第三の試練を経て「風と雷の妖術」を身につけ、さらに格段に向上した隠密の術を体得している。
狐は前足をひと振りし、息を吐くように極小の風の術を発動させた。
無音の微風が用心棒たちの足元をかすめ、落ち葉をカサリと揺らす。
「ん……? なんの音だ?」
「猫でも横切ったんだろう。気にするな」
用心棒たちの視線がほんの一瞬、明かりの届かない闇の奥へと逸れた。
その僅かな隙を、狐は見逃さない。
シュッ——!
気配も音もなく、影が空間を滑るように躍動する。
狐は用心棒たちの頭上を軽やかに跳び越え、屋敷の最奥、小高い丘の上に鎮座する巨大な黒塗りの「蔵」の直近へと一瞬で侵入してみせた。
「へへん、まずは第一関門突破じゃな。人間どもの警備など穴だらけじゃ」
狐は影の中に身を小さく丸め、ニヤリと得意げに口元を歪めた。
目の前に立ちはだかるのは、金蔵がその生涯をかけて集め込んだ財宝が眠る、高さ十メートルはあろうかという漆黒の巨大な蔵だ。壁面は分厚い漆喰で塗り固められ、重厚な観音開きの鉄扉には、大人が抱えるほど巨大な金色の錠前が厳重に降ろされている。
「さて……問題はこの『絶対に破れない蔵』とやらじゃな」
狐は蔵の壁面へと静かに近づいた。
四本目の尾に妖力を込め、五感を極限まで研ぎ澄ます。
すると——目には見えない「世界の裏側」の光景が、狐の視界に色鮮やかに浮かび上がってきた。
「ぬ……っ! これは……想像以上じゃぞ……!」
狐は思わず息を呑んだ。
蔵の周囲には、半透明の幾重もの「光の膜」が、まるで巨大な繭のようにびっしりと張り巡らされていた。
ただの結界ではない。壁面には赤や黒の粘着質な墨で、古今東西の怪しげな防護の呪文や呪符が隙間なく書き込まれている。さらには蔵の四隅に設置された小さな祠から、黒々としたおぞましい邪気の脈動が漂っていた。
金蔵が国一番の陰陽師や呪術師たちに巨額の金を払い、幾重にも施させたという「防御呪術の極致」だ。
(ふん……だが、わしは雷雲の怪鳥を打ち落とした四本尾の化け狐じゃぞ。これしきの結界、わしの妖力で穴をあけてやれば——)
狐は右の前足の爪に、紫色の鋭い「雷の妖術」をバチバチと集中させた。
強力な局所穿孔の一撃。この爪で突けば、分厚い鉄板すら豆腐のように容易く貫くことができるはずだ。
狐は狙いを定め、結界の膜の最も薄そうな部分へ向けて、静かに爪を突き立てた。
ズシャッ!
——その瞬間だった。
ジュワァァァァァァッ!!!!!
「あぐっ……!? あ、熱い、熱いっ……!?」
狐は弾かれたように跳び退き、右手前足を必死に振り回した。
爪が結界の膜に接触したコンマ一秒の間に、結界全体がぐにゃりと歪み、凄まじい逆流の波となって「紫の呪殺の炎」が狐の爪を焼きにかかったのだ。
二本目、三本目の尾の強化によって強い抗体と防御力を得ていたからこそ火傷程度で済んだものの、もし全身で突っ込んでいれば、体内の妖力を丸ごと逆流させられ、内側から爆発させられていたところだった。
「なんじゃこの結界は……!? 外からの妖力を完全に反射・吸収しおる!」
狐は冷や汗をダラダラと流しながら、自分の爛れかけた前足の爪を見つめた。
狐の妖術——狐火、雷、風、そして精巧な幻術の波動。
そのいずれもが、この結界に接触した瞬間に無効化されるか、凶悪な呪いの反動となって打ち返されてくる仕組みになっているのだ。妖力を使った侵入や破壊は、ハッキリ言って100%不可能だった。
「くそっ……! 妖術が通じぬなら、物理的な力づくで壊せばいいまでのこと!」
狐は歯を食いしばり、四本尾の「強化された腕力」を全開にした。
第一の試練で大蛇の急所を穿ち、第三の試練で怪鳥の雷電核を砕いた、岩をも粉々に砕く超絶的な物理打撃力。これならば、いくら呪術の結界があろうと、蔵の壁そのものを外側から力任せに打ち砕いて侵入できるはずだ。
狐は前足を固く握り締め、蔵の裏手にある分厚い漆喰の壁へ向けて、渾身のストレートを叩き込もうと振りかぶった——。
——だが、その拳が壁に激突する寸前。
狐の鋭い五感が、蔵の四隅から発せられている「異様な仕掛け」の存在を捉え、ピタリと拳を止めた。
「……むっ!?」
よく見れば、結界の内部には、無数の細い「音の呪線」が網の目のように張り巡らされていた。
その呪線は、蔵の屋根の上に設置された「巨大な銅鐘」と、さらには屋敷の外、町の中に位置する「奉行所」や「警備の詰所」の警鐘へと、直接繋がっていたのだ。
(しまっ……! もしこの壁に物理的な衝撃を与えて破壊すれば……!)
狐の頭の中で、恐ろしい光景が瞬時に弾き弾き弾き出された。
壁を叩き割ったその瞬間に、衝撃を感知した結界が音の呪線を跳ねさせ、町中に大音量の「警告の鐘」を鳴らし響かせる。
屋敷を巡回する数十人の用心棒だけでなく、町中に配置された百人以上の警備兵、強力な呪術師たち、さらには奉行所の捕方までもが一斉にこの丘へと押し寄せてくるだろう。
そして、この屋敷と町全体が重厚な包囲網によって完全に封鎖される。
いくら四本尾の力を得た狐とて、百人以上の人間と術者たちに囲まれ、町全体を封鎖されれば、財宝を盗み出すどころか、己の身を逃がすことすら極めて困難になるのは目に見えていた。
「物理的な破壊も……ダメじゃと……!?」
狐は振りかぶった前足を、力なくダラリと下ろした。
妖術による浸透は、結界の反照によって完全に拒絶される。
物理的な力任せの突破は、町全体の警報装置を起動させ、一瞬で包囲されて終わる。
正面突破も、裏口からの侵入も、屋根からの破壊も、全ての手が完璧に塞がれていた。まさに神の言った通りの「絶対に破れない蔵」。
「……ハ、ハは……。なんだこれは……。どうしろと言うんじゃ……」
狐はがっくりと肩を落とし、地べたにへたり込んだ。
これまで乗り越えてきた試練は、どれほど強力な敵であっても「直接戦う」か「環境を利用する」ことができた。
大蛇には自滅の酒を、巨猪には底なしの落とし穴と狭い岩場を、怪鳥には三半規管を狂わせる大音響を。
しかし、今回の相手は生き物ではない。意思を持たない「無機物の蔵」であり、その防御システムは隙のない完璧なロジックで構築されていた。
(無理じゃ……。外から破ることもできん、壊すこともできん。こんなもの、どうやって一夜で中身を空にしろと言うんじゃ……!)
暗闇の中、狐の背中の四本の尾が、焦燥と絶望で細く細く震えていた。
夜は刻一刻とけていく。
東の空が白む「朝」が来れば、その時点で試練は失敗となり、神の延命処置は途絶え、狐の肉体は再び崩壊の地獄へと叩き落とされることになる。
刻限までの時間は、あと数時間。
絶対不可侵の黒塗りの蔵を前に、四本尾の化け狐は、完全なる手詰まりの壁にぶち当たっていた。




