08
──早朝のJR秋葉原駅前、電気街口西側広場。
大きな街路樹が、ぶちぶちと鈍い音を立てて引き抜かれていく。その離れ業を為した異形は、巨木の質量など物ともせずに頭上に掲げると、ぼくを圧殺するために勢いよく投げつけてきた。
飛んでくる巨木の陰に紛れ、投げた異形も同時に肉薄する。見事な隠形だ。回避したとしても、その隙を狙って本体が襲いくる二段構え。
手強いその異形の額には、大小二本の角が突き出ていた。
このままだとまずい、そう思った瞬間、右腕が爆ぜるように熱を帯びた。溢れ出る力。ぼくの指先から真っ白な糸が複数紡ぎ出されると、イメージのままに、街路樹と異形をまとめて絡めとろうと伸びていく。ククリヒメの権能だ。
しかし、異形はそれを嘲笑うかのように、ナイフのように鋭い爪で一閃する。その一撃に、ハシヒメさえ捉えた拘束の糸が、驚くほど呆気なく宙に霧散した。
「下がれ! 亮!」
その時、背後から──この十数日ですっかり聞き慣れた声が響いた。
「我が斎き祀る、掛けまくも畏き水波能売神。 清き御水の霊をば、尖りては刃と成し、広ごりては網と成し。 狙ひ定める禍事を、八つに切り裂き、祓ひ退け給え!」
声の主、秋葉水波が、その良く通る声で祓詞を紡ぐと、突き出した両手の先、彼の眼前に、渦巻く水が蜘蛛の巣のように展開していく。展開したそれは、キラキラと光を反射しながら射出され、街路樹ごと潜んでいた異形の影を包み込む。
「やった!!」
確実に捕らえた──ぼくの目にそう映った水の網は、そのまま何の抵抗もなく街路樹と隠れていた異形を通り抜ける。
その瞬間、異形の口元が動き、何かを呟いたような気がしたが──
「……正面から敵う相手ではない、か」
──ぼくの耳には届かなかった。
直後、異形は街路樹ごと賽の目状にバラバラに切り刻まれ、赤い飛沫を秋葉原駅前の石畳にぶちまけた。
「すごい……!!」
沈黙が戻ってきた駅前に残されたのは、つい先ほどまで敵だった肉片と、鼻を突くほどに生臭い、大量の鮮血だけだった。
「他のやつらは?」
「こいつが最後だ……多分な」
敵は複数いたはず……ぼくが水波に確認をすると、彼は周囲への警戒を解かぬまま短く応じた。
「自分の意思で権能を扱えるようになってきたのはいいんだけど……やっぱりまだ安定しないな」
権能発動による疲労は、以前ほどにはなかった。しかし──。
そう呟きながら送った視線の先には、他にも二体、同様の残骸が転がっていた。
ぼくがたったの一体に手間取っている間に、水波が一人で処理した異形たちだ。
結局全て水波が倒すことになった。
秋葉家に世話になるようになってから、修行に、こういった手合いの対応に、常に水波が一緒に行動してくれている。
そのせいもあって、今ではすっかり信頼できる相棒という感じだ。
「まぁ、亮が力を得てからまだ半月程度だ。仕方ねぇっちゃ、仕方ねぇんだけどな」
「ゔ……もっと修行しないとね」
今では水波も、すっかり歯に絹を着せぬようになっている。
……まぁ彼に関しては元々そういう性格だったのかもしれないが。
しばらく待って他に何も現れないことを確認すると、ようやく水波も緊張を解き、大きく息を吐き出した。
ぼくはバラバラになった、かつて異形だったモノを見下ろし、ここ数日の出来事を思い出していた。
◇ ◇ ◇
ハシヒメとの一件の後、ぼくたちの前には『神』と称する異形が幾度も現れた。
しかしそれらは、ぼくたち人間がイメージする神様というよりも、どす黒い欲望を煮詰めた『怪異』と呼ばれる存在に近かった。
なによりオモイノカネやハシヒメのように、こちらの存在そのものを握り潰すような圧倒的な『格』が、備わっていなかった。
その辺りの事情をハシヒメに尋ねたところ──
『『客神』だの何だと、聞こえの良い名を騙ってはいても、所詮は土足で境界を侵す、迷い人の成れの果てに過ぎませんわ。正しき主たるわたくしたちのこの地を、無遠慮にも食い荒らそうだなんて、その浅ましさ、身の程を弁えぬ醜悪さに吐き気がいたします』
と、どうやら彼女的にも思うところがあるようだった。
焔さんの話によれば、ハシヒメは『橋姫』、今となっては嫉妬の化身と思われがちだけど、元々は橋などの境界を守る神様だったそうだ。他の神々が、時代の潮流と共に流れ去ることを受け入れる中で、彼女だけは境界に爪を立て、その場所を愛し、呪い、留まり続けている存在なのだという。
その執念が外から来た神々に対して、苛烈な拒絶となって表れているのだろう。そして彼らは、今の混乱に乗じて、正統な『神の座』を掠め取ろうとしているらしい。
ぼくに権能を押し付けてきたオモイノカネたちとは、また別種の脅威、ということか。
最後にハシヒメは言った。
「貴方様にはお強くなっていただきますわよ」
◇ ◇ ◇
強くなるため──その修行の一環としてはじめた早朝ランニングの最中に、またもや襲われたという訳だ。
自称『神』の少女が秋葉神社に現れたのは、そのすぐ後のことだった。
結界を破る術こそ持たないようだったが、彼女は臆することなく職員に声をかけ、堂々とぼくたちを呼び出した。
そして今、神社の鳥居を境界線として、ぼくと弥花、秋葉姉弟、そしてカエルのぬいぐるみに身をやつしたハシヒメは、その少女と対峙している。
見た目通りならば歳の頃は妹と同じ中学生くらい、頭に乗せたキャスケットからは金色の髪が覗き、後ろで二つにまとめられている。服装は迷彩柄のTシャツの上に透かし編みのカーディガンを羽織り、ショートパンツに厚底のスニーカーを履いていた。
その様子はすっかり人間社会に馴染んでいるように見える。
だが、焔さんが問いを投げかけた瞬間、その人としての仮面は脆くも崩れ去った。
「尋ねてきた神様っていうのはあんたかい?」
「フフフ……あたいはオモイノカネ様の遣いだよ」
その口から漏れたのは、幼子の、老人の、あるいは男の、女の──何十人もの声が泥のように混ざり合った、悍ましい不協和音だった。
脳を直接掻き回すような不快感に、弥花と水波も表情を歪めていた。
「ねぇねぇあんたたち。ハシヒメなんて仲間にしちゃって、本当に信じてもいいの? その娘はすぐに感情に流され、正常な判断もできない呆けモノじゃぞ? オモイノカネ様の元に疾く馳せ参じれば──この世の栄華も思いのままだよ?」
まるで、老人と少女が交互に喋っているようだった。
その姿もピントが狂ったようにぼやけて見える。声が入れ替わるたびにその輪郭が変貌していく。
ただその視線だけは一貫してぼくを捉え、品定めを続けているように見えた。
いつもの電子タバコを片手に、焔さんが更に問いかける。
「いきなり心理戦かい? その前に名前くらい名乗ったらどうだい」
「儂はただの使いっ走りじゃよ……名乗るような名前は持ってないよ!」
しかし質問には答えず、はぐらかす少女。
質問の答えは別のところ、ぼくの肩の上に乗っているハシヒメの口から告げられた。
「その吐き気を催すほどに濁った言霊、アメノサグメではありませんこと?」
「ハシヒメ、こいつが誰か知ってるのか?」
「その歪な在り方……相も変わらず、人の心に泥を投じて回るのがお仕事なのね。わたくしと同じく深淵に連なる者とは申せ、八百万の神格を汚す不浄、精々端くれとしてなら数えて差し上げても構いませんわ」
どうやらハシヒメ的には、目の前の少女──アメノサグメ──と同列に扱われるのは我慢がならないらしい。彼女の言葉の端々からは、隠しようのない拒絶が伝わってきた。それでも、アメノサグメが神の一柱であることは間違いないようだ。
──それとは別に、アメノサグメの名前を聞いた時、焔さんが訝しげな表情を浮かべていたのが気になった。
「なんじゃあ、お主ハシヒメか。おかしな格好になりよって……全くよく言うわぃ、尻軽女が。……裏切ったのはそっちでしょー! でも戻ってきたければいつでも戻ってきていいんだからね!」
爺さんが話しているかと思うと少女に。
あまりの変貌ぶりに、ぼくも少し頭が痛くなってきた。
アメノサグメの視線が、ぼくからハシヒメに移る。
「勘違いなさらないで。 わたくしが見つめていたのは、最初からこの方という『器』……ただそれだけですわ。 そして今、それは何物にも代えがたい、わたくしだけの至宝なのだと確信しておりますの」
そう言うとハシヒメはぼくの頭にしがみついてきた。
嫉妬という執着心の強い神様……しかも今はカエルのぬいぐるみ姿。
これが人間の可愛い女の子だったら嬉しいんだけどね。
「……痛っ!?」
「今、余計なこと考えたでしょ!」
全くもってその通り。勘の鋭い妹に思い切り太ももをつねられていた。
そんな妹の姿を、アメノサグメの視線がなぞっていく。
自分という存在のすべてを覗き、暴こうとする、粘つくような視線だった。
その視線が今、妹に注がれている。
弥花の顔からはみるみる血の気が引いていった。
「大丈夫か?」
「うん……でも、自分の中を踏み荒らされているみたいで、すごく……気持ち悪い」
妹も受けた視線から何かを感じ取ったようだ。
ぼくは一歩前に出て、妹への視線を遮った。
「神の身を捨ててまで、濁った土塊に成り下がりたいだなんて……。 そのような卑しき願いに、わたくしがただの一度でも、心を寄せたとお思いかしら?」
ハシヒメが続けて話しかけると、アメノサグメの視線は彼女に戻る。
「貴女こそ、一体どのような目論見があって、そのような走狗の真似事をなさっていますの? 貴女のその浅ましくも歪な本性が、大人しく神々の使いに収まるはずがありませんでしょう」
ハシヒメは最初から、アメノサグメの言葉を信じていないのだろうか?
元々の気位の高さもあってか、煽りに煽っていく。
「およしなさいな。濁りきった水底に住まう者が、今更清流の使いを気取ったところで、滑稽なだけですわよ?」
「ならお主はその人間と一緒にいて、何をしようというんじゃ? 人間を土塊呼ばわりして見下しておるくせに……あんたこそおかしいじゃーーーーん!?」
「そこまでにしな!」
白熱しそうになった神々のマウント合戦を、焔さんが一喝した。
一喝とともに吐き出された、電子タバコの真っ白な水蒸気が、二柱の神の間に壁のように広がっていく。
「ハシヒメも一旦引きな。そっちのあんた、遣いだっていうなら要件を済ませてもらおうか」
焔さんの放つ凄みに、神であるアメノサグメが一瞬気圧されたように口を噤んだ。
「ふん……オモイノカネ様は、其処な器……いや、人間との会話を望んでおるのじゃ。死が嫌なのであれば、寿命が尽きるまで首輪をして飼ってもいいよーーーーって言ってるよ!」
「何言ってやがんだこいつぁ……話になんねぇぞ! ごるぁ!!」
「そーだそーだ! お兄をなんだと思ってるのよ!!」
「えー? 何を怒ってるの? 生かしてあげるって言ってるんだからーぁ……平伏して感謝するところじゃろうが!?」
あまりに傲慢な提案。
しかし神の視座からすれば、それは慈悲にも近い最大限の譲歩なのかもしれない。
ぼくは呆気に取られるしかなかったが、隣で必死に憤ってくれる二人の存在に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
自分のために怒ってくれる人がいる。幸せなことだ。
「もー面倒くさーーーーぃ! とにかく! オモイノカネ様に会う気になったら、あたいの名前を呼ぶといいよ! 呼べばすぐに儂が飛んでくるからのぅ! 会えば必ずお主のためになろうて! だから会ったほうがいいんだからね!」
アメノサグメはそう叫ぶと、忽然と姿を消した。
そのあまりの唐突さと呆気なさに、かえってぼくは不安を覚えてしまう。
「あれ……いなくなっちゃった?」
弥花もいきなり相手がいなくなって戸惑っているようだ。
嵐が去った後の境内には、ただ、神社本来の静けさだけが横たわっていた。




