日常
2人の日常です。
午後8時30分、彰は勤務先である市役所から退勤し、帰路についていました。
彰と栞が居住するのは、地方の政令指定都市で、市役所の規模も相応です。
市役所もそれなりに人はいるものの慢性的な人手不足のため、残業はいつものことでした。
駅の改札を出た瞬間、彰のスマートフォンのバイブレーションが一度だけ作動しました。
画面には栞からのメッセージが表示されています。
『彰さん。駅の北口から自宅までの徒歩ルートにおいて、現在、街路樹の剪定作業が行われており、歩道が一部制限されています。南口から迂回するルートを選択した場合、所要時間は2分増加しますが、接触事故の確率は0.04パーセント低下します。南口からのルートを選択してください』
彰はスマートフォンの画面を見つめたまま、足を止めました。
栞がなぜ自分の現在の位置と、駅周辺の工事状況をこれほど正確に把握しているのか。
その理由は明白でした。
彰のスマートフォンにインストールされている位置情報共有アプリの権限が、常に許可状態になっているためです。
彰自身が設定を変更した記憶はありませんでしたが、そこは重要ではありませんでした。
彰は指示通りに南口へ向かいました。
論理的に危険を回避できる選択肢がある以上、それに逆らう理由は見当たらなかったからです。
そして、これはいつからか、いつものことになっていました。
自宅の玄関を入ると、栞が廊下に立っていました。
彼女は彰の上着を受け取り、ハンガーに掛ける動作を流れるように行いました。
「おかえりなさい、彰さん。予定時刻より3分遅い到着ですが、迂回ルートの所要時間と一致しているため、計算通りです」
「ただいま。それは何よりだね。それと栞、一つ聞きたいことがあるんだけど。大学の同期の佐藤から栞宛に連絡があったりはしなかった?一度会ったことがあるよね?彼と今週の土曜日に会う約束をしていたんだけど、詳細の連絡が来なくてさ。誘ってきたのは佐藤なのに」
栞は彰の靴を揃えながら、淡々と答えます。
「佐藤さんからの連絡は、私の端末で受信し、処理しました。土曜日の面会はキャンセルとなりました。私と出かけましょう。血圧の件もありますから。」
彰はリビングに向かう足を止め、栞を振り返りました。
「処理って具体的にどういう意味?出かけるのはやぶさかじゃないけど。」
栞も足を止め、じっと目を合わせながら答えます。
「佐藤さんの直近3ヶ月のSNSにおける投稿、および交友関係を分析した結果、彼は現在、複数の消費者金融から債務を抱えている可能性が八十二パーセントの確率で示されました。よって、彼が彰さんに接触を図った理由は、新たな資金調達の依頼、つまり借金の申し込みであると結論付けられました。彼と接触することは、彰さんの資産防衛における重大なリスク要因となります。そのため、私は佐藤さんに対し、彰さんが現在多忙であり、今後の交友を辞退する旨のメッセージを、彰さんの名義で送信しました。その後、彼の連絡先はブロックリストに登録されています。確認してもらっても構いません。」
彰の心拍数が上昇しました。
衣服のポケットにあるスマートフォンの発信履歴や通信ログを確認するまでもなく、栞の言葉が真実であることは直感的に理解できました。
「それは…」
「人間関係とは、相互の資源の交換によって成立するシステムです。佐藤さんは彰さんに負担を強いるのみで、対価となる資源を提供しません。そのような非対称な関係は、彰さんの精神的および経済的健康を阻害します。私は彰さんの環境から、有害な不純物を排除しているだけです」
栞の言葉には、害意が含まれていませんでした。
彼女の顔には、正当な業務を完璧に遂行した職人のような、平坦な充足感だけが存在していました。
目には、彼女の意思が宿っています。
「もし、僕がそれでも佐藤と会いたいと言ったらどうするの」
彰が問いかけると、栞は彰に一歩近づきました。
物理的な距離が狭まり、彼女の体温が感知できる距離になりました。
栞は彰の瞳をじっと見つめ、右手の人差し指を彰の胸元へ当てました。
「その場合は、彰さんの判断能力が低下していると判断せざるを得ません。判断能力の低下した彰さんを保護するためには、行動の自由を物理的に制限する措置が必要となります。仮定の話なのでこれ以上は述べません。ですが、彰さんが、健康で安全であるためなら、私は、どのような、手段も、選択します」
最後は、強調するような、何かを確認するような、そんな言い方でした。
彼女の目は、一切の揺らぎなく、彰を見つめています。
そこには狂気と呼ばれるような感情の爆発はなく、ただ徹底された合理性と、彰に対する絶対的な執着だけが、静かに凝固していました。
彰は無言で自分の部屋に入り、ベッドに横たわりました。
天井を見上げると、火災報知器の脇に、ここで生活を始めた当初には見られなかった微小なレンズが、夜のわずかな光を反射しているのが見えました。
レンズは静かに彰の姿を捉えていました。
彰は奇妙な安堵感を覚えていました。
この部屋にいる限り、彼は二度と他者に騙されることもなく、事故に遭うこともなく、経済的に困窮することもないのでしょう。
すべての選択は栞によって最適化され、彼はただそのレールの上を歩むだけで、完全に保護された人生を全うできるという何かがそこにあるようでした。
部屋のドアが静かに開き、栞が温かい牛乳の入ったマグカップを持って入ってきました。
「体温を適切に上昇させ、睡眠の質を高めるためのミルクです。これを飲んで、午後11時15分までに消灯してください。明日の彰さんのパフォーマンスを維持するために必要な措置です」
彰はカップを受け取り、一口飲みました。
温度は正確に60度でした。
このカップも、牛乳も、栞が買ってきたものです。
栞はベッドの傍らに椅子を置き、彰が眠りにつく瞬間を見届けるために、静かに腰掛けました。
彰もそれを確認しました。
「おやすみ、栞」
「おやすみなさい、彰さん」
その視線は、夜が更けるまで逸らされることはありませんでした。




