「ベルネリ森林部・魔力暴走事故」side エルリック
母の仕事が終わるまで、エルリックは一人で時間を潰さなければならなかった。
商談に出かけた母は、約束の時間を過ぎても帰ってこない。
持ってきた本を二冊読み終えても、太陽はまだ高い位置にある。
散歩でもしようか、と思った。
宿の近くをぶらぶら歩いて、市場を通り抜けて、気がついたら街の外れまで来ていた。
前方に広がるのは、深い森。
中に入るつもりはなかったが、涼しげな木陰に惹かれ、その端にある切り株に腰を下ろす。
どこか懐かしい草の匂いと、遠くで鳴く鳥の声。
穏やかで、どこにでもある退屈。
でもそれは、悪いものではなかった。
そんなおり、変化は唐突に訪れる。
何の前触れもなく、森の奥から「何か」が押し寄せてきた。
それは音でもなく、目に見える形でもない。
ただ、空気の質が一瞬にして変わった。
魔力の揺らぎが急に大きくなり、何かが乱れている。
制御されていない、荒い魔力の波が、木々の間から押し寄せてくる。
エルリックは反射的に立ち上がった。
幼い頃から、人より少しだけ敏感に魔力の流れを感じ取ることができた。
この頃はまだそれが、嫌いではなかった。
それが自分の良いところだと思っていたから。だから今も、何が来ているのかを読もうとした。
——けれど、読めなかった。
量が多すぎて、乱れ方が激しい。
魔力の波が次々と重なって、何がどこから来ているのか判別できない。
次第に、頭の奥が痺れるような感じがしてきた。
逃げなきゃ、と頭では分かっている。
それなのに、足がどうしても動かない。
地面に、手をついた。
その瞬間、頭の中で何かが弾けたような感覚があって——
目の前が、暗くなった。
◇
気がついたときには、宿のベッドの上だった。
窓の外はすでに深い夜。
傍らで母が何かを話しかけてきているが、声が二重に響いてうまく聞き取れない。
頭が重く、奥のほうが鈍く痛んだ。
「エルリック、わかる?」
「……うん」
その一言が、精一杯だった。
翌日になっても頭の重さは消えない。
けれど、歩くことも、話すことも出来る。
良かった、大丈夫だ、と思った。
ベルネリを去り、自分の家に戻ってから数日が経った頃。
おかしい、と気付く。
何かをしようとしたとき——そのときは確か、窓を開けるのに手間取って、魔法で留め金を外そうとしたのだと思う。
それが、うまくいかなかった。
力が出なかったのではなく、何かが足りない、ずれている、という感じ。
「……なんで」
小さな声に、答える者はいなかった。
別のことを試してみても、以前は難なくできていたことが、成功するものと、失敗するものがある。
出来たことだって、「なんとか出来た」だけで、以前とは手応えが違った。
母には言わなかった。
言えなかった。
魔法が使えなくなったわけじゃない。
ただ、何かが変わってしまった。
あの日から、頭の奥の重さは消えない。
魔力の揺らぎを感じ取るたびに、奥のほうがじわりと痛んだ。
感じ取れてしまうことが、この頃から好きではなくなっていった。
なぜこうなったのかを知りたかった。
あの日、森の奥で何が起きたのか。
あの魔力の乱れは何だったのか。
なぜ自分がこうなったのか。
答えは、出ない。
出ないから、調べ続けた。
文献を読んだ。記録を漁った。魔力の暴走事例、制御不能になる条件、後遺症の記録。
手に入る資料は全部読んだ。
けれど、どれだけ時間を費やしても、ベルネリのあの日に関する答えは出てこない。
どうしても、知りたい。
ただそれだけの理由で。
エルリックは終わりのない調べ物を、今もずっと続けている。




