彰と栞
それほどヤンデレではないかもしれません。
木下彰が自身の生活に内在する違和感に気づいたのはいつのことだったでしょうか。
今日は、✖︎✖︎年10月17日、現在の時刻は午前7時15分です。
机の上に置かれたスマートフォンの画面には、当日の最高気温が19度、最低気温が11度、降水確率が10パーセントであると表示されていました。
彰がクローゼットを開けると、最前列のハンガーには、ウール混紡のジャケットと、それに調和する灰色のスラックスが配置されていました。
これは、過去3年間において彰が気温19度の日に選択した衣服の統計データと完全に一致する組み合わせでした。
衣服を管理しているのは、同居人である長谷川栞です。
栞は彰よりも2歳年少の女性であり、民間企業でデータアナリストとして勤務しています。
彼女の行動には無駄がなく、日常のすべての挙動が論理的な規則性に基づいて実行されていました。
彰はクローゼットを閉じました。
彰が台所へ向かうと、食堂のテーブルの上には既に朝食が用意されていました。
白米が180グラム、焼き鮭が一品、ほうれん草のお浸しが50グラム、そして豆腐とわかめの味噌汁です。これは総カロリーが550キロカロリー、塩分が2.3グラムとなるよう計算された食事でした。
彰が椅子に座ると、栞は対面に座り、彰をじっと見つめました。
「彰さん、おはようございます」
「おはよう。今日も美味しそうだね。いただきます」
彰は味噌汁をすすり始めました。
彰が食べ始めるのを見届け、栞も自身のための同一の食事を口に運び始めました。
「今日の食事は、彰さんの先週の健康診断で指摘された血圧の数値を考慮して、塩分を前週比で15パーセント削減しています」
栞は視線を彰の目元に固定したまま、抑揚のない声で言いました。
その瞳には瞬きが少なく、彰の顔面の筋肉の動きを観察していることが見て取れました。
「ありがとう。少し薄味だけど、悪くないね」
彰が答えると、栞は手元にあるタブレット端末に何かを入力しました。
行儀が良いとは言えませんが、彰は何も言いません。
彰は食事を進めながら、ここ栞と同居して以降の、自分の身の回りで起きている事象を頭の中で整理しました。
第一に、紛失物が存在しなくなりました。
自宅の鍵、財布、定期券などの重要物品は、彰がそれを必要とする瞬間に、必ず視界の自然な位置に配置されていました。
第二に、他者からの連絡が減少しました。
特に、大学時代の友人や、以前交際していた女性からの電子メールや電話の着信が、過去半年間でゼロになっていました。
第三に、彰の銀行口座の残高が、毎月一定の割合で確実に増加していました。
彰自身は投資や貯蓄の配分を変更していませんでしたが、口座の管理画面を確認すると、適切な銘柄の投資信託が自動で購入され、配当金が再投資されていました。
彰は箸を置き、正面の栞を見つめました。
「栞、一つ確認したいことがあるんだけど」
「何でしょうか、彰さん」
「僕の株の投資用の口座って、何か触った?パスワードは教えてなかったと思うんだけど」
栞は焼き鮭を咀嚼し、完全に飲み込んでから口を開きました。
「はい。彰さんが3年前、マイナンバーカードの電子証明書用に設定した暗証番号の規則性と、ご自身の生年月日、およびスマートフォンのパスコードから、投資用の口座の暗証番号を推測することは容易でした。これももう少し複雑なものに変更した方がいいかもしれません。
投資についてですが、資産の不活発な放置は、年間で約2パーセントの機会損失を生みます。
私は彰さんの経済的利益を最大化する義務があります。」
「僕の同意を得ずに口座を操作するのは、法律上、適切な手続きじゃないと思うんだけど」
彰の指摘に対して、栞は表情を変えませんでした。
彰に栞を訴えるつもりは一切ありませんが、それを当然のことと思っているのか、また違う何かを考えているのか。
彰に栞の内心はまったく分かりませんでした。
栞は眉一つ動かさず、ただ客観的な事実を述べるように言葉を返しました。
「法律は社会の秩序を維持するための最低限の規則ですが、個人の幸福を最適化する上では必ずしも効率的ではありません。私がの行為の結果、彰さんの純資産は前年同月比で241万円増加しています。この事実は、私の行動があなたにとって有益であることを証明しています」
彰は彼女の言葉に反論する論拠を見出すことができませんでした。
利益が出ているという結果は確定しており、栞がその資金を私的に流用した形跡も皆無だったからです。
そのまま2人は無言で朝食を続けました。
しかし、決して嫌な時間ではありませんでした。
栞のすべての行動は、彰という個体の生存と繁栄のためにのみ費やされていました。
それほど長くならない予定です。




