02
「── 名前は?」
落ち着いた声で、白衣を着た初老の医師が聞いてきた。
「八尋亮、19歳、大学生。中学生の妹が一人います。幼少期に両親が他界し、カメラマンを生業に独身貴族を謳歌している伯父に引き取られましたが、ほとんどの時間は妹と二人で……」
「わかったわかった。記憶の混濁なども無いようだし、ま、大丈夫だろう。もし何か違和感などが出てきたら、その時は病院まで来るように」
まだ途中だったぼくの返事を遮り、医師は診断内容を告げた。
「わかりました。あの……これ、もう取ってもいいですか?」
ぼくの額には一枚のお札が貼られていた。
そのせいで前もよく見えない。
「うむ。もう体内の魂の状態も整ったようだ。外してもいいよ」
医師の許可を得て剥がしたお札は、ほんのり淡い黄色で、達筆すぎて読めない文字が、びっしりと書かれていた。
どういう仕組みなのか、ほんの少し前までうっすらと光っていたが、今は普通の紙にしか見えなかった。
「あんた。そのスクナヒコナ様のお札が無かったら、二度と目覚めなかったかもしれないよ。彦名先生に感謝するんだね」
そう言ったのは、この家の女主人──秋葉焔だった。
見た目は20代後半、服装は落ち着いた感じのスリムなパンツスーツで、シンプルだがオーダーメイドに見える。
赤みを帯びた髪はあちこち跳ねていて、どこか猫っぽい雰囲気を醸し出し、やや吊り気味な目は、話す時にまっすぐこちらの目を射抜き、意思の強さを感じ取れた。
昨夜、秋葉原の高架下で倒れていたぼくを、助けてくれたのは彼女だった。
「え……あ、はい。本当にありがとうございました」
この医師──彦名先生を呼んでくれたのも彼女だ。
彼女の言う通り、この札を貼ってもらう前は全身がだるく、寝ていた体を起こすのもやっとの有様だった。
東洋医学ってやつかな……?
「感謝ならスクナヒコナ様にしなさい。それじゃあ、お大事にね」
彦名先生はそう言い残すと、焔さんと二人で部屋を出ていった。
焔さんは玄関まで、彦名先生の見送りに行ったのだろう。
彦名先生の診断によると、ぼくの体は問題無しのようだ。
さもありなん。
むしろこの世に生まれてから、今が一番調子が良いと言っていいくらい、ぼくは絶好調だった。
一人になり、改めて自分のいる部屋をゆっくりと見渡す。
かなり歴史を感じる和室で20畳前後はあるだろうか、畳の縁も見たことのない模様で、どことなく格式高さが漂っている。
部屋は続き間になっているようで、襖で区切られていた。
襖の上の欄間もかなり凝った造りで、壁の一方には床の間があり、その上には立派な神棚が祀られている。
そのせいだろうか、室内はとても清浄な感じがした。
そんな明らかに一般的な家とは違う部屋の真ん中に、りっぱな布団が敷かれ、昨夜からぼくは寝かされていたのだった。
ふと、枕元に置いてあった手鏡が目に入り、手に取って自分の顔を映してみる。
元々ショートな髪だったはずだが、少し前髪が伸びてきたかな。
ワックスなどをつけるのが苦手で、美容師さんに手入れが楽な髪型にしてもらっている。
あんな目にあったのに、疲れた様子もなく、肌のハリもいい感じだ。
ちょっと間、鏡に向かい、いろいろなキメ顔をしてみる。
「わりといい顔してるよなぁ……」
今まで彼女ができたことはないが、決して顔が悪いせいではない。
と、信じたい。
そんなくだらないことを考えるくらい余裕が出てきた自分を、少し不思議に思っていると、あり得ないことに気がついた。
「右腕が……!?」
手鏡を持っているのは、昨夜オモイノカネと名乗った真っ白な人形に、喰われたはずの右腕だった。
血をたくさん流したせいだろうか……いつもよりすこし、肌が透けるように白くなっている気がした。
「──その腕がどうかしたのか?」
右腕に意識が集中していたためだろうか。
気付かぬ内に続き間への襖が開かれ、そこには時代錯誤な格好をした、見知らぬ男が腕を組んで立っていた。
髪型はややおとなしめに見えるがリーゼント。目つきは鋭く、背が高い。
服装は上が龍の刺繍の入ったブルーのスカジャン、下はニッカポッカだった。
「ど……どちらさまですか?」
あからさまに変な姿に思わず怯み、ちょっとどもってしまいながらも、ぼくは男に問いかける。
「おいおい、そいつはこっちのセリフだぜ。お前誰だ? ひとんちで呑気に寝こけやがって」
男はずかずかと部屋に入ってくると、ぼくの頭の横で立ち止まり、威嚇するかのように足を踏み鳴らしてヤンキー座りをした。
そのまま上からガンをつけてくる。
……居心地が悪い。
こちらにガンつけをしたまま、何も言わず動きもしない。
あまりにも居心地が悪いので、ぼくの方から話かけようとすると、男は口を開いた。
「お前、なんだ……その。どっか悪いのかよ?」
ほんの一瞬、男はぼくの右腕に視線を走らせた気がする。
が、出てきた言葉はこちらを心配する内容だった。
「はい……あ、いえ。先ほどお医者様に診てもらったところ、問題無いみたいです」
「なんだそうか……よかったな。あの彦名先生、あんなんでも名医だからよ」
ぼくの返事を聞くと目を逸らし、頬を指で軽く掻くような仕草で、照れくさそうに言う男。
彦名先生のことは知っていたらしい。
とりあえず見た目と違っていい人っぽい。気がする。
「あの……この家の方ですか?」
「おうよ! オレこそこの秋葉神社の跡取り息子、秋葉……っ痛ぇ!?」
「こら! 水波!! あんた昨夜から一体どこをほっつき歩いてたんだぃ!?」
「うぇえ!? そいつはねぇよ、姉ちゃん!! 例の事故現場まで行って、関係のありそうな物を全部拾って来いって言ったのは、姉ちゃんだろ!?」
男が自己紹介しようとしたタイミングで、その頭に、戻ってきた焔さんの踵が勢いよく降ってきた。
往年の格闘技スターを彷彿とさせる鋭い一撃。
そのまま姉弟喧嘩がはじまった。
この男は焔さんの弟で、名前は水波と言うらしい。
火と水……神社の家に生まれたからには、何かしらの意味が込められているんだろうな。
「で、ちゃんと持ってこれたのかい?」
「あったりめぇよ! 電車に轢かれたって奴の荷物は警察に回収されてたんで、ちょいと手続きに手間取ったけどな」
姉弟喧嘩の結果は、姉の完全勝利だった。
鼻血を流しながら焔さんの質問に答える水波くん。
この様子だと、普段から姉には頭が上がらないに違いない。
わかる、わかるよ。兄妹とは逆だけど。
「でもおかしいんだよ……警察が見せてくれた轢かれたヤツの死体ってのが、白い変な塊になっててよ。消えちまってたんだ」
「消えた?」
水波くんは最初に踵を落とされた頭をぐしゃぐしゃと無雑作に撫でながら、入ってきた襖の横に置いてあったリュックサックを取りに行くと、持ってきたそれを、ぼくが寝ている布団の上に少し乱暴に放り投げた。
「あ、これ! ぼくのカバンだ!」
「あんだと? んじゃあ、昨日電車に轢かれて全身ぶっちらばったってのは……お前なのか!?」
水波くんの言葉を聞いた焔さんが、彼の頭に向かって垂直に拳骨を振り下ろした。
瓦なら20枚は軽く割れただろう一撃。
骨と骨がぶつかる、嫌な、硬い音が響く。
「っ痛ぇ!?」
「あんたはデリカシーが無いんだよ、ったく」
「だって姉ちゃん! 姉ちゃんだってYoutubeで観たろ? 腕や足どころか頭まで千切れ飛んでいく動画を……っ痛ぇ!?」
再び拳骨が振り下ろされる。
「この子はちゃんと生きてるじゃないか」
「い、いえ……。確かに昨日ぼくは、自分の体がバラバラに千切れ飛ぶのを、この目で見ました」
ぼくの言葉に、焔さんと水波くん姉弟は固唾を飲む。
「……でもあんたの体はどこも傷ついてないじゃないか。彦名先生もそう言ってただろ?」
焔さんが言った通りだ。
でも、だからおかしい。
あの時確実にぼくは、死に向かって戻ることのできない道を進んでいた。
……その時だ。
「こんなことを言っても信じてもらえないと思いますが……。あの時、この世からぼくという存在が解放されると思ってしまった瞬間、誰かに呼び戻されたんです」
「……強引に」
今度は二人とも何も言わなかった。
思い当たることでもあるのだろうか、二人は顔を見合わせ、何かを考えているようだった。
ぼくたちがそれぞれ昨日起きた事件について頭を悩ませていると、布団の上に放り投げられたリュックサックの口がもぞもぞと動く。
一瞬その動きが止まったかと思うと中から勢いよく押し開けられ、見覚えのある、ぬめぬめした真っ白な塊が、這い出るように布団の上にこぼれ落ちた。




