第6話:太陽の誓いと、覇王の落日
夜の帳が降りた王妃の寝室は、重く冷たい静寂に包まれていた。
豪奢な天蓋ベッドに横たわるマリアの呼吸は、すでに浅く、いつ途切れてもおかしくないほど弱々しい。
その枕元に、ただ一人控える少女がいた。エレノアの専属侍女、クローネである。
「……クローネ。近くへ」
「はい、マリア様」
掠れた声に呼ばれ、クローネはベッドの傍らに膝をついた。
「城の空気が、ひどく淀んできているのを感じます。……私がいなくなれば、きっとあの子は一人ぼっちになってしまう。ガウルもレオンも、もはや立ち止まることはできないでしょう」
悲痛な響きを帯びたマリアの言葉を、クローネは静かに聞いていた。
「あなたは強い子。あの貧民街の路地裏で命を繋ぎ止めた、誰よりも逞しい生命力を持っている。……お願い、クローネ。エレノアの盾となり、剣となって、あの子をどうか守ってちょうだい」
それは、一国の王妃からの一介の侍女への頼みではなかった。
かつて絶望の底で泥水を啜っていた自分を掬い上げてくれた、唯一絶対の『神様』からの、最初で最後の願いだった。
クローネは顔を上げた。
死の淵にある主を前にして、彼女は一切泣かなかった。声すら震わせなかった。
代わりに彼女は、笑みを浮かべた。
暗く沈む病室に光を差し込むような、底抜けにポジティブな笑顔――白い歯を見せて「ニカッ」と笑ったのだ。
「お任せください、マリア様!」
迷いのない、真っ直ぐで明るい声が、寝室の死の気配をパァンと弾き飛ばす。
「この命に代えても、エレノア様は私が必ずお守り通します! どんな悪党が来ようが、全員まとめてぶっ飛ばして差し上げますから、どうかご安心を!」
悲壮感など微塵もない。ただ純粋な忠誠と、絶対的な自信だけがそこにあった。
その眩しすぎる笑顔を見た瞬間、マリアの強張っていた顔からふっと緊張が抜け、心底安堵したような、この上なく穏やかな微笑みが浮かんだ。
「……ええ。あなたがいれば、あの子は絶対に大丈夫ね」
***
夜が明け、空が白み始めた頃。
報せを受けて血相を変えて飛び込んできたのは、グレン王とエレノアだった。
城内にいるはずのガウルとレオンの姿はない。二人は互いの正しさを証明するための対立に没頭し、ついに母の死に目にすら間に合わなかったのだ。
「マリア……! マリア、駄目だ、私を置いていかないでくれ……!」
かつて武力で大陸を震え上がらせた覇王グレンが、なりふり構わず愛妻の手を握りしめ、子供のように懇願する。
エレノアもまた、母の冷えゆく手を小さな両手で包み込み、ボロボロと涙をこぼしていた。
「……泣かないで、エレノア。あなたは、とても優しい子……そのまま、真っ直ぐに……」
「お母様……っ、嫌です、お母様……!」
その時だった。
泣きじゃくって母の胸元に顔を埋めようとしたエレノアは、ふと、それに気づいた。
――ジ、ジジッ……。……ケケケッ……。
耳鳴りのような、微かなノイズ。いや、それはどこかの誰かが嘲笑うような、底知れぬ『悪意の音』だった。
それは音でありながら、エレノアの目にははっきりと「黒い染み」として見えた。
マリアの胸の奥底。心臓のあたりから、インクを零したような漆黒の何かが滲み出ている。
(なに、あれ……?)
エレノアが息を呑んだ次の瞬間。
限界を迎えたダムが決壊するように、その「黒い何か」は爆発的に膨れ上がった。
まるで意思を持った無数の黒い茨のように、マリアの首筋へ、頬へ、そして全身へと、凄まじい速度で這い上がり、その身体を覆い尽くしていく。
「グレン……どうか、国を……子供たちを……」
母の最期の言葉と共に、黒い影は完全にマリアを飲み込んだ。
「あ……っ!」
エレノアは咄嗟にその黒い影を払いのけようと手を伸ばしたが、彼女の小さな手は空を切るだけで、何も触れることはできなかった。影は幻のように霧散し――マリアは、静かに息を引き取った。
寝室に、再び重い静寂が落ちる。
「お父、様……今の……お母様が……」
エレノアは震える声で隣を見た。しかし、グレン王は黒い影になど全く気づいていないようだった。彼はただ、呆然と、完全に事切れた妻の顔を見つめていた。
――カランッ。
ふいに、ひどく乾いた音が石の床に響いた。
グレンが常に腰に帯びていた、幾多の戦場を共に駆け抜けたはずの重厚な短剣が、力なく抜け落ちた音だった。
糸の切れた操り人形のように、かつて武を極めた巨躯が、ドスッと音を立てて膝から崩れ落ちる。
中庭で響いた兄弟の木剣の『濁った音』とは対極にある、中身が完全に空っぽになってしまったような、虚ろでひどく乾いた音。
ひとりの偉大な覇王が死に、ただの『老いぼれた抜け殻』へと成り下がった瞬間だった。
父の瞳にはもう何も映っていない。
母を飲み込んだ恐ろしい「黒い何か」を見たのは、自分だけ。
誰にも理解されない底知れぬ恐怖と、巨大な柱を失った喪失感が、冷たい波のようにエレノアを飲み込んでいく。
しかし、その崩壊する世界の中で、ただ一人。
エレノアの背後に立つクローネだけは、一滴の涙も流さず、静かに前を見据えていた。
その瞳には、先ほどの太陽のような笑顔とは打って変わった、冷徹なまでの鋭い光が宿っている。
彼女の心はすでに、主の遺言を完遂するための『エレノアを守る盾』へと、完全に切り替わっていた。




