第010話 王都招集
退路は、ネムロスの外れにある古い貯水槽へ繋がっていた。
石蓋を押し上げると、見慣れたカルミナ砦の礼拝堂裏庭が現れる。昼だった。地下でどれだけ走ったのか分からないが、地上ではすでに半日近くが過ぎていたらしい。
そして最悪なことに、遅すぎはしなかった。
砦の外周には、白い旗が何十も並んでいる。天蓋教会の本隊だ。浄火修道騎士、聖職兵、浄化兵器を積んだ荷馬車。白布で覆われたその積荷が何かを、レンはもう知っている。砦ごと焼くための術具だ。
裏庭から見える東門前では、バルドと監察使ヴェルムが対峙していた。どうやらヴェルムの本隊より、三人の方が僅かに先に戻れたらしい。間一髪だ。
「……助かったのかと思ったら、全然だったね」セフィリアが乾いた声で言う。
「助かった直後は大体もっと面倒になる」リゼが答えた。
「経験談?」
「経験談だ」
裏庭の物陰から様子を窺う。ヴェルムはすでに表情を整え、いかにも温和な聖職者の顔で話していた。
「司令官殿、誤解なきよう。私はただ、禁忌遺物に触れた者を保護しに来ただけです。断章汚染は本人の意思と関係なく進行する。放置すれば、この砦の全員が危険に晒されます」
「だから浄火兵器を持ってくるのか」バルドの声は低い。「親切な保護だな」
「備えです。万一に備えるのは責任ある者の義務でしょう」
嘘は言っていない。そこが厄介だった。備えの名目で砦を焼くつもりなのだ。
「出よう」レンが言う。
リゼは即座に首を振った。「不用意だ」
「不用意でも出るしかない。俺たちが隠れてる限り、あの男は『保護対象が行方不明』って理由で砦を押し込める」
セフィリアも頷く。「たぶん、正しい。わたしも出る」
三人が姿を見せた瞬間、門前の空気が一変した。
白外套の列がざわつき、兵たちがざわめく。ヴェルムの目だけが一瞬鋭く細まったが、すぐに笑みに戻った。
「おや。ご無事で何よりです、セフィリア候補。レン君も。リゼ殿までご一緒とは、実に心強い」
「心にもないことを」リゼが吐き捨てる。
「心からですよ。だからこそ、今すぐその断章を渡していただきたい。彼らを浄化すれば、砦を危険に晒す必要もなくなる」
レンは門前の全員に聞こえるよう、わざと声を張った。
「浄化ってのは、砦ごと焼くことか?」
白外套の列がぴくりと揺れた。ヴェルムは微笑んだまま首を振る。
「極端な言い方ですね。汚染源が広がれば、結果として局所焼却もあり得る、というだけです」
「つまり否定しないんだな」
ざわめきが広がる。砦の兵や民間人にとって、それは十分だった。教会が自分たちを焼く可能性を、目の前で認めたのだから。
ヴェルムの笑みが少しだけ薄くなる。
「言葉遊びで民を煽るべきではありません。あなたは既に断章の影響を受けている」
「じゃあこれはどうだ」
レンは袋から記録板の一枚を取り出し、断章を当てた。板に刻まれた残響が淡く浮かび、観測室の映像の一部が空中へ再演される。完全ではない。だが十分だ。白炎を放つ修道騎士。観測室に降り立つヴェルム。『必要な犠牲』という彼自身の声。
門前が静まり返った。
「偽造です」ヴェルムが即座に言う。
「そりゃそう言うよな」レンは肩をすくめた。「でも、あんたの部下はどう思う?」
白外套の後列で、何人かの聖職兵が互いに顔を見合わせていた。全員が狂信者ではないのだろう。自分たちは浄化と救護のために来たと信じていた者もいるはずだ。
ヴェルムは短く息を吐いた。ついに面を被り直すのをやめたらしい。
「……残念です。ならば教会法に基づき、断章持ちレン、離反した聖女候補セフィリア、執行騎士リゼを異端容疑で拘束します。司令官バルド、抵抗は王権への反逆とみなします」
王権への、という言い方にレンは違和感を覚えた。教会が勝手に王権まで代行している。
だが、その違和感に答えるように、新しい声が空から降った。
「その王権を、誰が代行すると言った?」
全員が見上げる。
砦の上空を、黒い飛翔獣が横切った。その背から真紅の外套を纏った騎士が飛び降りる。着地と同時に地面へ王家の紋章入りの槍旗を突き立てた。
王都親衛騎士団。
先頭の騎士は兜を脱ぎ、疲れ切った顔で告げる。
「国王陛下の勅命を伝える。カルミナ砦にて発生した断章案件は、王家直轄の特別審理対象とする。対象者レン・アーヴェル、執行騎士リゼ・ヴァルトハイム、聖女候補セフィリア・ルクス、ならびに関係資料を、即刻王都グランセルへ移送せよ。教会による単独拘束および処分はこれを禁ずる」
ヴェルムの顔から、ついに余裕が消えた。
「……なぜ王が」
「陛下は全部を知らずとも、少なくとも『教会が砦を焼こうとしている』報を聞けば動く」リゼが冷たく言う。「昨夜、私が鳥便を飛ばしておいた」
「用意がいいな」
「二度目は見たくないと言っただろう」
王家と教会が正面から衝突すれば、ここは戦場になる。ヴェルムもそれは避けたいらしい。彼は表面上は恭しく頭を下げた。
「……承知しました。ならば我々も王都で証言いたしましょう。断章の危険性を、正しく」
その『正しく』がどんな意味か、今さら説明はいらない。
結局、その日のうちにレンたちは砦を発つことになった。王都親衛騎士の護衛付き。名目は保護だが、半分は監視でもある。
出立前、バルドが砦の外れまで見送りに来た。珍しく甲冑を脱ぎ、ただの疲れた中年男みたいな顔をしている。
「すまねえな。こっちで抱えきれん」
「十分やっただろ」レンは答えた。「砦を守ってくれればそれでいい」
バルドは鼻を鳴らした。「王都なんざ腐ったもんだ。だが辺境よりは道具も人もある。お前が世界の嘘を本気でひっくり返す気なら、まずはあそこで生き残れ」
「さらっと重いこと言うなあ」
「言ってねえ。事実だ」
リゼとセフィリアは先に馬車へ向かっている。セフィリアは砦の子供たちに手を振られ、少し困ったように笑っていた。教会を裏切ってもなお、人に笑い返せるのは、この娘の強さかもしれない。
バルドは最後に、レンの肩を強く叩いた。
「ザックの件は、砦の記録に残しておく。見捨てられて死んだんじゃねえ。最後まで戦って死んだ探索兵だとな」
「……ああ」
それだけで、少し救われた気がした。
馬車が動き出す。カルミナ砦の赤い外壁が遠ざかる。奈落へ落ちる前まで、ただの檻だった場所が、今は妙に大事なものに思えた。
王都グランセル。
そこにはきっと、もっと大きな嘘と、もっと強い敵がいる。
レンは揺れる車内で断章を握り直した。
奈落から這い上がっただけでは足りない。
今度は自分から、世界の中心へ踏み込む番だった。




