第1話「昨日まで、この壁は一枚だった」
最初に気づいたのは、壁紙だった。
ぱんでむの従業員通路には、白い壁が続いている。
少なくとも、こちら側ではそういうことになっている。
厨房の裏を抜け、冷凍庫と資材庫の間を通り、スタッフルームへ向かう途中。床は灰色。天井には蛍光灯。壁にはところどころ、油性ペンで書かれた注意書きが貼ってある。
『私物を世界線保管庫に入れないでください』
『冷蔵庫内の宇宙は食材です』
『死亡した場合はタイムカードを切ってから蘇生してください』
いつもの通路だった。
だから。
壁の途中から、花柄になっているのはおかしかった。
「…………」
秩序ちゃんは立ち止まった。
白い壁紙。
その途中。
縦に一本。
床から天井まで、髪の毛ほど細い線が走っている。
線の左側は、白。
右側は、淡いピンクの花柄。
ただそれだけなら、内装工事の途中にも見える。
問題は。
壁だけではなかった。
線は床にも続いていた。
灰色の業務用床材が、線を境にして木目へ変わっている。
天井も。
蛍光灯だったものが、右側では小さなシャンデリアになっている。
空気まで違った。
左側には、厨房から流れてくる油と肉の匂い。
右側には。
紅茶と、焼き菓子と、薔薇の香り。
「……誰ですか」
秩序ちゃんが言った。
「また内装を変えたのは」
返事はない。
インカムを取った。
「渾沌ちゃん」
『なによ』
「従業員通路を改装しましたか」
『してないけど』
「本当に?」
『なんで最初から疑ってんのよ!』
「実績です」
『ぐっ』
一秒で黙った。
「理性ちゃんは?」
『今日は経理。昨日からずっと事務所』
「夢幻ちゃん」
『寝てる』
「無常ちゃん」
『三十分前はいた。今は知らない』
それは「無常ちゃんだから」という理由だけで、ほとんど情報になっていなかった。
「わかりました。こちらで確認します」
『何があったの?』
「壁紙が変わっています」
『壁紙?』
「はい」
『…………』
少し間があった。
『それだけ?』
「今のところは」
『じゃ、忙しいから切るわよ』
「待ってください」
『なによ』
秩序ちゃんは右側を見た。
花柄の壁。
木目の床。
シャンデリア。
そして。
通路の奥。
昨日までスタッフルームの扉があった場所に。
見たことのない扉があった。
白い木製。
真鍮の取っ手。
小さなプレート。
そこには、丸みのある字体で書かれていた。
『PANDEMONIUM
STAFF ONLY♡』
「……店名の表記まで変わっています」
『は?』
「来てください」
『やだ』
「店長」
『行く』
通話が切れた。
◇
三分後。
「なにこれ」
渾沌ちゃんが言った。
「私が聞いています」
二人で線の前に立った。
渾沌ちゃんはしゃがんだ。
床の境界を指で触る。
「貼り替えたんじゃないわね」
「はい」
「床材そのものが違う」
「はい」
「境目は?」
「ありません」
「あるじゃない。ここ」
「見た目の話ではありません」
秩序ちゃんはしゃがんだ。
指でなぞる。
灰色の床と木の床。
色も、材質も、高さも違う。
なのに。
接合部分が存在しない。
普通なら、どれだけ精密に施工しても継ぎ目が残る。
接着剤。
切断面。
段差。
素材の変形。
何かがある。
しかし、これは違った。
灰色の樹脂が。
ある一点を越えた瞬間。
最初から木材だったことになっている。
「……変ね」
渾沌ちゃんが言った。
「そうですね」
「壊す?」
「なぜ最初の選択肢がそれなんですか」
「調べられるじゃない」
「調査と破壊を同義語にしないでください」
秩序ちゃんは壁に手を当てた。
目を閉じる。
存在純度を読む。
壁。
正常。
床。
正常。
天井。
正常。
花柄の壁。
正常。
木の床。
正常。
シャンデリア。
正常。
扉。
正常。
「…………?」
「どうしたの」
「全部、正常です」
「じゃあいいじゃない」
「よくありません」
秩序ちゃんはもう一度測定した。
結果は同じ。
異物ではない。
侵入物でもない。
幻覚でもない。
改竄痕もない。
世界線由来の付着物でもない。
左側も、右側も。
完全に。
ぱんでむの一部だった。
「……右側も、施設として認識されています」
「ふうん」
渾沌ちゃんが線を跨いだ。
「ちょっと」
「平気よ」
一歩。
右側へ。
何も起きない。
二歩。
花柄の壁に囲まれた渾沌ちゃんが振り返る。
「ほら」
「勝手に入らないでください」
「通路でしょ?」
「正体不明の通路です」
「でもぱんでむなんでしょ?」
「それが問題なんです」
秩序ちゃんも線を跨いだ。
その瞬間だった。
インカムが鳴った。
『秩序ちゃん?』
厨房からだった。
「はい」
『どこにいるの?』
「従業員通路です」
『どこの?』
「冷凍庫と資材庫の間です」
沈黙。
『そんな通路、ないよ?』
秩序ちゃんは止まった。
「……何を言っているんですか」
『スタッフルームなら厨房の奥でしょ?』
「位置が違います」
『え?』
秩序ちゃんは渾沌ちゃんを見た。
渾沌ちゃんも聞いていた。
「厨房の構造図を確認してください」
『ちょっと待って』
数秒。
『うん。冷凍庫の横は壁だよ』
「…………」
秩序ちゃんは後ろを振り返った。
線の向こう。
白い壁。
灰色の床。
蛍光灯。
さっきまで歩いてきた通路。
全部ある。
「こちらには通路があります」
『え?』
「私と渾沌ちゃんがいます」
『渾沌ちゃんも?』
「いるわよ」
渾沌ちゃんが横から答えた。
『でも渾沌ちゃん、さっき店長室にいたよね?』
「三分前までね」
『違うよ』
声が困惑した。
『今もいるよ』
二人とも。
黙った。
渾沌ちゃんが、ゆっくりインカムへ顔を寄せた。
「……誰が?」
『渾沌ちゃん』
「私?」
『うん』
「どこに?」
『店長室』
渾沌ちゃんが笑った。
「へえ」
秩序ちゃんが睨んだ。
「面白がらないでください」
「だって面白いじゃない」
「あなたはそれで世界を固定するでしょう」
「まだしてないわよ」
「まだ、という言葉が一番怖いんです」
通話の向こうで声がした。
『あ』
「どうしました」
『店長室の渾沌ちゃんが、こっち見た』
雑音。
『なんか言ってる』
「何と?」
『えっと……』
しばらくして。
『「私はずっとここにいる」って』
通信が切れた。
◇
二人は線の前まで戻った。
今度は跨がない。
境界を見る。
「秩序ちゃん」
「はい」
「これ、別世界線?」
「その反応はありません」
「コピー?」
「複製なら存在純度に差が出ます」
「過去?」
「時間差もありません」
「じゃあ何?」
「わかりません」
渾沌ちゃんが少し嬉しそうな顔をした。
「珍しいわね」
「何がですか」
「あなたが『わかりません』って言うの」
「今それを楽しむ必要がありますか?」
「ある」
「ありません」
秩序ちゃんは壁を見る。
左。
白。
右。
花柄。
どちらも本物。
どちらも、ぱんでむ。
そして厨房側では。
そもそもこの通路自体が存在していない。
矛盾している。
なら。
本来は存在純度が下がる。
世界は、矛盾を嫌う。
同じ場所に二つの異なる事実があれば、どちらかが偽物になる。
あるいは、世界線として分離される。
なのに。
これは。
どちらも100%だった。
「……渾沌ちゃん」
「なに」
「線そのものを測ります」
「線?」
「壁でも床でもありません」
秩序ちゃんは指を伸ばした。
白と花柄の。
ちょうど境界。
そこへ触れようとした。
指先が。
消えた。
「…………」
「…………」
二人とも固まった。
手首から先がない。
「秩序ちゃん」
「待ってください」
「痛い?」
「ありません」
「動く?」
「感覚はあります」
秩序ちゃんは指を曲げた。
見えない。
だが。
何かに触れた。
紙。
いや。
薄い板。
指先で摘まむ。
引いた。
境界から。
一枚の紙が出てきた。
真っ白な紙だった。
中央に、文字だけが印刷されている。
二人で読む。
『接続確認票』
その下。
『接続元世界:正常』
『接続先世界:正常』
『翻訳形式:正常』
『施設実在:正常』
『観測整合:正常』
さらに下。
『継ぎ目:露出』
赤字。
『処理状態:未処理』
渾沌ちゃんの表情から笑みが消えた。
「……これ、誰の書類?」
「わかりません」
「M社?」
「書式が違います」
「じゃあ、ぱんでむ?」
「施設が書類を書くんですか」
「知らないわよ」
紙の一番下。
小さな文字があった。
秩序ちゃんが読む。
『注意』
『同一施設の複数実在形態が同時観測された場合、観測者による単一化を行わないこと。』
次。
『いずれも真正である。』
次。
『継ぎ目を閉鎖すると、接続中の一方が』
そこで。
文章が途切れていた。
「一方が?」
渾沌ちゃんが紙を覗き込む。
「続きないの?」
「ありません」
「破れてる?」
「いいえ」
紙は完全だった。
文章だけが。
途中で終わっている。
その時。
向こう側の扉が開いた。
白い木製の扉。
『PANDEMONIUM STAFF ONLY♡』
誰かが出てきた。
秩序ちゃんだった。
「…………」
「…………」
「…………」
三人。
沈黙した。
花柄の通路に立つもう一人の秩序ちゃんは、こちらの秩序ちゃんとほとんど同じ顔をしていた。
ただし制服が違う。
白を基調とした、フリルの多い衣装。
胸元には大きなリボン。
手には銀色のトレー。
トレーには二つのバーガー。
もう一人の秩序ちゃんは。
こちらを見て。
最初に。
ため息をついた。
「……やはり、そちらでも露出しましたか」
こちらの秩序ちゃんが言った。
「私を知っているんですか」
「当然でしょう」
「なぜ」
「私ですから」
渾沌ちゃんがこちらを見る。
向こうを見る。
もう一度こちらを見る。
「二人いる」
「見ればわかります」
二人の秩序ちゃんが。
同時に答えた。
沈黙。
渾沌ちゃんの口角が上がった。
「ちょっと面白」
「固定しないでください!」
二人の秩序ちゃんが同時に叫んだ。
渾沌ちゃんが口を閉じた。
もう一人の秩序ちゃんは、疲れ切った顔でトレーを持ち直した。
「まず説明します」
「お願いします」
「ただし」
彼女は。
境界線を見た。
「そちらへは行けません」
「なぜですか」
「同じ存在が、同じ側に二人入ると」
一瞬。
照明が消えた。
白い通路。
花柄の通路。
両方の奥から。
何か巨大なものが軋む音がした。
建物ではない。
もっと大きい。
世界そのものを折り曲げたような音。
照明が戻る。
もう一人の秩序ちゃんが続けた。
「ぱんでむが、どちらの世界向けの店だったのか決め始めます」
こちらの秩序ちゃんは、紙を握った。
「決まると?」
「片方が偽物になります」
「さっきの書類には、両方真正だと」
「はい」
「矛盾しています」
「いいえ」
もう一人の秩序ちゃんは静かに答えた。
「今は、まだ両方本物なんです」
そして。
彼女の背後。
花柄の通路のさらに奥から。
「秩序ちゃーん!」
声がした。
渾沌ちゃんの声だった。
こちらにいる渾沌ちゃんが固まった。
向こうから。
もう一人の渾沌ちゃんが走ってくる。
ピンクと黒の制服。
手にはポテト。
「なんか壁の向こうにも店あるんだけど!」
「来ないでください!」
向こうの秩序ちゃんが叫ぶ。
「え?」
「止まって!」
遅かった。
向こうの渾沌ちゃんが。
こちらを見た。
こちらの渾沌ちゃんも。
向こうを見た。
二人の視線が合った。
「…………」
「…………」
同時に。
「誰よあんた」
ぱきん。
小さな音だった。
境界線が。
一センチ。
開いた。
その隙間には。
壁の中身も。
配線も。
断熱材もなかった。
夜空があった。
星でもない。
宇宙でもない。
無数の店があった。
巨大な都市そのものになったぱんでむ。
惑星の地表を覆うぱんでむ。
暗い洞窟の奥で肉の壁を脈動させるぱんでむ。
宇宙空間に浮かぶ、恒星より巨大なぱんでむ。
普通の住宅街の角にある、小さなハンバーガー店。
ゴシックな城。
病院。
学校。
駅。
墓地。
遊園地。
名前すら存在しない何か。
全部。
同じ場所にあった。
全部。
こちらを向いていた。
そして。
無数のぱんでむの中で。
無数の秩序ちゃんが。
同時に。
こちらを見た。
「閉じて!」
誰が叫んだのかわからなかった。
こちらの秩序ちゃんは、反射的に紙を境界へ押し戻した。
紙が吸い込まれる。
ぱちん。
線が閉じた。
花柄が消えた。
木目が消えた。
シャンデリアが消えた。
全部。
白い壁になった。
灰色の床。
蛍光灯。
いつもの従業員通路。
静寂。
渾沌ちゃんが隣にいる。
一人だけ。
「…………」
「…………」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
やがて渾沌ちゃんが聞いた。
「今の」
「はい」
「別世界線じゃないの?」
「わかりません」
「幻覚?」
「違います」
「侵入?」
「違います」
「じゃあ」
秩序ちゃんは。
さっきまで境界線があった壁に触れた。
完全な一枚壁。
切れ目などない。
「……もしかすると」
言葉を選ぶ。
「私たちは今まで、ぱんでむには一つの正しい姿があると思っていただけなのかもしれません」
渾沌ちゃんは黙っていた。
「こちらが本物で、向こうが偽物なのではなく」
壁を見る。
「最初から全部が本物で」
指先を動かす。
「普段は、その間が見えないだけなのかもしれません」
「じゃあ、さっき見えたのは?」
秩序ちゃんは答えなかった。
答えられなかった。
代わりに。
壁の向こうから。
こん。
音がした。
二人とも見る。
こん。
もう一度。
こん。
こん。
こん。
ノック。
壁の向こうからだった。
そして。
声。
小さい。
よく知っている声。
『秩序ちゃん』
秩序ちゃん自身の声だった。
『開けてください』
渾沌ちゃんが息を止めた。
『こちら側に』
一拍。
『渾沌ちゃんが二人います』
秩序ちゃんは。
隣を見た。
渾沌ちゃんがいる。
いつもの。
黒と赤。
いつもの顔。
いつもの目。
「…………」
「なによ」
渾沌ちゃんが言った。
「私を見るな」
壁の向こうから。
もう一度。
秩序ちゃんの声。
『急いでください』
『どちらかが』
ノイズ。
『自分を本物だと』
ノイズ。
『証明し始めました』
通信でもない声が。
そこで途切れた。
壁は白い。
継ぎ目はない。
最初から。
どこにもなかったように。
秩序ちゃんはその夜。
施設異常報告書を作成した。
件名欄には、こう記入した。
《施設内部における未定義境界の一時露出について》
原因。
不明。
危険度。
算定不能。
対応。
境界への接触禁止。
最後。
備考欄。
秩序ちゃんは長い間迷ってから、一文だけ書いた。
《次に継ぎ目が開いた場合、向こう側を「別のぱんでむ」と呼称しないこと。》
そして翌朝。
報告書を確認すると。
その下に。
秩序ちゃんの筆跡ではない文字が増えていた。
《訂正。》
《向こう側ではない。》
《こちら側も、向こう側である。》




