第8話:覇道と狂信
マリアの葬儀から数日が過ぎた。
ローゼンブルクの空を重い鉛色の雲が覆う中、王城の練兵場には一触即発の空気が張り詰めていた。
「ガウル殿下。幾ら何でも無茶というものです。国境警備の兵を半分に減らし、すべて王都の直属軍に回すなど……それでは隣国の付け入る隙を与えることになりますぞ」
静かだが、鋼のように重く響く声。
ガウルの前に立ちはだかっているのは、王国騎士団長ウォルターであった。かつてグレン王と共に幾多の死線を潜り抜け、「鋼の肉体」と謳われた伝説の将。彼の実力と威風堂々たる佇まいは、血気盛んな若き兵士たちでさえ息を呑むほどだった。
「……」
ガウルは答えない。身の丈ほどもある大斧を無造作に引き抜くと、事も無げにウォルターの首筋へ向けて、空間を切り裂くような轟音を伴う一撃を放った。
ガァンッ!!
火花が散り、鼓膜を叩き割るような激しい衝撃波が周囲の兵士たちを吹き飛ばした。
ウォルターは一歩も退いていない。彼自身の分厚い大剣が、ガウルの凶刃を正面から完璧に受け止めていた。
「……本気ですか、殿下」
「流石は伝説の将、俺の斧を止めるか。だが時代は終わったのだ、ウォルター」
ギリギリと斧を押し込みながら、ガウルはウォルターを見下ろした。その瞳には、熱を帯びた狂気と、底なしの冷酷さが同居している。
「偉大なる『武』の象徴であった父上はもはや死んだも同然。俺たちに優しさばかりを説いた母上は、誰にも守られずあっけなく死んだ。今、この国を狙うハイエナ共を退けるものは何だ? 対話か? 祈りか?」
「殿下……王の覇道とは、力だけで為せるものではありません。グレン様は――」
「父上は、大戦でお前たちに守られず、孤立して膝を砕かれた! その結果が今の腑抜けだ!」
ウォルターの顔が僅かに歪んだ。
『グレン王を守りきれず、傷を負わせてしまった』という、彼の心に一生消えない刃として突き刺さっている悔恨。ガウルはそれを容赦無くえぐり出した。
「圧倒的な『暴力』だ。俺が、父上を越える恐怖の象徴とならねば、この国は喰われる。……逆らう者は斬る。俺の軍に口答えは不要だ」
ウォルターは、ガウルの瞳の奥に宿る狂気的なまでの「国を守る」という強迫観念を見た。
(……もはや、止めることはできん)
かつて膝に抱いた小さな王子は、もういない。目の前にいるのは、国を守るために自らを怪物へと作り変えた男だった。
ウォルターは静かに剣を引き、深く頭を下げた。
「……御意のままに」
その声に、忠誠の熱はなかった。
ウォルターは顔を伏せたまま、握りしめた拳に力を込める。かつて忠誠を誓った王の姿を思い浮かべながら、彼は何も語らず、その場を後にした。
ウォルターが背を向けて立ち去る中、若き兵士たちの間からは熱狂的な地鳴りのような歓声が上がった。第一王子ガウルが、ローゼンブルクの『軍』という巨大な獣の手綱を握った瞬間だった。
***
同じ頃。王城の地下深く、物音一つしない、氷室のように冷たい文書庫。
第二王子レオンは、革張りの椅子に深く腰掛けながら、目の前で床に這いつくばる初老の男を見下ろしていた。男は、ローゼンブルク王国の伝統的な国教『ローゼンブルク正教会』の高位司祭だった。
「ひ、ヒィィッ! お許しを、レオン殿下! そ、それは誤解で……!」
「誤解? 奇妙なことを言う。僕はまだ何も言っていないよ」
レオンは、手元にある一冊の古い帳簿をパラパラと捲りながら、21歳とは思えない冷え切った笑みを浮かべた。
「五年ほど前……父上が出陣した国境紛争の裏の金の流れだよ。」
「ち、違います! あれは……!」
「言い訳はいい。過去の罪を問うつもりはないんだ」
パタン、と帳簿を閉じ、レオンは司祭の前に歩み寄ってその顎を靴の先で持ち上げた。
「これからの話をしよう。兄上は馬鹿だから、力だけで国をまとめようとしている。だが、いずれ武力だけでは立ち行かなくなる。その時に備えて、僕には圧倒的な『資金』と『盤面を支配する眼』が必要だ」
「し、資金と眼、ですか……?」
「そう。今日から正教会に集まる献金の一部を、僕の派閥に回しなさい。表向きは救貧事業への支出として処理すればいい。そして、全国の教会にある『懺悔室』を僕の耳にしろ。貴族から平民まで、彼らが神にすがる理由も、隠している秘密も、すべて僕の元へ集めるんだ」
神聖な祈りの場を、血生臭い諜報網と集金装置に変えろという悪魔の要求。
司祭は絶望で顔を蒼白にさせたが、大戦にまつわる不審な金の流れ――それが表沙汰になれば、教会の権威にも傷がつく。もはや、首を縦に振る以外の選択肢はなかった。
「……賢明な判断だ。母上の愛したこの国は、僕の盤面で守り抜く」
レオンは暗がりの中で、一人静かに微笑んだ。
兄の振るう武力の届かない影の世界で、信仰という名の皮を被った巨大な蜘蛛の巣が、静かに張り巡らされようとしていた。
だが、その網のどこかで、レオンの計算にはない何かが、静かに芽吹き始めていた。




