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第11話:不協和音と、圧倒的なお掃除

――コン、コン、コン。

運命の扉を叩く整然としたノックの音が響いた。


「どうぞ、レイモンド様」

クローネが居住まいを正し、深く頭を下げて応じた。

扉が開き、一切の足音を立てずに部屋へ入ってきたのは、初老の執事長レイモンドだった。彼はアイロンの効いた燕尾服のシワ一つ乱さず、冷たいガラス玉のような瞳で主従を見据えた。


「おはようございます、エレノア様。単刀直入に申し上げます。三日後の正午、大広間にて『賢人会議』が開かれます。そこで、エレノア様の今後の後見人――ひいては、王位継承を巡る主導権をどちらの陣営が握るかが決定いたします」


レイモンドの言葉は、抑揚のない業務連絡のようだった。だが、続く言葉には確かな『警告』が混じっていた。

「もはや、逃げ場はございません。出席は必須です。それまでの三日間、ご自身の価値をどう証明されるか……せいぜい『ご無事』でいらっしゃることをお勧めいたします。では」


それだけを言い残し、嵐の到来を告げた怪物は静かに去っていった。

閉まった扉を見つめた後、クローネはふう、と息を吐き、いつもの調子に戻った。


「三日後……。とうとう、法と理屈で決着をつけるつもりのようですね。どうされますか、エレノア様」

「クローネ」

エレノアは、小さな両手でドレスの裾をギュッと握りしめて言った。


「私、お本がたくさんあるお部屋に行きたい。大書庫。……いっぱい、知りたいの。大人の言葉を、たくさん」


会議の場で、自分をただの「道具」にさせないために。大人の悪意と戦うための武器である「知識」と「言葉」が欲しい。

「承知いたしました。では、参りましょうか」

クローネはエレノアの手を取り、静かに部屋を後にした。


***


王城の廊下は、朝だというのに異様なほど人気がなかった。

大書庫へと続く長い渡り廊下に差し掛かった、その時である。


「――お待ちしておりましたよ、エレノア殿下」


行く手を塞ぐように、完全武装した五人の屈強な兵士たちが現れた。全員が、胸に第一王子ガウル派を示す『赤獅子』の紋章を刻んだ鎧を着込んでいる。


「ガウル殿下より、心細いであろう王女殿下の『護衛』を仰せつかりました。ささ、我々と共に、ガウル殿下の安全な離宮へ……」

兵士の長らしき男が、ニヤリと下卑た笑みを浮かべて一歩近づいてきた。


その瞬間。

エレノアの耳に、耐えがたい『音』が響き渡った。


(……いやっ、なにこれ……っ!)

男の腰に提げられた立派な長剣。そこから、まるで錆びついた鉄を無理やりこすり合わせるような、ギシギシと濁った『嫌な音』が鳴り響いているのだ。

ガウルやレオンが剣や斧を構えた時の、あの耳がすうっとするような綺麗な音とは、全く違う。聞いているだけで吐き気がするような、汚らしい音。


「っ……やめて! 近づかないで!」

エレノアは両耳を塞ぎ、顔をしかめて叫んだ。

「お兄様たちのときは凄く綺麗な音がしたのに……おじさんの剣、すっごく嫌な音がする! ギシギシ言ってて、剣が泣いてるの!」


「……あ?」

男の顔から笑みが消え、ピクッと青筋が浮かんだ。


「なるほど」

クローネがスッとエレノアの前に立ち、ニヤリと笑って『翻訳』した。

「つまり……『その立派な剣は、お前みたいなクズには全く似合ってない。宝の持ち腐れでダサいから、さっさとどこかへ行け』……ということですね?」


「それ!!」

エレノアがパァッと顔を輝かせて頷く。


「な、なんだと、この小娘ども……ッ!」

兵士長の男が顔を真っ赤にして激昂し、腰の長剣を乱暴に引き抜いた。チャキッ、と後ろの四人も同時に剣を構える。さらに強くなった不協和音に、エレノアが身をすくめる。


「エレノア様のお耳が穢れる。――さっさと黙らせます」


クローネはエレノアを左手でふわりと抱き上げると、廊下の端に置かれていた清掃用ワゴンを右足でガンッ!と蹴り飛ばした。

車輪のついたワゴンが兵士たちに向かって猛スピードで滑走し、男たちが反射的に「チィッ!」と剣でそれを弾き飛ばした、そのコンマ一秒の隙。


クローネの右手にはすでに、ワゴンから抜き取られた『柄の長いモップ』が握られていた。


「殺さねえ程度に手足を折れ!!ガキを抱えてる女だ、逃がすな!」

兵士長は、クローネの腕の中にいるエレノアへ視線を走らせた。


正面から押し切る必要はない。王女を狙えば、あの女は必ず動きを制限される。


男の怒声と共に、二人の兵士が左右に散り、兵士長自身は正面から距離を詰め、残る二人は正面に控えクローネの退路を奪っていった。


「へえ……」


クローネの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「ただの脳筋じゃねえってわけか」


その声音は、いつもの上品なメイドのものではなかった。


「遅い」


重い鋼の剣が振り下ろされるより早く。

クローネはモップの柄を鋭く突き出し、右の兵士の『手首の鎧の隙間(関節部)』を正確に打ち据えた。

「がッ!?」

手首の腱を強打され、剣を取り落とした兵士の顎下――兜の隙間に、返す刀でモップの柄が跳ね上がる。脳を揺らされた巨漢が白目を剥いて崩れ落ちる。


「このアマ……ッ!」


左から迫る兵士が、エレノアへ向けて剣先を突き出す。対し、クローネはモップの先端を足元の『水入りバケツ』に突っ込み、その水を思い切り顔面へとぶちまけた。


クローネの笑みが消えた。


「――触るんじゃねえよ」


「ぐわぁっ!? 前が――」

目潰しと同時に、たっぷり水を含んで石のように重くなったモップの先端が、バチンッ!と兜の側頭部を強打する。凄まじい衝撃に、兵士は錐揉み回転して壁に激突した。


「化け、物か……ッ! まとめて斬り伏せろ!」

兵士長含む三人が一斉に襲いかかる。


だが、クローネは退かなかった。


一歩。半歩。


エレノアを抱く腕は、驚くほど揺れない。


敵の剣が通る場所を知っているかのように身体を滑らせ、鎧の継ぎ目へモップの柄を打ち込んでいく。


膝裏を打たれた男が崩れ、脇腹を突かれた男が息を詰まらせる。


兵士長が、背後へ回り込む。


だが、クローネは振り返りもしなかった。


モップの柄を床に突き、身体を軸にして向きを変える。飛び込んできた兵士長の足を払い、そのまま肩口へ柄を叩きつけた。


次の瞬間、鈍い音が響き、巨体が床へ沈む。

静寂が戻った。


幼い王女を抱いたメイド。

手には、一本のモップ。


(……すごい)


エレノアは、揺れないようにしっかりと抱かれたクローネの腕の中で、不思議な感覚に包まれていた。

兵士たちの立派な剣からは、ギャーギャーと耳障りな音が聞こえる。

でも、クローネが振るう安物のモップからは、何の音もしない。ただ、湖面のようにひんやりとした、静かで圧倒的な『安心感』だけがあるのだ。


(これでも、音は鳴らないんだ。……もし、いつか。お兄様たちの剣みたいに、クローネの手にぴったりの『何か』が見つかったら……どんなに綺麗な音が鳴るんだろう)


わずか十数秒。

渡り廊下には、鎧の隙間や関節を的確に打たれ、意識を失った五人の重武装兵が転がっていた。


「……ふぅ。お掃除、完了です。エレノア様、お怪我はありませんか?」

その声は、いつもの穏やかなメイドのものに戻っていた。

クローネは何事もなかったかのようにバケツの縁でモップの水を切り、ニカッと笑った。


「うん! クローネ、すごい!」

「ふふん、これくらいメイドのたしなみですよ。さあ、大書庫へ向かいましょう」


クローネは気絶した兵士たちを冷ややかに一瞥すると、エレノアを抱えたまま、軽やかな足取りで廊下を進んでいった。


この日を境に。

ガウル陣営の中で「あのメイドには、物理で挑んではならない」という絶望的な情報が駆け巡ることになるのだが、それはまだ、数時間後の話である。

***

翌朝。

賢人会議まで、残り二日。

王城の奥深くにある大書庫は、静寂に包まれていた。天井まで届く本棚が迷路のように連なり、古い羊皮紙とインクの匂いが満ちている。


「クローネ、この『ほうりつ』っていうのは、誰が決めたの?」

「それは昔の王様と、貴族たちの寄り合いですね。自分たちが損をしないように作った、ただのルールブックですよ」


窓際の大きな机で、エレノアは自分の顔より大きな本を広げ、熱心にページをめくっていた。クローネはその後ろで、静かに控えている。ガウル派の襲撃があってから、二人は大書庫に籠もりきりだった。

「――エレノア殿下。お茶をお持ちいたしました」


ふと、本棚の影から一人のメイドが現れた。

年齢は二十歳前後。アイロンの行き届いたエプロンドレスに、一糸乱れぬ歩み。銀のお盆(シルバートレイ)に乗せられた紅茶の表面は、一滴たりとも波打っていない。

(……完璧な所作ですね。王宮付きのベテランでしょうか)

クローネでさえ、そのメイドの動きに不審な点は一切見出せなかった。


「あ、ありがとう」

エレノアが顔を上げ、メイドが差し出したティーカップを受け取ろうと小さな手を伸ばす。

そして、エレノアの指先が、メイドの白い指にほんの僅かに触れた。


――その瞬間。


(……っ!? なに、これ……っ!!)

エレノアは、心臓を直接鷲掴みにされたような悪寒に襲われた。

メイドの指から、見えない『黒くてドロドロとした泥』のようなものが、べっとりと絡みついてくる感覚。

表面は優しく微笑んでいるのに、その奥底には、身の毛もよだつような狂気が渦巻いていた。


(この人……私を、どこかへ連れて行こうとしてる……?)


慈愛の皮を被った、おぞましい殺意。


「いやぁっ!!」

バキンッ!!

恐怖のあまり、エレノアは反射的にティーカップを力いっぱい払いのけた。

美しい陶器が床で砕け散り、温かい紅茶が水たまりを作る。


「……エレノア、様?」

メイドが、きょとんとした顔で首を傾げた。

「どうなさいました? ああ、可哀想に。お疲れで心が乱れていらっしゃるのですね。……私が、すぐに楽にして差し上げますから」


メイドの目が、三日月のように細められた。その瞳の奥には、正気とは思えない『狂信の光』がギラギラと宿っている。

次の瞬間、メイドの袖口から、緑色の液体が塗られた細い『毒針』が飛び出した。

暗殺者が躊躇なく、エレノアの首筋へ針を突き立てようと踏み込んだ――その時である。


「気安く触ってんじゃねえぞ、三流が」


ガツンッ!!!

大書庫に、鈍い金属音が響き渡った。

暗殺者の毒針がエレノアに届くコンマ一秒前。二人の間に割って入ったクローネが、暗殺者が持ってきた『銀のお盆』を盾にして、毒針を完璧に受け止めたのだ。


「なっ……!?」

暗殺者が目を見開く。

クローネは笑っていなかった。


「……てめえ」


低く、冷え切った声。


「今、誰に触ろうとした?」


返事を待たず、クローネは銀のお盆を相手の視界へ押し出した。

その陰から伸びた左手が、毒針を握る右手首を捉える。


「ぐっ……!」


手首をひねり、相手の重心を崩す。


クローネはそのまま懐へ踏み込み、暗殺者の身体を床へ叩きつけた。


ドゴンッ!!


肺から空気が漏れ、暗殺者が苦悶の声を上げる。


クローネは相手の腕を押さえ込んだまま、銀のお盆の縁を首元へ突きつけた。


「動くな」


短い言葉だった。


その声には、いつもの明るさも、メイドらしい柔らかさもなかった。


「次はねえぞ」


暗殺者の目が泳ぐ。


クローネは、ただ相手を見下ろしていた。


怒鳴りもしない。余計な動きもしない。


エレノアへ伸ばされた手を、二度と伸ばさせない。


そのために必要なことだけを、淡々とこなしていた。


やがて暗殺者の身体から力が抜けた。意識を失ったことを確認すると、


クローネはようやく銀のお盆を離した。


そして、振り返る。


静寂が、大書庫に戻る。

戦闘時間は、わずか数秒。本棚の本一冊すら落とすことなく、クローネは暗殺者を無力化していた。


「……ふぅ。エレノア様、お怪我はありませんか?」

クローネは銀のお盆を横に置き、何事もなかったかのように立ち上がると、打って変わったような優しい声色でエレノアの前に片膝をついた。


「クローネ……っ」

エレノアは涙目でクローネの胸に飛び込んだ。

「怖かった……! あの人、笑ってたのに、触ったら……真っ黒で、ベトベトした変な泥がいっぱいくっついてきたの!」


「……泥、ですか」

クローネは、エレノアの背中を優しく撫でながら目を細めた。

(目には見えないが、この方には人間の悪意が『泥』のように感じ取れるのか……

ガウル派の『不協和音』に続き、今度は『接触による悪意の感知』か・・・)


「なるほど、それはおぞましいものを触らせてしまいましたね。……でも、ご安心ください、エレノア様」

クローネはニカッと笑い、力強く請け負った。

「どんな目に見えない泥を被ったクズが来ようと、私が全て綺麗にお掃除いたしますから」

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