第009話 天蓋の裏側
アスラが崩れたあとも、広場はしばらく鳴っていた。
砂になった装甲が地面を流れ、白骨の間を黒い川みたいに走る。頭上の青黒い膜は波打ち、その向こうの『空』が何度も明滅した。地上の空ではない。レンはもうそう確信している。
中枢断章を握ったまま広場中央に立つと、足元の円形台座がさらにせり上がった。七重の輪の内側で、文字列が回転している。読むたびに頭痛がするが、不思議と目を逸らせない。
《第七保守都市ネムロス》
《天蓋下層維持拠点》
《再起動周期:三一八年》
《次期供給量、欠乏》
「供給量って何のことだ」
レンの呟きに答えたのはセフィリアだった。「祈り。いや、もっと広い。感情とか、生きる意志とか、そういうもの全部」
彼女は広場の骨を見回し、かすかに唇を噛む。「この都市の人たち、最後まで空へ何かを送ってた。助けを求める祈りもあったけど、それだけじゃない。『まだ終わるな』って、ずっと」
リゼが台座の側面を調べている。執行騎士団に伝わる知識があるのだろう、彼女は刻印の一部を迷いなく押した。台座の輪が一つ外れ、地下へ降りる階段が現れる。
「保守都市の中枢は二層構造だ。上が防衛、下が記録。見るなら今しかない」
「よく知ってるな」
「知りたくて知ったわけじゃない」リゼは短く返した。「昔、家を潰された時に押収庫から盗み見た禁書に書いてあった。執行騎士団も教会も、この手の都市をいくつか把握している。だからこそ、絶対に民間へ知られたくない」
「家を潰された?」
聞き返したレンに、リゼはほんの一瞬だけ黙った。
「ヴァルトハイムは辺境伯家の分家だった。三年前、断章隠匿の嫌疑をかけられて断絶。罪状は捏造だったが、証明する前に父も兄も処刑された」
「それで執行騎士に?」
「生き残るには、それしかなかった」
あまりにも簡潔な傷の語り方に、返す言葉が見つからない。
三人は地下階へ降りた。
そこは、都市の中枢というより巨大な観測室だった。半球状の部屋の中央に黒い水鏡が浮き、その周囲を無数の薄板が巡っている。薄板には都市の記録や、見たこともない星図が映る。部屋の壁一面には七つの縦長の溝があり、うち一つだけが埋まっている。ネムロスの鍵座は、ここに嵌まるべきものだったのだろう。
レンが中枢断章を鏡へ近づけると、水面が揺れた。
映ったのは、世界地図だった。
だがそれは、王国で学ぶ地理図と決定的に違う。大陸は一枚岩ではなく、何層もの円環に分かれている。中心に巨大な光炉があり、その周囲へ地層と空層が重ねられていた。カルミナ砦も王都も、天蓋も迷宮も、その一部分でしかない。
「……箱庭かよ」
レンの喉から出た声は、ほとんど息だった。
《星炉世界アルカ・ノア》
《外界環境、低適合》
《育成層を多重展開》
《魂圧供給により天蓋を維持》
『魂圧』という語を見た瞬間、セフィリアが顔をしかめた。
「これ、祈りだけじゃない。死ぬ時の感情も含んでる」
「まさか」
「分かる。だって、ここに残ってる流れがそうだから」
リゼの拳が強く握られる。「教会の浄化も、辺境で繰り返される魔物暴走も……全部、供給量の調整だというのか」
答えの代わりに、水鏡が別の映像へ変わった。
空を覆う巨大な半透明の蓋――天蓋。
その外側を巡る黒い兵器群。
地上で起きる戦争、飢饉、信仰熱。
迷宮から溢れる魔物。
そして死者の上から、淡い光が空へ吸い上げられていく様子。
レンは吐き気を覚えた。どれも抽象的な記録映像に過ぎないのに、意味だけは容赦なく伝わってくる。世界は自然にそうなっているんじゃない。誰かが、そう動くように設計している。
「ふざけんな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「人が生きて死ぬことまで、機構の一部だってのかよ」
その怒気に反応したのか、水鏡の奥で警告灯が明滅した。
《外部接続を検知》
《執行権限コード入力中》
リゼが即座に顔を上げる。「来る!」
ほぼ同時に、観測室の天井へ白い円環が開いた。そこから降ってきたのは、浄火修道騎士たちだった。白外套の一団が十数名。さらにその中央、金糸の法衣を纏った痩身の男が、床へ降り立つ。
年は四十前後。整った顔立ちだが、目だけが死んでいた。いや、生きすぎていると言うべきか。温度のない信念だけが濃い。
「やはり間に合いましたか」
男は微笑んだ。礼儀正しい口調なのに、そこに人への敬意は一片もない。
「監察使ヴェルム」セフィリアが声を硬くする。
「久しいですね、セフィリア候補。勝手な外出はいけません。教理院でもそう教わったはずですが」
「砦を焼くために来たくせに」
「焼く? 失礼だな。浄めるのです。必要な犠牲によって」
ヴェルムの視線がレンへ移る。正確には、レンの手の中の中枢断章へ。
「それを渡しなさい。あなたが持つには過ぎたものだ」
「嫌だと言ったら?」
「すでに世界の敵です」
あまりにも迷いなく返されたので、むしろ笑えてきた。教会は本気で自分たちを世界そのものと同一視している。
リゼが大剣を抜く。「レン、記録を持ち出せ。ここは私が抑える」
「無理だ、数が」
「無理かどうかは私が決める」
ヴェルムが指を鳴らした。修道騎士たちが一斉に法陣を展開する。白炎。浄火と呼ばれる対断章術式だ。普通の魔力と違い、残響を直接焼く。レンの断章が嫌な音を立てた。
「散れ!」
戦闘は最初から最悪だった。
白炎の槍が部屋を縫い、床の鏡面に当たるたび爆ぜる。レンは偏移歩法で避けながら、壁面の薄板を片端から剥がして袋へ突っ込んだ。全部は無理だ。せめて重要そうな記録だけでも持ち出す。
リゼは三人を守るために前へ出る。大剣一振りで二人の修道騎士を吹き飛ばし、返す刃で法陣そのものを斬り裂く。だが浄火は刃で斬っても消えない。逆に彼女の鎧へ絡みつき、銀の表面を焼いていく。
セフィリアは祈りで浄火を相殺していた。金と白、二種類の祈りがぶつかり、観測室に耳鳴りのような共鳴が満ちる。
「レン!」彼女が叫ぶ。「鏡の下! 逃走路がある!」
残響視を見る。確かに、水鏡の縁から青い線が床下へ伸びている。緊急用の退路だ。だがそこへ行くにはヴェルムを突破しなければならない。
「賢い選択を」ヴェルムは両手を広げた。「記録を知れば知るほど、人は壊れる。世界は多くの犠牲で支えられている。ならば、その犠牲を管理し最適化する者が必要だ。教会はそれを担ってきた」
「最適化、ね」
レンは短刀を構え直す。
「じゃあ試してみろよ。お前の最適化が、俺を止められるかどうか」
ヴェルムの背後へ、赤線が幾重にも見える。本人はさほど強くない。危険なのは周囲の法陣と、ここそのものを使う権限だ。
なら、こっちも同じ土俵へ立つ。
レンは中枢断章を強く握り込んだ。
《界断》の術式が脳裏へ開く。魔力や呪いの『接続』を断つ補助術。理屈は分からない。だが使い方は分かる。
ヴェルムが白炎を撃つ。
レンは正面から踏み込み、その火線へ短刀を振るった。
火が、割れた。
一直線だった白炎が途中で断たれ、左右へ霧散する。ヴェルムの目が初めて揺れた。
「それは……!」
レンは間合いを詰める。修道騎士が二人、割って入る。一本目の槍を躱し、二本目を《界断》で折り、柄を踏んで跳ぶ。ヴェルムの襟元へ短刀が届く――寸前、床の鏡面から白い腕が伸び、レンの足首を掴んだ。
「っ!」
ヴェルムは観測室の権限を一部使っている。ここでは奴の方が有利だ。
リゼの大剣が横から飛び込み、白い腕ごと床を叩き割った。「ぼさっとするな!」
「助かる!」
セフィリアが祈りの糸を鏡縁へ走らせる。隠されていた退路の輪郭が浮かんだ。ここだ。
レンは袋へ放り込んだ記録板を抱え、最後に水鏡を見た。そこには、先ほどよりも鮮明な星炉世界の中心――巨大な炉と、その最上部に座る『椅子』が映っていた。世界を支配する席。まるで神の席みたいな場所が。
「……あとで必ず、そこまで行く」
誰に聞かせるでもなく呟いて、レンは退路へ飛び込んだ。
リゼとセフィリアも続く。背後でヴェルムが何か命じる声がしたが、退路の石門が閉じる轟音がそれを呑み込んだ。
闇の通路を転がり落ちながら、レンは胸の奥が焼けるのを感じていた。
奈落の底で見つけたのは力だけじゃない。
世界の嘘だった。
そして、その嘘を守る連中は、砦一つ焼くことさえ躊躇わない。
だったらもう、やることは一つしかない。




