第006話 聖女候補セフィリア
カルミナ砦の医務室は、夜明け前だというのに満員だった。
門前で傷を負った兵も民間人も、狭い部屋に寝台を押し込まれて呻いている。薬草と血の匂いが混ざり、息苦しい。レンも肩の噛み傷を縫われたが、断章の粒子を何度か吸ったせいか、傷の塞がりは妙に早かった。医官に化け物を見る目をされたので、包帯だけ巻いてさっさと退散した。
そのまま司令室に呼ばれ、今は粗末な木机を挟んで三人と向かい合っている。
司令官バルド。
執行騎士リゼ。
そして、聖女候補セフィリア。
「改めて確認する」バルドが腕を組んだ。「教会の監察使が来れば、この砦は消される可能性が高い。理由は、断章と保守都市ネムロスの露見。ここまではいいな」
「ええ」とセフィリアが素直に頷く。「正確には、『露見した可能性がある』だけで十分です。教会上層部は、確実に証拠を消しに来ます」
「聖女候補がずいぶんはっきり言うじゃねえか」
バルドの皮肉にも、セフィリアは困ったように笑うだけだった。「候補だから、です。候補は信じる側じゃなく、仕組みに組み込まれる側なんです」
レンは眉をひそめる。「どういう意味だ」
セフィリアは少し考えるように視線を落とし、胸元の聖印に触れた。白銀の細鎖に、空を模した円環の意匠。教会の人間なら誰でも持っているものだ。
「わたしの魔術は《祈導》です。人の祈り、願い、恐れ――そういうものの流れを、少しだけ読める。教会では奇跡って呼ばれるけど、実際はもっと生臭いものまで聞こえる。救ってほしい、死にたくない、誰かを殺してほしい、見つからないでほしい。綺麗な祈りばかりじゃない」
彼女の声は静かだったが、妙に重かった。綺麗事だけで生きてきた人間の声じゃない。
「で、昨夜、砦の上に新しい祈りが増えたんです」セフィリアは続けた。「『早く焼き払え』っていう祈りが」
レンの背筋に冷たいものが走る。
「誰のだ」
「教会の連中。今、カルミナ砦へ向かってます。監察使ヴェルム。浄火修道騎士三十。あと、浄化兵器を積んだ馬車が二台」
バルドが低く罵った。「本気で焼く気か」
リゼは最初から予想していたらしく、顔色一つ変えない。「到着は」
「早ければ昼。遅くても夕方。わたし、抜け出す前に行軍予定表を見ました」
「堂々と大罪を積み上げるな、お前」レンが言うと、セフィリアは首を傾げた。「だって、どうせもう戻れないし」
その言い方があまりにも軽くて、逆に本気なのが伝わった。
リゼが机に一枚の羊皮紙を広げる。そこにはカルミナ砦地下の古い断面図が描かれていた。現行の階層図よりずっと複雑だ。
「正面から下る時間はない。ネムロスへ直行する秘密遡下降路を使う。昔、執行騎士団が押収した古地図だ。カルミナ砦の礼拝堂地下から接続している」
バルドが唸る。「そんなもの、うちの記録にはないぞ」
「あると困るから残していない」
「王都の連中は本当にろくなことをしねえな」
レンは地図を覗き込んだ。礼拝堂地下から螺旋状に降りる細路、その先にネムロス北区画。通れるなら早い。だが一点、気になる印があった。
「ここ、封鎖印か?」
リゼが頷く。「三年前の事件以降、執行騎士団が閉じた。開けるには権限か、断章の共鳴がいる。たぶんお前なら開く」
「たぶん、ね」
「大抵の禁忌遺物はたぶんで触ると死ぬ。今回は比較的ましな方だ」
比較的まし、で済ませる話ではないが、もう今さらだ。
バルドが重い息を吐いた。「行くのは四人までだ。それ以上は目立つ。俺も行きたいが、砦を空けられん」
「四人?」レンが聞く。
「俺とリゼとセフィリア、あとお前だ」バルドはそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。「……と言いたいところだが、俺が抜けると砦が終わる。代わりに腕の立つ副官を一人つける」
リゼが首を振る。「いらない。人数が増えるほど死ぬ」
「言い切るな」
「事実だ」
沈黙。
結局、同行はレン、リゼ、セフィリアの三人で決まった。バルドは苦い顔をしていたが、無理に兵を足しても足手まといになると分かっているのだろう。
話がまとまりかけたところで、司令室の扉が荒々しく開いた。守備兵が青ざめた顔で飛び込んでくる。
「司令官! 東見張り台より報告! 教会の先行使節らしき一団が来てます!」
「早いな」リゼが立ち上がる。
「数は?」
「十騎ほど! 白旗を掲げていますが……」
バルドが舌打ちした。「白旗ほど信用ならんもんはない。時間稼ぎだ」
リゼは窓の外を見た。夜明けの薄青い空の下、砦の東門へ白い外套の騎影が近づいてくるのが見える。穏便に話しに来た顔ではない。
「レン、断章を」
「いやだ」
「違う、寄越せじゃない。共鳴だけ見せろ」
リゼは腰の小箱から、黒い金属片を一枚取り出した。執行騎士団の封印具らしい。「これに触れろ。断章の汚染度を見る」
レンは少し迷ってから、懐の断章を手にしたまま金属片へ触れた。
片は淡く光る。赤ではなく、青白く。
リゼの目が細まった。「やっぱりか。汚染は低い。むしろ同調率が高すぎる」
セフィリアが横から覗き込み、「普通、こんな色にならないよ」と呟いた。「断章ってもっと、嫌な泣き方をするのに」
「泣き方って何だよ」
「聞こえるから。金属にも祈りは残るんだよ」
この娘は本当に、平然と理解不能なことを言う。
その時、砦の外から澄んだ鐘の音が響いた。教会の来訪を告げる儀礼鐘だ。だが残響視には、鐘の余韻の中へ別の線が混ざって見えた。赤い、細い、火薬が爆ぜる前みたいな線。
「伏せろ!」
レンは叫んだ。
ほぼ同時に、東門の方角で爆音が弾けた。白旗の一団が、交渉に見せかけて魔導弾を撃ち込んだのだ。見張り台の一角が吹き飛び、火の粉が夜明けへ散る。
「交渉する気ゼロかよ!」
バルドが怒鳴り、司令室の外へ飛び出す。リゼも続いた。レンも駆けながら東門を見やる。白外套の騎士たちが魔導槍を構え、もう二射目の準備に入っている。
セフィリアの表情から笑みが消えた。
「……やっぱりね」
彼女は法衣の裾を払って前へ出る。聖印を握り、深く息を吸った。次の瞬間、その周囲に柔らかな金光が広がった。祈りの魔術。だが教会で見せる荘厳なものではない。もっと鋭く、刃物みたいな光だ。
「わたし、あの人たちの顔を知ってる」
「だから?」
「だから、外しません」
二射目の魔導弾が飛んだ。
セフィリアが一歩踏み出す。光の膜が扇状に広がり、弾丸を空中で逸らした。逸れた弾は東門の外壁を掠めて爆ぜる。衝撃で兵がよろける。その隙にリゼが門楼から跳んだ。
人間離れした跳躍だった。
白銀の大剣が朝焼けを断ち、先頭の修道騎士ごと馬を真っ二つにする。返す刃で二騎目の魔導槍を叩き折り、馬首を蹴って群れへ突っ込む。処刑騎士の異名が、誇張ではないと一目で分かる動きだった。
レンも迷わず続いた。東門の半壊した石垣を踏み台にして外へ出る。教会騎士の一人が法杖を向けた。火線が走る。残響視で軌道をずらし、偏移歩法で懐へ入る。短刀で杖の核心石を叩き割る。爆ぜた魔力が相手の腕を焼き、悲鳴が上がった。
「断章持ちだ! やはりいたぞ!」
敵の叫びに、白外套の視線が一斉にレンへ集まる。その殺意の濃さに、かえって頭が冷えた。
こいつらは最初から救援でも交渉でもない。レンという証拠を消すために来ている。
なら、遠慮はいらない。
レンは倒れた修道騎士の槍を拾い、そのまま投げた。残響視で示された白線に沿って。槍は鎧の隙間を正確に抜き、一人の喉を貫いた。さらに足を止めた騎士の背後へ回り込み、柄頭で兜を打ち抜く。
数分で先行隊は壊滅した。
最後の一人は馬を返して逃げようとしたが、セフィリアが静かに呟いた祈りで馬の前脚が光の鎖に絡め取られ、転倒した。リゼが迷いなく首筋へ剣を置く。
「伝令だけは生かす」彼女は言った。「帰って報告しろ。カルミナ砦は黙って焼かれない、と」
白外套の騎士は歯噛みし、何も言わなかった。
東の空が明るくなる。朝が来る。
だが、その光は安堵を連れてこなかった。昼には本隊が来る。もう猶予はほとんどない。
バルドが血に濡れた門前で、三人を見渡した。
「行け。礼拝堂地下は俺が開けさせる。お前らが戻るまで、カルミナ砦はまだ落とさん」
レンは頷いた。リゼも、セフィリアも。
奈落へ降りる理由は、もう十分すぎるほど揃っていた。




