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第1話:二つの正義、一つの絆

ローゼンブルク王国の北方国境――年中吹き荒れる凍てつく木枯らしと、鋭利な刃物のように切り立った岩肌が連なるその地は、常に他国からの侵略に晒される血生臭い最前線であった。


「――グレン陛下! 敵の先遣隊、右翼の峡谷を迂回し、我が方の本陣を包囲せんとしています! その数、およそ二千!」


怒号のような風の音を切り裂き、鋭い声を上げたのは、若き日の王国騎士団副官、ウォルター

まだ二十代半ばの彼は、泥にまみれた戦術地図を広げ、冷静に戦況を分析していた。彼はただの武人ではない。グレンの圧倒的な武力を、最も効果的な戦術へと落とし込む、軍の確固たる「頭脳」であった。


「敵はローゼンブルクの重装歩兵が狭隘な地形で身動きが取れぬことを見越している。……陛下、ここは一度前線を下げ、中央の平原へ誘い出すべきです。私の計算(戦術)通りに動けば、被害は最小限に抑えられます」


「ハッ! 却下だ、ウォルター!」


本陣の最前線、岩塊の上に腰掛けていた巨躯の男が、豪快に笑いながら立ち上がった。

国王、グレン。

王族の象徴たる豪奢なマントなど身につけていない。くすんだ漆黒の鉄鎧をまとい、その隙間から覗く首筋や腕には、無数の凄惨な刀傷が這っている。彼はもともと、高貴な生まれの王ではない。かつて大陸をドブ泥をすすりながら彷徨い、その腕一本で玉座まで這い上がってきた、ただの「旅人」であった。


グレンは、風に激しくなびく自身の【漆黒の髪】を乱暴にかき上げ、野獣のような昏い眼光を敵軍へと向けた。


「お前の計算はいつも正しいが、戦場ってのは生きてるんだよ。退けば敵は勢いづく。……包囲させろ。右翼が突出したその瞬間こそ、敵の首根っこが一番薄くなる時だ」


グレンは足元に突き立てられていた、身の丈を遥かに超える一本の大剣を引き抜いた。凡人であれば持ち上げることすら叶わない鉄の塊が、彼の怪力によって、まるで羽毛のように軽々と空を割る。


「ガウル! 遅れるなよ!」


「――はい、父上!!」


父の背後から応じたのは、当時十五歳の長男、ガウルであった。

父親の血を色濃く受け継いだ【漆黒の髪】と、鋭い三白眼を持つ少年。彼はすでに大人顔負けの体躯を誇り、その手には身の丈に合わない大戦斧が握られていた。


「見よ、ガウル。王の『武』とは、敵の戦術などという小賢しい絵空事を、正面からすべて力ずくで圧殺するためにあるのだ!」


グレンが吠えると同時に、ローゼンブルクの全軍に地響きのような突撃の角笛が響き渡った。


「ウォルター、お前の知恵は後片付けに取っておけ! 行くぞォ!!」


グレンは単騎、岩肌を蹴って、押し寄せる敵の軍勢へと正面から飛び込んだ。

ウォルターの警告通り、右翼から包囲せんとしていた敵兵たちが一斉に槍を突き出す。しかし、グレンの放った横一文字の烈風が、十数人の敵兵を、その肉体ごと、鉄の槍ごと、文字通り真っ二つに叩き斬った。

凄まじい肉飛沫が舞い、戦場が瞬時に悲鳴と血の海へと変わる。


「う、化け物め……! 退け、距離を取れ!」


「逃がすかよォ!!」


狂気的なまでの覇気を放ち、敵陣を内側から爆破するように蹂躙していく漆黒の王。その圧倒的な「個の暴力」が、数に勝る敵の包囲網を、文字通り粉々に粉砕していく。


「凄まじい……これこそが、国を震撼させた武王の力……!」


後ろにいた十五歳のガウルは、激しい返り血を頭から浴びながら、その光景に全身の血が沸き立つような衝撃を覚えていた。彼の瞳には、敵を恐怖で平伏させていく父親の背中が焼き付いていた。


「……凄い……ッ!」

ガウルは溢れる興奮で肩を激しく震わせ、手にした大戦斧を強く握りしめた。ギリ、とまだ十五歳とは思えぬ太い腕の筋肉が隆起し、分厚い樫の木の柄が悲鳴を上げる。飛び散った敵の肉片が頬にこびりついていることすら気づかない。


彼の鋭い三白眼に映っていたのは、広大な雪原を瞬く間に自らの【武】で支配し、万の敵を恐怖で平伏させていく漆黒の父親の背中――その圧倒的な「絶対者」の輝きだけだった。


吹き荒れる地吹雪の中、十五歳の少年は取り憑かれたようにそう呟き、目の前の血の海へ向かって、自らも狂気的な笑みを浮かべて飛び込んでいくのだった。

***

北方国境の血生臭い咆哮から遥か南――王国の心臓部たる王都ローゼンブルクは、それとはまったく異なる熱気に包まれていた。


「聖母様……! ああ、私たちの聖母マリア様! 今年もまた、この見捨てられた街においでくださるとは!」


埃っぽい石畳に何度も額を擦り付け、涙を流しているのは、ボロ布を纏った貧民街の老婆だった。

その前に、豪華なドレスの裾が泥や煤で汚れることなど一瞬たりとも気に留めず、自ら膝をついている女性がいた。王妃マリアである。


彼女はこの日、自らの私財を削って建て直した『王立孤児院』の開院式に訪れていた。

マリアがその場に佇むだけで、薄暗く陰気な下層街の空気が一瞬で浄化されるかのような錯覚を覚える。それほどまでに、彼女のまとう美貌は神聖だった。

風にふわりとなびく髪は、混じり気のない【純金色】。そして、老婆を見つめるその瞳は、すべてを包み込むように深い【碧眼】。これぞ歴史あるローゼンブルク王家正統の血筋であり、建国以来、民がひれ伏し続けてきた「光」の象徴そのものであった。


マリアは老婆の泥まみれの手を、自身の白い手で優しく包み込んだ。


「もう顔をお上げなさい。この場所がある限り、あなたたちの大切な子供たちが飢えることも、夜の寒さに凍えることもありません。今日からは安心して、温かいスープをお飲みなさい」


マリアの手ずから差し出された木皿を受け取り、平民も孤児たちも、まるで本物の神の救済に触れたかのように涙を流し、ただひたすらに彼女の名前を唱えていた。その列の中には、野良猫のように鋭い金眼を持った薄褐色の肌の少女や、爪を噛みながら狂信的な瞳でマリアの顔を凝視し続ける痩せた少女の姿もあったが、レオンの目は母の輝きにばかり向いていた。


「母上、次の樽を持ってきました」


母の横で、重い木製のスープ樽を一生懸命に運んでいたのは、当時十三歳の次男、レオンであった。

レオンは、父親の荒々しい血を強く引き継いだ【漆黒の髪】を長く伸ばし、母のような柔らかさを演出しようとして穏やかな黒い瞳を持っていた。兄のガウルとは違い、戦の血生臭い報告を聞くたびに胸を痛める優しい少年だ。だからこそレオンは、武力で敵をねじ伏せる父の戦い方ではなく、ただその「心(優しさ)」だけで万の民の涙を拭い、国を一つにまとめている母親の姿に、激しい救いと尊さを見出していた。


(暴力では人は従っても、心までは変えられない。だけど、母上の優しさは、こんなにも人を救い、国を正しく導いている……)


レオンはスープを貪る孤児たちの笑顔を見つめながら、自身の胸の奥が熱くなるのを感じていた。

これこそが、人を導く力なのだ。十三歳のレオンは確信し、母の白い衣の裾を汚さぬよう、その背中をただ盲目的に見つめ続けるのだった。


◇


その日の夜、遅くに王城へと帰還した国王グレンは、鎧にこびり付いた敵の返り血と泥もそのままに、豪快な足取りで私室の扉を開け放った。


「ただいま戻ったぞ、マリア!」


謁見の間での儀礼をすべて無視し、一目散に最愛の妻の元へやってくる王。そんな彼を、薔薇の香炉が焚かれた部屋で、王妃マリアは呆れたような、けれどこの上なく愛おしそうな溜息で迎えた。


「お帰りなさい、あなた。またそんなに泥だらけになって……。ほら、こちらへおいでなさい。手当てをしますから」


マリアは手慣れた手つきで、鬼神と恐れられる「武王」の重い胸当てを外していく。戦場で猛威を振るった漆黒の巨躯も、妻の前では借りてきた猫のように大人しくなり、寝台の端に腰を下ろした。グレンの傷だらけの大きな掌が、マリアの細い手をそっと包み込む。そこには、他人が立ち入ることのできない深い信頼と愛があった。


その様子を、部屋の隅で兄弟が見つめていた。十五歳のガウルと、十三歳のレオン。


「父上、今回の戦も見事でした! 敵の包囲網を真っ正面から粉砕する圧倒的な力、これぞローゼンブルクの正義ですね!」


ガウルが黒髪をかき上げ、その鋭い三白眼を輝かせて言うと、グレンは長男の頭を手荒く撫で、それから、少し離れて歴史書を抱えているレオンへと視線を向けた。レオンは、兄の血生臭い言葉に、少し居心地悪そうに眉をひそめていた。


「レオン、お前はまたそんな難しい顔をして。ガウルの言う通り、国を外敵から守るには『力』が必要だ。だがな……」


王は隣に座るマリアの肩をそっと抱き寄せた。


「俺が外で暴れてこられるのは、マリアがこの城と、国の中をしっかりと耕し、民を安んじてくれているからだ。強さだけでは民は飢える。だが、優しさだけでも舐められて国は滅ぶ。力と心、その両方の車輪が揃って初めて、ローゼンブルクは前に進めるのだ。お前たち二人で、いつかこの国を支える両輪となるのだぞ」


マリアも夫の言葉に深く頷き、兄弟へ向けて穏やかに微笑んだ。


「お父様の言う通りですよ、ガウル、レオン。お互いを補い合いなさい。あなたたちは二人で一つなのですから」


「……はい、母上」


レオンは母の優しい言葉に救われたように微笑んだ。

しかし、ガウルは父の言葉の「後半」よりも、やはり戦場で無敵を誇る「力」の輝きにばかり目を奪われていた。一方のレオンも、父の「力」の必要性から無意識に目を背け、母の「心」の尊さばかりに視線を注いでいく。


【漆黒の髪】を持つ二人の兄弟の心に植えられた正義の種は、それぞれの資質に合わせて、交わることのない別々の方向へと芽を伸ばし始めていた。

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