第4話:執務室の不協和音と氷の知性
「――兄上が出兵しただと!?」
王宮内にあるレオンの執務室に、普段の彼からは想像もつかない激しい怒声が響き渡った。
報告に駆け込んできた伝令の兵が、ビクッと肩を震わせる。レオンは手にしていた羽ペンを乱暴に机に投げ出し、立ち上がった。
「あの人は何を考えているんだ!! よりにもよって我が国の民に剣を向けるなど……力でねじ伏せて解決する事態ではないと、あれほど言ったというのに!」
ドンッ、と両手を強く机に叩きつける。
その瞬間、分厚い樫の木の天板にミシッ……と嫌な音が響いた。彼にはあるまじき、武王グレンの血を引く強烈な腕力。
端正な顔は怒りと焦燥に歪み、その瞳には兄の愚行に対する激しい憤りが燃えていた。王妃マリアが倒れ、ただでさえ国が揺れているこの時期に、王族自らが民に剣を向ける。それは国家の崩壊を意味していた。
しかし、レオンが感情を剥き出しにしていたのは、ほんの数秒のことだった。
彼は深く、長い深呼吸を一つすると、目を閉じた。
(……怒っている暇はない。兄上が火を放ったのなら、私が消すまでだ)
レオンはギリッと血が滲むほど噛み締めていた奥歯を離し、白くなるほど握り込んでいた拳をゆっくりと開いた。
再び目を開けた時、彼の瞳から「弟としての感情が消えていた」そこにあるのは、極寒の氷のような政治家の眼差しだけだった。
「今すぐ文官たちをここに集めろ。総員だ。一刻の猶予もない」
数分後、執務室は戦場と化した。
分厚い絨毯の上を文官たちが目まぐるしく行き交い、インクと羊皮紙が次々と消費されていく。その中心で、レオンは恐るべき処理能力で指示を飛ばし続けていた。
「近隣諸侯へは『王都外縁に出没した大規模な盗賊団の討伐』と通達しろ。鎮圧後の区画には、直ちに王族の息がかかった商会から食料と医療物資を投入する。家を焼かれた者たちを、今度は私が銀貨で買い上げるのだ」
「殿下、教会のボニファティウス卿にも救護の協力を要請いたしますか?」
「いや、事後処理に教会の連中は介入させるな。祈るしか能のない無能どもに割く時間も予算もない。救済はすべて、王族の商会名において迅速に行え」
レオンは冷徹に言い放った。感情に任せて動く兄も、神にすがるだけの教会も、この国を救う役には立たない。
「御意」
やがてすべての指示を終え、文官たちが次々と執務室を後にしていく。
一人残されたレオンは、重い足取りで窓辺へと向かった。窓の向こうには、かつて母マリアが愛し、守ろうとした王都の街並みが広がっている。しかし今は、その外縁から微かに黒い煙が上がっているのが見えた。
「……兄上の剣では、国は壊れる。かといって、母上の愛だけでも、民衆を縛り付けることはできない」
「ならば何が必要だ。何をもって人は動く。何を掲げれば、この国は再び一つになれる。」
窓ガラスに映る自分の冷たい顔を見つめながら、レオンは呟いた。
その時だった。
乱暴な音を立てて、執務室の重厚な扉が蹴り開けられた。
「暴徒どもは粗方片付けたぞ!!」
怒号と共に踏み込んできたのは、第一王子ガウルだった。
その銀の鎧にはべっとりと赤黒い血がこびりつき、部屋の空気が一瞬にして鉄と血の臭いで染まる。ガウルの目は血走り、異常なほどの高揚感に包まれていた。
「貴様が城の奥で震え、帳簿と睨めっこしている間にな! 見ろ、これが現実だレオン! 御託や理想では国は守れん。俺の剣だけが、この国の秩序を取り戻したのだ!」
自らの武力による成功体験に酔いしれ、己の正しさを誇示する兄。
その熱狂に対し、レオンは窓辺からゆっくりと振り返った。母の柔らかさを模倣して伸ばされた漆黒の長髪が、冷たい風にふわりと揺れる。先ほどの激昂など微塵も感じさせない、すべてを凍りつかせるような虚無の表情だった。
「……ご苦労様でした、兄上」
感情の抜け落ちた声だった。ガウルの高揚が、一瞬削がれる。
レオンは自らの執務机に戻りながら、淡々と告げた。
「兄上が血を浴びて『英雄ごっこ』に興じている間に、他国への外交工作、事後処理のための物資手配、そして暴動の首謀者に関する情報統制、すべて完了しております。……あとは、私が手配した者たちが血の海を綺麗に掃除いたしますので。兄上はどうぞ、その汚れた鎧を脱いでお休みください」
「き、貴様……!」
絶対的な武力で全てをねじ伏せたはずのガウルは、目の前の弟が放つ底知れない政治力と氷の知性の前に、己の振るった剣がひどく虚しいものに思え、ギリッと歯噛みした。
書類の散乱する執務室で、二人の王子の道は完全に決裂した。
燃え盛る暴力の覇道を突き進む兄と、冷徹な知性で盤面を支配しようとする弟。決して交わることのない二つの巨大な歯車が、狂った音を立てて回り始めていた。




