第3話:力への渇望と、黒き扇動
――少し、時は遡る。
偉大なる獅子、グレン王が先の戦で深手を負い、床に伏してからのち。
太陽のように王宮を照らしていたマリア王妃もまた、原因不明の病魔に蝕まれ、日に日に憔悴していった。
絶対的な二つの柱を失ったローゼンブルク城には、目に見えない重く澱んだ暗雲が立ち込めていた。
「また暴動だと……!? 先日、備蓄庫から追加の麦を送ったばかりではないか!」
執務室に、第一王子ガウルの怒声が響く。彼は叩きつけるように報告書を机に投げ捨てた。
ミシリ、と。無意識に体重をかけた分厚い黒檀の机に、不吉な亀裂が走る。
「それが……途中の関所で何者かの襲撃に遭い、物資の半分が略奪されたとのことです。領民たちの不満は限界に達しており、一部は武装して領主の館を取り囲んでいると……」
報告を読み上げる役人の声が震えている。ガウルのこめかみに青筋が浮かんだ。
連日の激務と心労で、その鋭い三白眼には濃い疲労の色が滲み、荒い息が漏れている。
王都周辺の村々や関所で多発する、深刻な物資不足と暴動。
最初は弟のレオンと共に、事態の収拾にあたった。レオンの言う「民に寄り添う慈愛」と対話による解決こそが、母マリアの教えでもあったからだ。
しかし、どれだけ物資を送り、対話を試みても、暴動はまるで意思を持っているかのように別の場所へ飛び火し、その規模を拡大させていく。
ガウルは知らなかった。
この一連の騒動の裏で糸を引いているのが、軍務大臣ガザをはじめ、
五人の重鎮たちであるということを。
王と王妃の不在を好機と見た彼らは、物資の流通を意図的に滞らせ、息のかかったならず者を煽って暴動を自作自演していたのだ。すべては、自らの権力基盤を盤石にし、国を意のままに操るための布石として。
「殿下。もはや猶予はありません」
重苦しい執務室に、軍務大臣ガザの低く、しかしよく響く声が落ちた。
ガザは他の四人の大臣を引き連れ、うやうやしく一礼する。
「レオン殿下の仰る『慈愛』は尊きもの。しかし、暴徒と化した愚民どもには通じません。彼らは王家の温情を弱さと見くびり、増長するばかり。このままでは、グレン王が築き上げたこの国が、内側から食い破られてしまいますぞ」
ガザの言葉に、ガウルはすぐに反論できなかった。
机に散乱する、赤黒く染まった報告書の数々。戦場であれば一振りで敵を粉砕できる彼の大戦斧も、地図上の「見えない悪意」の前では何の役にも立たない。レオンと共に手配したはずの支援物資は略奪され、対話に赴いた文官は無惨な姿で送り返されてきたという事実が、彼の言葉を塞ぐ。
「……どうすればいい」
ガウルは両手で顔を覆い、絞り出すように呻いた。
「食料も送った。言葉も尽くした。なのに、なぜ民はわかってくれない……!私は武人だ、小賢しい政治など分からん!だが、父上が命懸けで守ったこの国を、私の代で終わらせるわけにはいかないのだ。教えてくれ……こんな時、父上ならば……!」
限界まで追い詰められ、正解を求めて暗闇を彷徨う若き王子。
それを冷ややかに見下ろしながら、ガザは静かに歩み寄った。
彼の視線が、執務室の壁に飾られた、かつてグレン王が振るった大剣を捉える。
そして、迷えるガウルの耳元で、甘美な毒のように囁いた。
「レオン殿下の慈愛は、平時には国を豊かにいたしましょう」
「しかし、今は違う」
「剣を捨てぬ者に手を差し伸べれば、その手ごと噛み砕かれる」
「王とは、時に民から憎まれる決断をする者ではありませんか」
「……殿下。やはり、力しかありませんな」
その一言が、ガウルの中で張り詰めていた何かを弾けさせた。
――力。
圧倒的な武で国を平定し、このローゼンブルクを盤石なものとした英雄の姿が、ガウルの脳裏に鮮烈に蘇る。
そうだ。父がいない今、自分が圧倒的な力でねじ伏せ、王家の絶対的な威信を示さなければならない。
今のような非常時に、優しさだけで国を守ることなどできない。
顔を覆っていた手をどけたガウルの瞳から、かつての温かな光は完全に消え失せていた。
ガウルの脳裏から、
レオンの言葉が消えていく。母の笑顔も。慈愛も。対話も。
今の彼には、それらすべてが、国を救うにはあまりにも無力なものに思えてしまった。
残ったのは――
吹雪の中を歩く父の背中だけだった。
「……軍を動かせ。反乱分子は、一人残らず武力をもって鎮圧する」
「御意のままに」
深く頭を下げるガザたちの口角が、醜く吊り上がっていることに、ガウルは気づくことはなかった。重武装の兵士たちが王都を出発する地響きが、崩壊へのカウントダウンのように城を揺らしていた。




