第003話 迷宮帰還
沈都ネムロスへ踏み込む前に、レンはまず生還の道を探した。
都市の外縁部は半ば崩れていたが、白い石畳の下にはまだ機構が生きていた。倒れた塔の内部、錆びた昇降機。封印された通路。壊れた管理端末らしき黒板。レンが断章を近づけるたび、それらはかすかな光を取り戻す。
《残響記録:保守路、第二区画へ接続》
《上層搬送機、緊急用経路のみ使用可能》
読める文は増えたが、意味はまだ穴だらけだった。それでも、上へ通じる『何か』があることだけは分かる。
途中、ネムロスの広場で大量の白骨を見た。兵士も民間人も区別なく折り重なり、その全員が同じ方向――都市中央の尖塔へ向かって手を伸ばしていた。祈るようにも、何かから逃げるようにも見える。骨の間には黒く煤けた鍵型の紋章が散らばっていた。
レンがその一つを拾うと、また断片映像が流れ込む。
『第七鍵座、応答なし』
『再起動に必要な魂量、未達』
『保守都市を封鎖します』
息が詰まった。誰が何を言っているのか分からない。だが、言葉の冷たさだけは伝わる。人が都市ごと切り捨てられた。その事実だけが、声の向こうにあった。
「ふざけるなよ……」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
上層へ続く搬送路は、尖塔の地下にあった。巨大な円筒空間の中央に、光の消えた昇降盤が一基。壁一面には刻印が走り、断章を嵌める窪みが七つある。そのうち六つは空だったが、一つだけ、レンの持つ欠片と形がぴたりと合う。
嫌な予感がする。だが立ち止まる理由にはならない。
レンは黒い断章を嵌め込んだ。円筒空間が低く唸り、足元の昇降盤に光の輪が走る。死んだ都市の心臓が、短く息を吹き返した。
《権限確認:暫定管理者》
《第五層への非常遡上路を開放します》
「暫定、何だって?」
問い返しても、答えはない。
昇降盤が動き出す。その瞬間、尖塔全体が悲鳴を上げた。都市の外から、地鳴りみたいな足音が近づいてくる。広場で見た白骨が、一斉に崩れた。骨の下から、無数の黒い虫が噴き出してきたのだ。
人の拳ほどもある甲虫。翅に赤い筋が走り、口器が刃みたいに尖っている。死肉喰らいの寄生虫ではない。明らかに、都市を守る側の機構が壊れた末の何かだった。
「最悪だな!」
昇降盤は遅い。虫は速い。
レンは円筒壁へ走った。残響視が赤線を浮かべる。虫たちが壁面から三方向に這い上がり、挟み込む。なら、来る前に壁の継ぎ目を蹴る。上へ。さらに横へ。偏移歩法は人の技だったはずなのに、断章を喰ってからは自分でも信じられないくらい体が軽い。
一匹の頭を踏み台にし、短刀で二匹まとめて串刺しにする。黒い粒子が腕へ流れ込む。筋力が僅かに増す。だが数が多すぎた。
甲虫の一匹が肩へ噛みついた。肉が裂ける。レンは歯を食いしばって壁へ叩きつけ、踏み潰す。視界の端で、円筒の上部に青い線が走った。あそこだ。
レンは虫群れの中心へ自分から飛び込み、わざと三匹を寄せる。噛みつきの軌道が重なる一瞬、壁の刻印に短刀を突き立てた。刻印から火花が走る。
《保守路、過負荷》
次の瞬間、円筒の内壁を稲妻が走り、這い上がっていた虫をまとめて焼いた。焦げた臭いとともに黒い粒子が降り注ぐ。レンはその隙に昇降盤へ転がり込んだ。
盤が上昇する。
下では都市全体が、ようやく目覚めた獣みたいに身じろぎしていた。尖塔の屋根を突き破って、巨大な腕が一本、空へ伸びる。石と金属でできた人型。ネムロスのどこかで、さらにでかい守護機構が起動したのだろう。
レンは冷や汗をかきながら、盤が第五層に到達するのを待った。
上へ出たのは、崩落した採掘空洞の外れだった。
ほんの数日しか経っていないはずなのに、上層の空気は妙に薄く感じる。生きて戻った。その事実に膝が笑いそうになる。だが休む暇はなかった。頭上から、鐘が鳴っている。砦の非常鐘だ。
嫌な予感が、今度は直感ではなく確信として胸に刺さった。
レンは通路を駆けた。途中で探索兵の死体を三つ見つける。噛み跡。爪痕。しかも新しい。第五層にいるはずのない大型魔物の痕だ。
空洞の出口近くで、人の怒鳴り声が聞こえた。
「閉じろ! 外壁門を閉めろ! まだ中に班がいる? 知るか、魔物を上げるな!」
カルミナ砦の内門前だった。探索帰りの兵や鉱夫が押し合いへし合いしている。守備兵は顔面蒼白で閂を降ろそうとしていた。門の向こう、迷宮側の闇から、赤い目が何十も光っている。
魔物暴走。スタンピードの前触れだ。
そして、その場にガルグもいた。
左腕に包帯を巻き、隊列の中央で何食わぬ顔をしている。ザックの姿はない。あの男は、やはり見捨てたのだ。
レンを見た瞬間、ガルグの顔色が変わった。「な……」
周囲の兵たちも一斉に振り向く。泥と血に塗れたレンが、死んだはずの奈落から歩いてきたのだから当然だ。
「レン?」誰かが呟いた。
「生きてたのか」
「いや、それより後ろ!」
迷宮の闇から、最初の一体が飛び出した。岩喰い猿。続いて角蛇、骨甲牛。第五層ではありえない密度だ。しかも奴らの体内で、赤い筋が異様に濃く光っている。何かに煽られている。
守備兵が怯んだ瞬間、ガルグが叫んだ。
「そいつを捕まえろ! 異常を呼び込んだのはそいつだ! 下で禁忌核に触れやがった!」
あまりに早い責任転嫁で、逆に笑いそうになった。だが今は言い返している場合じゃない。レンの目には、ガルグの腰袋から漏れる黒い光が見えていた。あの男、祭壇の大欠片を一部持ち帰っている。それが魔物を引き寄せているのだ。
「門を閉めたら、外の奴らが死ぬ!」
レンは叫び返した。「それに班長の腰袋だ! そいつが原因だ!」
「戯言を――」
言い終える前に、岩喰い猿がガルグへ跳んだ。
ガルグは辛うじて斧槍で受ける。だがその瞬間、レンには見えた。腰袋の中の黒い欠片へ、魔物の赤線が集中している。確定だ。
「司令を呼べ!」
レンは近くの守備兵から槍を奪い、そのまま前へ出た。「門はまだ閉めるな! 俺が押し返す!」
兵たちが唖然とする。たった一人で? 当然の顔だった。数日前まで灰拾いと呼ばれていた餌役が、いきなりそんなことを言い出したのだから。
だがレン自身、無謀だと分かっている。
それでも、ここで引いたら、砦は壊れる。ザックの死を、ガルグの嘘で塗りつぶされる。そんなのは認められなかった。
レンは槍を構えた。視界に、無数の線が走る。
生き延びる線。
殺す線。
奪い返す線。
全部、見えている。
「来いよ、化け物ども」
迷宮から吹き上がる獣臭とともに、第二陣が雪崩れ込んできた。カルミナ砦の命運を懸けた夜が、そこで始まった。




