第10話:狂信の産声と、迫る足音
王都の地下深く。かつては廃棄された巨大な下水道施設だったその空間は、むせ返るような白檀の香りと、異様な熱気に満ちていた。
「おお……我らが聖母マリア様……」
「どうか、罪深き我らをお救いください……」
石造りの広大な空間を埋め尽くしているのは、何千という数の平民たちだった。誰もがボロボロの衣服を纏いながらも、その瞳には異常なまでの陶酔の光を宿し、最奥に掲げられた『マリア王妃の巨大な肖像画』に向かって、血の涙を流さんばかりの祈りを捧げている。
第二王子レオンは、薄暗い回廊の上から、その光景を冷ややかに見下ろしていた。
(……宗教大臣ボニファティウスから奪った裏金を流し込んで、わずか数週間。まさかここまで肥大化するとはな)
事の始まりは、レオンの些細な「政治的投資」だった。
武力で国を掌握しようとする兄ガウルと、私腹を肥やす五大臣たち。彼らに対抗するためには、民衆の不満を吸収し、思い通りに動かせる「手駒」が必要だった。
そこでレオンは、亡き母マリアを神格化し、密かに活動を始めていた小さな集会所に目をつけ、莫大な資金と特権を与えたのだ。計算通り、正教会の腐敗に絶望していた民衆は、堰を切ったようにこの『聖母教団』へと雪崩れ込んできた。
しかし、レオンの並外れた知性をもってしても、計算しきれなかった「バグ」があった。
「――レオン殿下。ようこそ、我らが祈りの園へ」
背後から、鈴を転がすような、ひどく甘く丁寧な声が響いた。
振り返ったレオンの前に立っていたのは、純白の修道服に身を包んだ一人の若い女だった。透き通るような白い肌と、どこか儚げな美しさを持つ彼女こそが、この数千の狂信者を束ねる教祖――マザー・テレージアである。
「資金援助の礼は結構だ、テレージア。それよりも、この異常な熱気はどういうことだ? 僕は『穏やかに信者を増やせ』と言ったはずだが」
「異常、でしょうか? いいえ殿下、これは『愛』です。マリア様に救われた哀れな子羊たちが、ようやく本当の光を見つけた……その喜びの涙なのです」
テレージアは、両手で自身の胸元をぎゅっと抱きしめ、うっとりとした顔で微笑んだ。
それは、エレノアの傍らに立つクローネの「ニカッ!」という太陽のような笑顔とは、完全な対極にあった。
暗闇の中で、マリアへの愛と己の存在意義に泥酔しきった、恍惚とした、甘く歪んだ微笑み。
かつてテレージアは、クローネと共にマリアに命を救われ、共に城へ上がりメイドとなった同期だった。
しかし、持ち前の身体能力と器用さでレイモンドのしごきに耐え抜いたクローネに対し、不器用で何もできなかったテレージアは、城の規律についていけず、逃げるように去るしかなかった。
だが、マリアへの感謝と執着だけは、誰よりも強かったのだ。己の無力さを呪った彼女は、城の外で「マリアへの愛」を説き続けることで、ついに『狂信のカリスマ』という、メイド業務には一切不要だった恐るべき才能を開花させたのである。
「殿下こそ、お顔色が優れませんね。お疲れなのでは?」
「……気にするな。それより、三日後だ」
レオンは、テレージアが纏う得体の知れない空気を振り払うように、冷徹な声で告げた。
「三日後、王城の大広間で『賢人会議』が開かれる。そこで僕は、法と情報、そして君たち教団の『民意』を盾にして、エレノアの庇護権をガウルから奪い取る。約束通り、外堀を埋めるための信者の扇動を頼むぞ」
「ええ、もちろんです。エレノア様は、マリア様が遺された『至宝』。ガウル殿下や欲深い大臣たちのような、穢らわしい大人たちの手に触れさせるわけにはまいりません」
テレージアは、かつて城のメイドとして仕込まれた完璧なカーテシー(お辞儀)をして見せた。
しかし、その直後に持ち上げた瞳は、薄暗い泥濘のように濁っていた。
「それに……エレノア様のお側には、かつての私の友人であるクローネがついています。あの子は、武力でしかマリア様をお守りできない、可哀想で不器用な子。……私が、泥にまみれたあの子の魂も一緒に、正しき愛の元へとお救いしてあげなければ」
「ええ、いずれはエレノア様をこの地下の聖堂にお迎えし、私たちが永遠にお守りいたしましょう……ふふっ」
その狂気に満ちた慈愛の瞳を見た瞬間。
常に盤面を支配してきたはずのレオンの背筋に、微かな悪寒が走った。
(こいつは、危険だ……。金や権力で動く大臣たちの方が、まだ御しやすい)
レオンは初めて、己が育て上げた組織が「自分の制御すら超える怪物」になるかもしれないという危惧を抱いた。だが、もう後戻りはできない。今は兄の武力からエレノアを奪い取るための、最強の手札として使うしかなかった。
***
そして、重く冷たい夜が明け――朝が訪れた。
ローゼンブルク王城、王女の私室。
窓から差し込む朝日の中で、五歳のエレノアはパチリと目を覚ました。
(……あ、頭が、痛くない)
ベッドから身を起こし、周囲を見渡す。ここ数週間、ずっと彼女の小さな脳を責め立てていた大人たちの『悪意のノイズ』は、嘘のように静まっていた。
ベッドの傍らには、椅子に座ったまま壁に寄りかかって眠っているクローネの姿があった。メイド服のまま、いつでも動ける姿勢で浅い眠りについている彼女の存在が、エレノアにとって最強の静寂となっていたのだ。
クローネの寝息を聞きながら、エレノアはふぅ、と息を吐いた。
頭の痛みが消えたことで、本来の『頭の良さ』が戻ってきたのが自分でも分かる。色々なことが、パズルみたいに繋がって見えてくる。
でも、それをどうやって言葉にすればいいのかが分からない。
五歳の小さな口と喉は、頭に浮かぶ難しい考えに追いついてくれないのだ。
「うーん……お兄様たち、私と遊びたいんじゃない、みたいな……うぅ」
もどかしくて、毛布をきゅっと握りしめて唸っていると、気配で目を覚ましたクローネがスッと立ち上がった。
「お目覚めですか、エレノア様。……どうかされましたか? 難しいお顔をして」
「クローネ……」
エレノアは、頭の中にある『もやもやした正解』を、一生懸命に子供の言葉で伝えようとした。
「あのね、私、なんかわかるの。ガウルお兄様も、レオンお兄様も、お花を見たり、お本を読んだりするために私を呼んでるんじゃないの。私を……何か、違うものに使おうとしてるの。えっと、自分の好きな音を出すための『楽器』とか、宝箱を開けるための『鍵』みたいに……私を、自分の思い通りに使おうとしてる音がするの!」
「楽器や、鍵、ですか」
言葉足らずなエレノアの表現を、クローネは茶化すことなく真剣に受け止めた。そして、少し考えるように顎に手を当ててから、静かに言った。
「……つまり。殿下方や大臣たちは、エレノア様を自分たちの権力を大きくするための『便利な道具(お飾り)』として利用しようとしている。……そういうことですか?」
「それ!!」
エレノアの顔がパァッと明るくなった。
自分が言いたかったことを、クローネが綺麗に『言葉』にしてくれたのだ。
「そう、それなの! お兄様たちの武器から、嫌な音がするのも、みんなが私を見てコソコソしてるのも、全部、私を『道具』にしたいからなの!」
「なるほど、よく分かりました」
クローネは深く頷き、ふつふつと怒りを湧き上がらせるように拳を鳴らした。
「なんてクズ……コホン。なんて不敬な大人たちでしょう。マリア様が遺された大切な光を、道具扱いしようだなんて」
「……怖いよ、クローネ。私、道具になっちゃうのかな」
「なりませんよ。そんなふざけたことを言う奴らは、私が一人残らず窓からぶっ飛ばします」
クローネがニカッと笑うと、エレノアの胸の奥にあった不安が、スッと消えていった。
(私には、難しいことは言えないかもしれない。でも……クローネがいる)
自分の感覚を信じて、それをクローネに伝えればいいのだ。この人がいれば、もう大人の悪意になんて押し潰されたりしない。
そう確信した、まさにその時だった。
――コツ、コツ、コツ。
廊下から、正確で一分の隙もない足音が近づいてくるのが聞こえた。
クローネの顔から笑顔が消え、瞬時に警戒の態勢を取る。
(……音が、ない)
エレノアは息を呑んだ。足音は聞こえるのに、その人間から発せられるはずの感情のノイズが『一切、無』なのだ。それは悪意のノイズよりも恐ろしい、底知れない深淵の気配だった。
(この足音……レイモンド様だわ)
扉の前でピタリと止まる足音。
それは、大人たちの欲望が激突する運命の会議を前に、『絶対中立の怪物』が動き出したことを告げるだった。
「――エレノア様。執事長のレイモンドにございます。お耳に入れたき儀があり、参りました」
運命の扉を叩く整然としたノックの音が、二人の部屋に、冷たく響き渡った。




