第9話:ノイズと、最強の盾
母マリアの葬儀が終わってからというもの、ローゼンブルク王城は息が詰まるような緊迫感と冷たさに包まれていた。
夜の闇の中。広すぎる自室のベッドの上で、五歳のエレノアは毛布を頭まで被り、小刻みに震えていた。
(怖い、こわい……っ)
ガウルが放つ、血の匂いがするほどの暴力的な覇気。
レオンが纏う、底なし沼のような陰湿な企みの気配。
廊下ですれ違う大人たちの、誰かを陥れようとするヒソヒソ声。
それら城中に渦巻く『悪意』や『緊張』が、不快なノイズとなってエレノアの頭に絶え間なく流れ込んでくる。母を喪った絶望と、大人たちのドロドロとした感情の波に当てられ、五歳の小さな脳は完全に限界を超えていた。
カチャリ、と扉が開く音がした。
ビクッと毛布の中で肩を跳ねさせたエレノアに、一筋のランプの光が近づいてくる。
「エレノア様。夜分に失礼いたします」
漆黒のメイド服に身を包んだクローネだった。彼女はベッドの傍らに歩み寄ると、丸まっている毛布をそっと下ろし、震えるエレノアの金の髪を撫でた。
「……クローネ」
「はい。まだお休みになれませんか」
「うん……っ、音が、うるさくて……お城のみんな、怖い顔してる」
エレノアは、縋るようにクローネの服の裾を小さな手で握りしめた。
「ガウルお兄様、大きな斧を振り回してて怖い。レオンお兄様も、ずっと暗い部屋にいて怖い。お父様は、私を見てくれない……」
「……」
「私ね、なんにもできないの。ガウルお兄様みたいに戦えないし、レオンお兄様みたいにお勉強もできない。だから、誰も私をいらないんだわ。……私、邪魔なのかな」
ぽろぽろと、エレノアの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。
しかし、クローネは静かに首を横に振った。
「いいえ。エレノア様には、殿下方には決して持てない、最強の武器がおありです」
「ぶき……? 私、剣なんて持てないよ」
「マリア様から受け継いだ、その透き通るような金髪と、海のように青い瞳です」
エレノアは目を瞬かせた。
「ただの、髪の毛だよ……? お母様と、同じなだけ」
「その『お母様と同じ』ということが、どれほど圧倒的なものか。……エレノア様は、なぜ私がこの城に上がり、あなた様に仕えているかお分かりですか?」
不思議そうに見上げるエレノアに、クローネはベッドの傍らに片膝をつき、遠い過去を思い出すように目を細めた。
「私がまだ子供だった頃。両親の借金のカタに売られ、貧民街で泥水を啜って生きていた時のことです。私は、マリア様の立ち上げた孤児院に、何十人という子供たちと共に保護されました」
クローネは、ゆっくりと、エレノアを落ち着かせるように静かな声で語り始めた。
「マリア様にとっては、大勢の中の一人だったでしょう。直接お言葉をかけられたこともありません。ですが……貧民街の暗がりから孤児院へ向かう馬車の列で、一度だけ振り返ったマリア様の姿を、私は今でも忘れられません」
クローネは自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
「あの金髪は、まるでそこだけ太陽が落ちてきたかのように輝いていました。その光景を見たとき、私は決めたのです。絶対にあの御方に恩を返すと。……人より少しばかり体が頑丈で、身のこなしにも恵まれていた私は孤児院を出てすぐに城へ上がり、レイモンド執事長の下に潜り込みました。それはもう、毎日吐くほどしごかれましたよ」
クローネは誇り高く微笑んだ。
「身分不相応な私が礼儀作法を身につけ、マリア様のお側に侍女として立てるようになるまで、どれほど血と汗を流したことか。私は特別だったわけではありません。あの黄金の光に恩を返すという執念だけで、ここまで這い上がってきたのです」
「クローネ、が……?」
「はい。民が求めているのは、力だけではありません。暗闇の中で、希望を見せてくれる光も必要なのです。……私は、マリア様の光を受け継いだエレノア様に、その可能性を感じています」
クローネの言葉は、今のエレノアには難しすぎた。
『民の希望』『象徴』。そんな言葉よりも、エレノアの頭を占めていたのは、クローネが続けて口にした残酷な事実の方だった。
「これから先、この城は権力争いの場となるでしょう。たとえ、実のお兄様たちであっても、いつかエレノア様の敵になるかもしれません」
(やっぱり、そうだ……)
お兄様たちはもう敵なのだ。誰も助けてくれない。またしてもノイズが頭の中で膨れ上がり、エレノアの視界が恐怖で涙に滲みそうになった、その瞬間だった。
クローネはベッドに腰を下ろし、震えるエレノアの小さな体を、力強く抱きしめた。
そして、顔を上げて笑ったのだ。
「それでも、私はあなた様の味方です。あなた様を守ります。
たとえ相手が誰であろうと、このクローネが全部ぶっ飛ばして、最強の盾となって差し上げます。
ですから、どうかご安心ください」
ドクン、エレノアの胸の奥で、何かが弾けた。
頭の中でガンガンと鳴り響いていた大人たちの汚いノイズが、嘘のようにスッと消え去っていく。
代わりにエレノアの耳に届いたのは、クローネの胸の奥から鳴る、力強い心音だった。
その音には、ただ純粋な『守り抜く』という意思だけが詰まっていた。
クローネの体温と、力強い腕。何一つ裏表のない真っ直ぐな言葉。
その胸から響く音には、濁りも揺らぎもなかった。
(この人は、絶対に私を裏切らない……っ!)
その安心感に包まれた瞬間、張り詰めていた心の糸が、ぷつんと切れた。
エレノアはようやく、五歳の子どもとして泣くことができた。
「……ほんと? どこにも、いかない……?」
「ええ。どこへも行きません」
「……っ、うわぁぁぁぁんっ! お母様ぁ……っ! 怖いよぉ……っ!」
エレノアはクローネのメイド服の裾を両手でぎゅっと握りしめ、胸に顔を埋めて大声で泣きじゃくった。母が死んでからずっと我慢していた恐怖と悲しみが、とめどなく溢れ出していく。
涙と鼻水で、漆黒のメイド服がぐしゃぐしゃに汚れていく。しかしクローネは何も言わず、ただ優しく、その小さな背中をトントンと叩き続けた。
やがて、ひとしきり泣き疲れたエレノアは、「ひっ、ひぐっ」としゃっくりをあげながら、クローネの腕の中で泥のように深い眠りに落ちた。その目元は真っ赤に腫らされていたが、ここ数日貼り付いていた怯えの色は、すっかり消え去っていた。
だが、小さな姫がようやく束の間の安らぎを得ていた、その頃。
城の別室では、彼女が受け継いだ『黄金の光』を巡り、大人たちの醜悪な権力闘争が本格化しようとしていた。




