第004話 赤壁の魔物暴走
門前の石畳を、最初の岩喰い猿が砕いた。
人ひとりより大きい前腕。岩盤を噛み砕く顎。通常なら第五層でも精鋭三人掛かりで対処する相手だ。それが、暴走した血走った目で二体、三体と飛び出してくる。
守備兵の一人が悲鳴交じりに槍を突き出した。だが穂先は毛皮の外皮に弾かれ、逆に猿の腕でまとめて吹き飛ばされる。石壁に叩きつけられた兵士の口から血が噴いた。
「隊列を組め!」
「無理だ、数が!」
門前は一瞬で混乱した。探索帰りの兵、鉱夫、荷運び人夫が入り乱れ、誰も彼もが自分の命だけで精一杯だ。ガルグはその中心で怒鳴っていたが、部下を前へ押し出すばかりで自分は後ろに下がっている。
レンは腹の底が冷えるのを感じながら、逆に頭は静かだった。残響視が、周囲の騒音を削ぎ落としていく。
岩喰い猿の右肩が上がる。
二歩目で踏み込む。
左の骨甲牛は三秒後に突進。
角蛇は壁面を伝ってくる。
線が多すぎて、むしろ分かりやすかった。
レンは真正面から猿へ突っ込んだ。
「馬鹿が!」
誰かが叫ぶ。
だがレンは一歩目で右へずれ、二歩目で猿の懐へ潜り込んだ。偏移歩法。見えた軌道の外へ自分を逃がし、敵の死角へ滑り込む術だ。猿の拳が空振りした瞬間、レンは奪った槍を逆手に持ち替え、脇腹の柔らかい継ぎ目へ深く突き刺した。
黒い血が噴く。
咆哮。猿が振り返るより先に、レンは柄を手放して前へ転がった。次の瞬間、背後から骨甲牛の突進が来る。猿の巨体が正面からぶつかり、二体まとめて門柱へ激突した。
「い、今のを誘ったのか……?」
守備兵の誰かが呆然と呟いた。
レンは答えない。答える余裕がない。壁面を這ってきた角蛇が三匹、牙を剥いて飛びかかってくる。一本目をしゃがんで躱し、二本目の胴を掴んで振り回し、三本目の顔面へ叩きつけた。もつれた二匹を足場にして跳び、門の横木に着地する。
上から見ると、戦場が盤面みたいによく見えた。
魔物は真っ直ぐ門を狙っていない。人間の密集よりも、ガルグの腰袋へ寄る個体が多い。やはり原因はあれだ。しかも欠片の黒光りが、さっきより強くなっている。魔力を吸って膨らんでいるのか。
「班長! それを捨てろ!」
レンが叫ぶ。ガルグは顔を引きつらせながら腰袋を押さえた。
「ふざけるな、これは俺の――」
言い終わる前に、門の奥から低い唸りが響く。
迷宮の闇を割って出たのは、巨大な赤骨鬼だった。身長三メートル超。皮膚の大半が剥がれ、露出した骨格が赤熱している。右腕には鉱脈そのものを引き剥がしたような石棍棒。第五層でも報告例の少ない中級階層主だ。
兵たちの顔色が変わる。
誰かが泣き出した。
鉱夫の一団が内門へ殺到し、押し合いでさらに混乱が広がる。
司令官バルドがようやく現れたのは、その時だった。重装の上から黒マントを羽織った大男で、門楼の上から怒鳴る。
「内門を半閉鎖! 弓隊、門前の民間人を引き込め! 探索兵は残れ! 逃げた奴はその場で斬る!」
苛烈だが、判断は早い。バルドの号令でようやく隊列が整い始める。だが赤骨鬼が一歩踏み込んだだけで、地面が揺れた。普通の兵では止めきれない。
レンは門横木から飛び降り、猿から引き抜いた槍を拾った。柄は半ば折れていたが十分だ。
「司令官! 班長の腰袋に黒い欠片があります! 魔物はそれに寄ってる!」
バルドの目が鋭く細まる。「本当か」
「嘘なら後で斬っていい!」
門前の混乱の中でも、その声だけは届いたらしい。バルドは一瞬だけ迷い、すぐに決めた。
「ガルグ、腰袋を捨てろ。今すぐだ」
「司令官まで何を――これは採掘品で、俺が命懸けで」
「命懸けだったのはザックだろうが!」
レンの怒声が場を裂いた。
一瞬、全員が静まる。ガルグの顔が歪む。図星だった。
「老いぼれは勝手に死んだだけだ! 俺は悪くねえ! 下で何があったか知りたきゃ、まずそこのガキを――」
赤骨鬼が動いた。
狙いはレンでも門でもなく、ガルグの腰袋だ。
巨体に似合わぬ速度で棍棒が振り下ろされる。ガルグは悲鳴を上げて横へ転がり、部下二人がまとめて潰れた。腰袋の紐が切れ、黒い欠片が石畳へ転がる。その瞬間、門前の全魔物が一斉に吠えた。
「やっぱりか」
レンは地を蹴った。
欠片へ飛びつこうとする赤骨鬼の脚元へ滑り込み、膝裏へ槍を叩き込む。硬い。だが見えている。骨と骨の継ぎ目、赤熱が弱い一点。そこへ穂先をねじ込むと、巨体が僅かに傾いだ。
「弓隊! 目を狙え!」バルドが吠える。
矢が飛ぶ。三本、四本、五本。二本は弾かれたが、一矢が右目窩に刺さった。赤骨鬼が狂ったように棍棒を振り回す。
石片が雨のように降る。兵士が一人吹き飛ぶ。レンも頬を切られた。だが視界には、鬼の次の踏み込みがはっきり見えていた。
左足、前。
上体、右へ流れる。
棍棒は大振り。
「今だ!」
レンは叫び、自分から鬼の懐へ飛び込む。誰かが止める声が聞こえたが無視した。偏移歩法で棍棒の軌道を抜け、胸骨の中心へ潜る。そこに、黒い紋様が蠢いていた。外から埋め込まれた魔力の塊。欠片の波長と同じだ。
レンは槍を手放し、ザックの短刀を抜く。
《破断点を表示》
視界の中、鬼の胸に一本の白線が走った。
「ザックの分だ」
短刀を突き立てる。白線に沿って切り上げる。骨が鳴き、黒い魔力塊が裂けた。次の瞬間、赤骨鬼の巨体が膝から崩れる。体内を満たしていた暴走魔力が噴き出し、熱風になって門前を薙いだ。
レンは吹き飛ばされながらも、石畳に転がった黒い欠片を掴んだ。
触れた瞬間、断章が脈打つ。
《同種断片を吸収》
《残響出力、上昇》
《局所再演、限定解放》
頭が焼けるように痛んだ。だが同時に、ガルグの腰袋、祭壇、ザックの背中に突き刺さる槍、その一瞬の光景が、空中に半透明の残像として再現された。
局所再演。
短い範囲だけ、残響を可視化できる。
門前の全員が、その光景を見た。
ガルグがザックを見捨てたこと。
レンを餌にして崩落へ落としたこと。
黒い欠片を隠し持っていたこと。
「ち、違う! これは幻だ! こいつの禁術だ!」
ガルグが喚く。だがもう遅い。部下だった探索兵たちの目つきが変わっていた。恐怖と軽蔑と、裏切られた怒り。バルドは一言だけ命じる。
「拘束しろ」
二人の守備兵がガルグへ飛びかかる。ガルグは斧槍を振り回して抵抗し、半狂乱のまま内門へ走った。だが赤骨鬼の死骸から這い出した最後の角蛇が、その首筋へ噛みつく。
「あ、ぎ、あああああっ!」
毒が回るのは早かった。ガルグは泡を吹きながら転げ回り、誰にも看取られずに動かなくなった。
痛快だとは思わなかった。ただ、ひどく空しかった。
それでも戦いは終わっていない。門前にはまだ十数体の魔物がいる。だが赤骨鬼が落ち、欠片の誘引も止まったことで、流れは変わった。
レンは先頭へ戻った。
兵たちはもう、灰拾いを見る目をしていない。恐れと、期待と、理解できないものを前にした戸惑いが混ざっていた。
「レン!」門楼の上からバルドが叫ぶ。「立てるか!」
「立てます!」
「なら前を任せる! お前が目を作れ、俺が槍を出す!」
それは即席の指揮権委譲だった。異例どころではない。だが門前の誰も異を唱えなかった。
レンは深く息を吸った。血と煤と、夜気の冷たさが肺に入る。
「左の牛を三歩引きつけてから突け! 右壁の蛇は降りる前に矢! 猿は二体ぶつける、俺に合わせろ!」
叫ぶたびに、兵が動く。線が繋がる。自分ひとりで無双するのではなく、戦場そのものの歯車を噛み合わせる感覚だった。
十分後、門前に立っていた魔物は一体残らず倒れていた。
歓声はすぐには上がらなかった。皆、死をやり過ごした直後の顔で、ただその場に立ち尽くしていた。ようやく誰かが膝から崩れ、泣き笑いを漏らした時、張り詰めていた糸が切れたように、あちこちで安堵の声が広がった。
レンは短刀を納めようとして、手が震えていることに気づいた。極限が過ぎればこんなものだ。今さら恐怖が追いついてきた。
その時、門の外から馬蹄の音が響いた。
砦の外周路を、白銀の甲冑を纏った騎士が数騎、月光を裂いて駆け込んでくる。先頭の女騎士は長い銀髪を一つに束ね、処刑用の幅広剣を背に負っていた。その瞳は青く冷たく、戦場を一瞥しただけで、誰が何をしたのかを見抜くような鋭さがある。
門兵が呆けた声を漏らした。
「王都直轄執行騎士団……」
「なんで、こんな辺境に」
女騎士は馬を降りるなり、真っ直ぐレンへ視線を向けた。
「黒い断章を持つ者は誰だ」
その声は静かだったのに、戦場のざわめきを一瞬で切り裂いた。
レンは答えず、血に濡れた拳を握り直した。
奈落から生きて帰っただけでは、終わらないらしい。




