第2話:奇跡の薔薇と、ひび割れる両輪
二つの「正義の種」が蒔かれた夜から、数年の月日が流れた。
王都ローゼンブルクに、一つの奇跡が舞い降りる。
――王女エレノアの誕生である。
「見てくれ、レオン! お前よりずっと小さくて、まるでおとぎ話の妖精のようだぞ!」
生まれたばかりの赤子の揺り籠を覗き込み、当時十八歳の長男ガウルが、戦場で見せる鬼神のような凄みをすっかり消し去って破顔していた。
その傍らで、十六歳の次男レオンもまた、普段の冷静な仮面を脱ぎ捨てて、狂おしいほどの愛おしさを瞳に宿して揺り籠を見つめている。
「本当に……愛らしい。兄上、この子は母上と同じ【純金色の髪】と、吸い込まれそうな【碧眼】をしています。ローゼンブルクの『光』そのものだ」
「ああ、間違いない。俺たちがこの手で、この『光』を生涯守り抜くのだ」
「ええ、約束です。兄上」
二人の兄が差し出した無骨な指を、赤ん坊のエレノアが小さな両手でぎゅっと握り返す。
この時、間違いなく二人の間には、何者にも引き裂けない本物の「兄弟愛」と、妹を愛する一つの「絆」が存在していた。
……存在していたはずなのだが。
エレノアが三歳になる頃、その「絆」は、少々おかしな方向へと暴走し始めていた。
「違う、そうではない! ガウル殿下、レオン殿下! 私が話しているのは今後の西の蛮族への対応であって、エレノア殿下にどちらが新しいおもちゃを買い与えるかという話ではございません!」
王宮の一角にある講義室で、王家筆頭家庭教師であり、この国の執事長でもあるレイモンドが、黒板を激しく叩いて憤慨していた。
グレンが王になる決意をした際、彼を裏から支えるために必死で学問や礼儀を身につけ、今の地位を確立した努力の人である。だからこそ、二人の王子のあまりの「親馬鹿ならぬ兄馬鹿」ぶりに頭を痛めていた。
そんな部屋の片隅で、三歳のエレノアは、お兄ちゃんたちの真似をして机に座り、大人用の分厚い本を絵本代わりに眺めていた。文字を追うのがパズルみたいで楽しいのだ。
「フン、何を言うかレイモンド! 西の領地から献上された最高級の絹で作ったドレスをエレノアに着せるのは、ローゼンブルクの威信を示すため(建前)……いや、絶対に似合うからだ(本音)!」
二十一歳になった長男ガウルは、戦場での鬼神のごとき鋭い三白眼を輝かせ、真剣な顔で主張する。
「兄上、それは横暴です。エレノアには服よりも、感性を育むための最高級の詩集を私が読み聞かせるべきです。さあエレノア、おいで」
十九歳の次男レオンも、普段の冷静沈着な仮面をどこへやら、一歩も引かずに両腕を広げている。
「俺のところへ来い、エレノア!」
「いいえ、私のところへ」
「あうー?」
難しい本をパタンと閉じた三歳のエレノアは、二人の兄に両手を引っ張られて、きょとんと首を傾げた。
二人の兄は、エレノアが可愛すぎるあまり、何かにつけて「どちらがより妹を幸せにできるか」でハイレベルな小競り合いを繰り広げていたのだ。根底にあるのは深い愛情なのだが、二人とも能力がすさまじいだけに、取り合いの熱量も普通ではなかった。
そんな二人を見て、レイモンドは深くため息をつき、「はぁ……。あなたたち、国を背負う双璧の自覚を持ちなさい。内を鎮めずして外を御せるわけなかろうに」とぼやいた。
すると、トコトコと歩み寄ってきたエレノアが、ガウルとレオンの服の裾をそれぞれきゅっと掴んだ。
「にぃにたち、おこるの、めっ。……お本にね、お家をまあるくしなきゃ、お外の敵に勝てないって書いてあったよ? だから、みんなでまあるく、はんぶんこ!」
「え……?」
ガウルとレオン、そしてレイモンドの動きがピタリと止まった。
エレノアが小さな指で指し示していたのは、大人でも理解が難しい『大陸戦術論』の一節――『内憂を鎮めずして外征を行うは、自滅の端緒なり』というページだった。
エレノア自身は、レイモンドの「内を鎮めずして〜」という言葉と、本の文字がリンクしたのが嬉しくて、ただ「みんなで仲良く(まあるく)半分こ!」と言っただけである。自分がどれほど高度な政治的助言を口にしたかなど、全く自覚していない。
しかし、レイモンドは目を見開いてハッと息を呑んだ。
(この幼さで、私のぼやきと戦術論の本質をリンクさせ、今の兄弟の争いを諌める言葉を発したというのか……!?)
これが、王宮を震撼させるエレノアの「無自覚な天才発言」の始まりだった。
٭٭٭
エレノアのこの「無邪気な急所突き」は、本人が全く意図しないところで、王宮に蠢く悪党たちの化けの皮を次々と剥ぎ取っていくことになる。
ある日、王宮の大広間で、王都近郊の領地を治める財務精査官・バルトロ伯爵が、国王グレンとマリア王妃の前で「我が領地の警備体制を強化したく存じます。つきましては追加の予算を……」と、もっともらしい顔で上奏していた。
実際は予算を横領し、いずれ反旗を翻すために領内の地下迷宮に私兵を潜めている真っ黒な男である。
そこへ、蝶々を追いかけて走ってきた四歳のエレノアが、バルトロ伯爵の豪華なマントにぶつかった。
「あ、ごめんなさい、おじさま!」
「おやおや、エレノア王女殿下。お怪我はございませんか?」
作り笑いを浮かべる伯爵。エレノアはその顔をじっと見つめ、伯爵が手元に持っていた領地マップの「渓谷の印」を指さして首を傾げた。
「ねえ、おじさま。おじさまのおうちは、泥棒さんを捕まえるために、お山の中にたくさん兵隊さんを隠してるの? お外の壁にはだれもいないのに、おっかしいのー!」
「っ……!!!!」
バルトロ伯爵の顔から、一瞬で血の気が引いた。
伯爵が提出した書類の隅に書かれた微々たる「物資の流通数の歪み」――大人の専門官でも見落とすような計算のズレから、この幼女は「山の中に大量の人間が潜んでいる」という矛盾を直感的に口にしたのだ。
「な、何をおっしゃるのですか殿下! 幼児の悪戯な空想は困りますな、ははは……!」
伯爵は必死に笑おうとしたが、その声は微かに震え、額からは滝のような冷え汗が流れていた。
その「おかしな挙動」を、玉座の上のマリア王妃は見逃さなかった。
(……財務精査官のバルトロが、幼児の一言にここまで動揺する? 妙ですね)
マリアは慈愛の微笑みを湛えたまま、傍らに控える財務大臣と査察官にそっと目配せをした。
「バルトロ伯爵、その件は一度預かりましょう。……大臣、伯爵の領地の『物資の流通履歴』を、念のため至急精査しなさい」
「はっ!」
数日後、王宮の隠密部隊が伯爵の領地を極秘裏に調査したところ、エレノアが指し示した山中の地下から、登録されていない数千の私兵と大量の反逆の証拠が発見された。バルトロ伯爵家は言い逃れのできない状態で即座に捕縛され、お家断絶となった。
٭٭٭
またある時は、王宮に出入りする御用商人ガストンが、少し体調を崩しがちだったマリア王妃のために「大陸の秘境で見つかった、万病に効く奇跡の聖水でございます」と、怪しげな薬を持ち込んできた。恩を売り、王宮での利権を拡大するための甘い罠である。
そこへ、トコトコとやってきたエレノアが、その小瓶の匂いをくんくんと嗅いだ。
「わぁ、これ、レイモンドの図書室にあったすっごく難しいお本に書いてあったドクドク草と同じ匂いがするー! 綺麗なお花が咲くけど、お人おんめ々(めめ)が痛くなっちゃうやつ!」
「ひっ……!?」
ガストンは息を詰まらせ、あからさまに後ずさった。
エレノアが口にした『ドクドク草』とは、大陸の奥地にしか自生しない、調合すると完全な無味無臭になるはずの幻の毒草だった。「なぜそれをこの幼児が知っている? 匂いと本の知識を一致させたというのか!?」と、ガストンの脳裏に最悪の恐怖が駆け巡る。
ガストンは顔面を土気色に変え、「な、何をおっしゃるのです、これはただの、その、薬草の香りで……」と、取り繕おうとした声はガタガタと震えていた。
その一瞬の動揺を、グレン王は見逃さなかった。長年、修羅場を潜り抜けてきた王の直感が、商人の嘘を即座に断定する。
「……近衛の医師団を呼べ。その薬液を今すぐここで鑑定しろ、一滴でも不審な成分が出れば、貴様の三族(親族すべて)を縛り首にする」」
国王グレンの野獣のような低い声が響く。護衛たちに退路を塞がれ、ガストンはその場にへたり込んでガタガタと震えだした。鑑定の結果、もちろん猛毒が検出され、ガストンは即座に地下牢へと叩き込まれた。
当のエレノアは、どちらの時も「にぃに、あそぼー!」とガウルとレオンに飛びついていた。自分が国を揺るがす陰謀を二つも言葉一つで叩き潰したことなど、全く気づいていない。
これに懲りた王宮の悪徳貴族や不審な者たちは、この金髪碧眼の幼女が近づいてくるだけで、「次は我が身か」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出すようになった。
◇
そして、エレノアが五歳になった年の春。
王宮の庭園にある、ひときわ高い薔薇の巨木の上から、その少女は足をぶらつかせていた。
「んしょ、んしょ……わぁ、遠くまでよく見える!」
ドレスの裾が汚れるのも気にせず、無邪気に枝を掴むエレノア。彼女の小さな手には、またしても大人用の分厚い古書が握られていた。
「エレノア様――っ!! またそんな高いところに登られて! 危ないですから早く降りてきてください!」
木の下で、自身の焦げ茶色の髪を振り乱しながら、半泣きで両腕を広げている女性がいた。エレノアの専属侍女となったばかりの、十九歳のクローネである。
「平気だよ、クローネ! ほら、お本も落ちないようにギューってしてるもん」
「本の心配はしていません! エレノア様が落ちたら、私がクッションになりますからね!」
そう言って、引き締まった体で必死にドレスのスカートを広げ、いつでも受け止められるよう足元をガチッと固めるクローネ。スラムの孤児からマリア王妃に拾われ、厳しい訓練を積んできた彼女の身のこなしは、まだ新米ながらもどこかただ者ではない雰囲気を漂わせていた。
大人たちがエレノアの「ポロッと言った天才発言(実際はただの指摘)」に怯え、兄たちが盲目的に溺愛する中で、クローネだけはいつも「エレノア様、またそんな難しい本を読んで……。ほら、危ないですから」と、一人の『普通のお転婆な女の子』として真っ直ぐ向き合ってくれる。それが、エレノアにとってどれほど心地よいことか。
「ねえクローネ。あっちでお兄ちゃんたち、また怒りんぼうの顔して叩きっこしてるよ。仲良くすればいいのになぁ」
木の上で、太い枝に小さな身体を預けながら、エレノアは遥か遠くの庭園の奥を見つめていた。そこにある練兵場では、二十三歳になった長男のガウルと、二十一歳になった次男のレオンが、激しく木剣を交わし合っている。
普通の五歳児であれば、ただの「お兄ちゃんたちの格好いいお稽古」にしか見えない光景だろう。
だが、エレノアの小さな耳には、その音が全く違って届いていた。
(……おかしいなぁ。前にお兄ちゃんたちが叩きっこしてたときは、すっごくきれいな音がしてたのに)
エレノアには、生まれたときから不思議な感覚があった。
ガウル兄様が大きな大戦斧を軽々とぶんぶんと振り回していたときや、レオン兄様が細い剣をぴたっと美しく構えたとき――二人の後ろからはいつも、エレノアにしか聞こえない、耳がすうっとするような、澄んだ鈴や弦の音が響いていたのだ。
幼いエレノアにはその音がなんなのかは分からないけれど、「お兄ちゃんたちが格好よく武器を持っているときの、大好きな音」として心に刻まれている。
なのに、今の二人が手にする木剣からは、その綺麗な音がまったく聞こえない。
響いてくるのは、ただただ冷たくて、重くて、相手を叩き潰して主導権を奪い合おうとするような、濁った嫌な音だけだった。
(……純粋な「かっこいい」じゃない。なにか、もっと黒くてドロドロしたものを持ってる音だ……)
大人の男たちが放つ、互いの「正義」をかけた本気の駆け引きと、ピリついた空気。
それを音の歪みとして本能的に察知してしまったエレノアは、なんとなく怖くなって、身震いしながらドレスの胸元を小さな手でぎゅっと握りしめた。
そして、この不思議な感覚が捉えた「異変」は、お兄ちゃんたちの濁った音だけではなかった。
(それに……最近、母さまのおててを握ったときも……)
数日前、大好きな母マリアの部屋へ行き、その細く白い手を握ったときの感覚が蘇る。
直接触れた瞬間、母様の胸の奥のほうが、どす黒くて冷たい「なにか」に侵されていて、すごく苦しそうに疼いているのが、まるで自分のことのように分かってしまったのだ。
「エレノア様? どうかされましたか? 顔色が悪いですよ」
木の下から、専属侍女のクローネが心配そうに碧い瞳を見上げてくる。十九歳の彼女は、いつもエレノアのどんな小さな変化も見逃さない。
「……ううん、なんでもないの! クローネ、いくよ!」
エレノアは無理にひまわりのような笑顔を作って、木の下へ向かって両手を広げた。そのまま重力に身を任せてダイブする。クローネは「まったく、お転婆なんですから」と苦笑しながらも、おちてくる小さな体を、鍛え抜かれたバネのような筋肉でふわりと包み込んだ。足音一つ、ドレスの擦れる音一つ立てない、無音の着地。抜群の安定感でエレノアをしっかりと受け止め、背中に背負う。
クローネの背中はぽかぽかと温かくて、少しだけ安心できた。
けれど、エレノアの胸のざわざわは止まらない。王宮を包もうとしている、家族の崩壊とひび割れの予兆を、五歳のエレノアだけが誰よりも早く感じ取っていた。




