第十三話:黄金の錠と、奇妙な命
豪雨と雷鳴が支配していた世界は霧散し、鼻腔を突いたのは湿った泥の臭いではなく、炒めた胡麻油と香辛料、そして大勢の人間が行き交う活気と饐えた熱気だった。
視界が明瞭を取り戻す。
そこに広がっていたのは、夕闇に包まれ始めた大きな町の裏路地だった。軒を連ねる瓦屋根、軒先に下げられた赤い提灯、威勢のいい行商人の声や酒場から漏れ出る笑い声。第一から第三の試練まで、猛毒の沼、神域の深山、嵐の荒野と、大自然の過酷な怪異と対峙してきた狐にとって、人間たちの賑やかな営みの中に放り出されたのは、あまりにも突如であり異質だった。
「ここは……人間の町か?」
小狐は路地の陰でトッと軽やかに着地した。
背中には、ゆらりゆらりと誇らしげに揺れる【4本目の尾】。
第一の試練で二本、第二で三本、そして第三の試練で雷雲の怪鳥を撃ち落としたことで手に入れた四本目の尾。体内に満ちる妖力は以前の比ではなく、その気になれば指先一つで紫電を放ち、一息で鋭利な風の刃を巻き起こすことすらできる。身体能力に至っては、屋根から屋根へと影のように飛び移れるほどに洗練されていた。
「へへん、尾が四本にもなれば、もうそこらの大妖怪にも引けを取らんぞ! 次はどんな大怪獣じゃ? 海を割る大タコか? 山を動かす大ダイダラボッチか? 今のわしの風と雷の妖術なら、まとめて返り討ちにしてやるわい!」
狐は四本の尾を広げ、ノリノリで前足を握り締めた。
これまでの極限の死闘を乗り越えてきた自負がある。どんな強力な怪異が相手だろうと、今の己の妖力と化け術、そしてハッタリの冴えがあれば恐れるものなど何一つないはずだった。
『相変わらず、調子に乗るのが早い奴だな』
頭上から、すっかり聞き慣れたあのアイスピックのように冷徹で、それでいて重厚な声が降ってきた。
「神様か!」
狐が跳ね上がるように視線を上に向けると、路地の屋根の上に、後光を背負った神が静かに佇んでいた。夕暮れの街並みの中で、その神聖な姿は周囲の人間たちには一切見えていないらしく、下を行き交う人々は何事もないように通り過ぎていく。
「待っておったぞ! さあ言ってみよ、後半戦の最初の相手、第4の試練の『バケモノ』はどこにおるんじゃ!?」
鼻息を荒くする狐に対し、神はくすりと愉悦に満ちた笑みを漏らした。
『フッ……力づくの戦闘に味を占めたか、小狐。だが、残念だったな。後半戦の幕開けとなる『第4の試練』に、倒すべき怪異など存在せん』
「……ぬ? 怪異がおらんとな?」
狐は首をかしげ、四本の尾をピクピクと揺らした。
『そうだ。お前に課す第4の試練は……『泥棒』だ』
「ど、泥棒ぉぉぉっ!?」
思わず叫びそうになり、狐は大慌てで自分の口を前足で押さえた。幸い、路地の喧騒にかき消されたらしく、通行人に怪しまれることはなかった。
「正気か神様!? わしは大妖怪への道を歩んでいる化け狐だぞ! なぜ人様の懐を狙うような、コソ泥みたいな真似をせねばならんのじゃ!」
『黙って聞け』
神の冷ややかな一言で、場の空気が凍りついた。狐は「ヒッ」と縮こまる。
『この町の中心に、町一番の悪徳高利貸しであり、強欲の権化と呼ばれる『富豪・金蔵』という男が住んでおる。奴は貧しい村人や町人に暴利で金を貸し付け、家も土地も、果ては子供すら売り払わせて財を肥やしてきた下劣な人間だ』
「ほう……なるほど、ロクでもない奴じゃな。そいつをわしの雷で黒焦げにしてやればいいのか?」
『違うと言っているだろう。殺すことなど誰にでもできる』
神の指先が、町の中央に聳え立つ異様に広大な屋敷の方角を指し示した。
『金蔵の屋敷の奥には、奴が長年集め込んできたあらゆる財宝を収めた巨大な『蔵』がある。……その蔵から、今夜の一夜のうちに『全ての財宝』を盗み出し、空にしてみせよ。これが第4の試練だ』
「財宝を……一晩で全部空にする……?」
狐は拍子抜けした顔をした。
「なんじゃ、そんなことか。今のわしなら、夜陰に紛れて蔵の屋根を壊すなり、壁を雷で吹き飛ばすなりして、中の宝を運び出せば一瞬で終わるではないか。第一の試練の大蛇や第三の試練の怪鳥に比べれば、あまりにも温い試練じゃな!」
『フフフ……だから甘いと言っているのだ、小狐』
神の笑みが、いっそう深くなった。
『金蔵は己の財宝を何よりも愛しておる。それゆえ、その蔵には国一の呪術師や陰陽師を雇い入れ、古今東西のあらゆる防御呪術と強力な結界を張り巡らせておるのだ。その結界は、どんな強力な妖術や魔法も弾き返し、物理的な破壊すら一切寄せ付けん』
「ぬ……? 結界じゃと?」
『それだけではない。もし力づくで結界や蔵を壊そうと叩けば、その瞬間に結界が反応して町中に大鐘の警告音が響き渡り、屋敷を囲む百人以上の武装した警備兵と強力な術者たちが一斉に押し寄せる。さらには町の治安を司る奉行所の捕方までもが集結し、町全体が厳重に封鎖される仕組みになっている』
「な……ッ!?」
『つまり、力任せの破壊も、妖術による強行突破も一切不可能。傷一つつけず、見つかることもなく、あの絶対に破れない蔵を開け放ち、一夜にしてすべての財宝を運び出さねばならん。……さて、四本目の尾を得た『大妖怪の雛』よ。この奇妙な試練、どう突破する?』
神はそう言い残すと、夕闇の空へと滑らかに溶けるように姿を消した。
「ま、待て神様! 一夜で全部って、物理的にどう運ぶかという問題も——!」
狐の叫びは、夜の風にかき消された。
「くそっ……! 毎回毎回、無茶振りばかりしおってからに!」
狐は悪態をつきながら、四本の尾を力なく垂らした。
だが、愚痴を言っている暇はない。神の命は絶対だ。一夜限りという期限までつけられている。
「まずは……その『破れない蔵』とやらを拝んでやろうではないか」
狐は四本尾の脚力を生かし、影から影へと音もなく跳び移りながら、町の中央に位置する金蔵の屋敷へと向かった。
やがて辿り着いた富豪金蔵の屋敷は、まるで小さな城塞のようだった。
高い石垣と漆黒の板塀で囲まれ、門前には目つきの鋭い用心棒たちが眼光を光らせている。そして、その広大な敷地の最奥——小小高い丘の上に、異様な存在感を放つ巨大な黒塗り塗りの「蔵」が鎮座していた。
狐は屋敷の裏手にある巨木の枝に身を潜め、蔵をじっくりと観察した。
【4本目の尾】によって研ぎ澄まされた狐の五感が、蔵の異様さを即座に捉える。
蔵の周囲の空気は重く歪み、目に見えない半透明の「呪術の膜」が幾重にも重なって蔵全体を丸ごと包み込んでいた。
極彩色の符がびっしりと貼られた重厚な観音開きの扉。
壁面にはびっしりと古代の防護文字が刻まれ、近づくだけで肌がピリピリと痺れるような強力な結界の波動が漂っている。
(なるほど……神様の言った通りじゃな)
狐は冷や汗を拭った。
ためしに、狐は落ちていた小さな小石にほんのわずかな妖力を込め、弾丸のように結界へ向けて弾き飛ばしてみた。
カチッ。
小石が結界の膜に触れた瞬間——。
ジュッ!! ドガーンッ!
眩い紫色の放電が走り、小石は一瞬で影も形もなく蒸発した。同時に、結界が小さく微振動を起こし、蔵の警備に当たっていた術者たちが「誰か近づいたか!?」と殺気立って走り回る気配が聞こえてきた。
「ひぃっ……!? 小石ひとつでこれか!?」
狐は大慌てで木の葉の陰に身を隠した。
まさに鉄壁。絶対防衛。
外からの物理的な破壊も、妖力による穿孔も一切受け付けない。それどころか、下手に手を出せば一瞬で感知され、百人の用心棒と術者たちに包囲される。
しかも、中の財宝は千両箱が数百箱、骨董品や宝石が山積みになっているという。それを「一晩」で「全て」運び出さなければならないのだ。
(力押しは使えん。妖術での強行突破も無理。見つかれば即終了……。そして明日の朝までに蔵を空にせねばならん……)
あまりにも理不尽で、条件が厳しすぎる奇妙な試練。
だが、暗闇の中で巨木の枝に潜む化け狐の口元は、次第にニヤリと陰惨に歪んでいった。
「絶対破れない蔵、か。……ふふ、面白くなってきたのう。外から破れぬなら……中から開けさせればいいだけの話じゃ!」
四本の尾をゆらりと揺らし、知略とハッタリを研ぎ澄ませた狐の「一夜の大強盗作戦」が、静かに幕を開けようとしていた。




