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おやすみなさいませ、若旦那様

あら。


いけませんよ。


いいえ、旦那様。本当に、そんなことをなさってはいけません。


旦那様があの子たちのために涙を流したなんて知ったら、きっとあの子たちのほうが困ってしまいますから。


もう一枚、ハンカチがございます。


さあ、こちらをお使いください。


このハンカチの刺繍、可愛らしいでしょう?


蘭の花なんですよ。


私の子供たちに何があったのかを知った奥様が、わざわざ私のために刺してくださったものです。


どうなさいました?


何をお探しなのですか?


……お金?


いえいえ、若旦那様。


私は別に、弔慰金をいただこうとしているわけではございませんよ。


……お待ちください。


まさか若旦那様、私の息子や甥たちが、みんな死んでしまったとお思いだったのですか?


しかも、真っ先に王家をお疑いになったのですか?

こういう時には、急に王家を信用なさらなくなるのですね。


本当に、お金など必要ございません。


あの子たちは死んでおりませんから。


王都へ向かう途中で何者かに攫われて、どういうわけか「常夜の地」へ送り込まれてしまっただけです。


……もちろん、それだって喜べるような話ではございませんけれど。


それでも、命は残りました。


誰がそんなことをしたのかについては……

残念ながら、今でも分かっておりません。


ですが、私たちは運がよかった。


それから間もなく、グレイス王国であの大事件が起こりました。

聖剣の聖女様が聖剣を取り戻し、「常夜の地」の支配権を奪い返した。

だからこそ、あの子たちは生きて帰ってくることができたのです。


旦那様は、あの出来事についてお話しになるのを、ずっと避けていらっしゃるようですね。

先ほどもグレイス王国ではなく、聖女様が即位なさる前の旧国名――グリーン王国と呼ぶほうをお好みでしたし。


王家の側から、あの出来事をご覧になっているからでしょうか?


それとも、王家から旦那様へ届けられた報告では、あれは「反乱」と呼ばれていたのですか?


……なるほど。


それでは、旦那様がご存じの出来事と、私たちが見てきた出来事は、本当にまるで違うのでしょうね。


少なくとも、私にとってあれは「反乱」などではございません。

私の子供たちを、生きて帰してくれた出来事です。


グレイス王国の先王とマクシン侯爵が、気に入らない者や表立って処分できない者を「常夜の地」へ送り込んでいたという話は、以前から耳にしておりました。


けれど、まさか。

自分たちの国の中で、ただ主人の手紙を届けようとしていただけの子供たちまで、あんな場所へ送り込まれることになるとは思いもしませんでした。


ずいぶん驚いていらっしゃいますね。


……何ですって?


公爵家を裏切ったのか、と?


まあ。


若旦那様、先ほど私が申し上げたことを、もうお忘れですか?


私たちは、とっくに公爵家の使用人ではございません。

私もヴィクターも、それからほかの息子や甥たちも、すでに正式に職を辞しております。


今の私たちは、奥様を庇護してくださっている方々に個人的に雇われ、半年に一度ここへ戻ってきて、奥様のために公爵家の帳簿を確認し、この屋敷が最低限維持できるよう手入れをしているだけの臨時雇いです。


どうしたの、ヴィクター?


旦那様の戦装束と鎧を用意するように言ったでしょう?


……カインの書類を手伝っているの?


そちらは後で構いません。

今は旦那様の支度を優先しなさい。


若旦那様がまだ決心なさっていないのが気になる?

たとえ最後に戦場へ向かわれないとしても、正式な戦装束は、貴族が重要な場に臨む際の装いのひとつです。


用意しておいて損はありません。

さあ、早く行きなさい。


……失礼いたしました、旦那様。


どこまでお話ししましたっけ?


そうでした。


最初はただ、奥様の治療のために国外へお連れしただけだったのです。


ですが、その後「常夜の地」の一件が起こりまして……


詳しいことは、王家から旦那様も聞かされているのでしょう?


グレイス王国の旧王家は、民からより強く支持されていたエレイン女王陛下が王位を得るのを阻むため、「常夜の地」そのものを開き、国を混乱に陥れようとしました。

もしグレイス王国が「常夜の地」の魔物に呑み込まれていたなら、私たちだって無事では済まなかったでしょう。

幸い、最後にはエレイン女王陛下が聖剣を振るい、新たに王配となられたケヴィン様とともに、その企みを阻止なさいました。


けれど、それで終わりではなかったのです。

一度開かれてしまった「常夜の地」は、扉を閉めればそれで元通り、というものではございません。


すでに開かれてしまった出入口を、本当の意味で閉ざすことができるのは――聖鎖の聖女の力だけ。


……ええ。


ようやくお気づきになりましたね。


奥様も、行かれたのです。


聖鎖の聖女――奥様。


聖剣の聖女――エレイン女王陛下。


そして、聖盾の聖女――ブレンダ様。


三人の聖女は、丸一年を費やして、ようやく「常夜の地」を再び封じることに成功しました。


ですから、奥様がここを去られてから最初の一年は、ずっとグレイス王国にいらしたのです。

「常夜の地」の再封印が終わってから、ようやくヴァール帝国へ向かわれました。


……何ですって?


また、私が間諜ではないかというお話に戻るのですか!


違いますよ、若旦那様。


お忘れですか?


私は公爵家の侍女になるより先に、ルーシー様の侍女だったのです。

そもそも若旦那様のお母上も、奥様も、「聖鎖の聖女」でいらっしゃいます。


若旦那様だって、この程度のことはお勉強なさったはずでしょう?


……ええ。


思い出されたようですね。


ルーシー様の時代には、本来なら聖女を守り、その身の回りを支えるはずだった神殿は、すでに貴族議会の決議によって廃止されておりました。


私は当時、その神殿にいた、ただの見習い巫女だったのです。

神殿がなくなれば、当然、私にも行く場所がありません。


そんな私を引き取って、侍女にしてくださったのがルーシー様でした。

そして私は、ルーシー様と一緒にこの公爵家へやってきた。


不思議なご縁でしょう?


もしかすると、そのせいでしょうか。

王家の方々は、私を取り込もうとは一度も考えなかったようです。


……単に、この老婆にはそれだけの価値もないと思われていたのかもしれませんけれど。


奥様へ残すお手紙は、もう書けましたか?


……なかなか筆が進まないようですね。


無理もございません。


奥様とご結婚なさって五年。

本当の意味で夫婦らしく過ごせたのは、最初の一年くらいでしたものね。


……あら。


申し訳ございません。

この老婆は、また余計なことを口にしてしまいました。


旦那様?


大丈夫ですか?


少し、頭がくらくらなさいません?

足にも、力が入りにくくなってきたのでは?


……まあ。


どうやら、ちゃんと効いてきたようですね。


申し訳ございません、若旦那様。


私にはどうしても、ケヴィン様に教わった通りの濃さでお茶を淹れる勇気がなかったのです。

ケヴィン様は何度も、「少し眠るだけだから大丈夫だ」と保証してくださいました。

エレイン女王陛下もご自分で安全性を確かめてくださって、身体に害はないとおっしゃっていました。


それでも、やはり心配です。

ですから淹れたあと、こっそり二度ほど薄めてしまいました。


……どうやら、それでも十分だったようですね。


はあ。


ええ。


ほかの二人の聖女様が、若旦那様に最後にもう一度だけ、ご自分で道を選ぶ機会を差し上げようとおっしゃったのです。


このお茶は、そのために用意されたものです。

お茶そのものが、旦那様のお身体を傷つけることはございません。


ですが――


馬を駆っている最中に突然意識を失えば、話はまったく別です。


もし若旦那様が最初から、騎士たちを率いて王都へ向かうと決めていらしたなら、今頃はもう道中だったでしょう。


おそらく、効き目が現れるのもちょうどその頃。

そうなったら、何が起きるでしょうね。


突然意識を失って、馬から落ちるかもしれません。

運が悪ければ、そのまま道半ばで命を落とすこともあるでしょう。


あるいは、王家と心中するつもりなどない騎士たちが、眠っている旦那様を縛り上げるかもしれません。


今となっては、公爵を無傷のまま帝国へ差し出すほうが、公爵と一緒に討ち死にするより、よほど大きな見返りを得られるでしょうから。


いずれにせよ、歴史にはなかなか立派な名前を残したでしょうね。


「忠義に厚き公爵、家臣を率いて王都を守らんとし、勇敢なる最期を遂げる」


……と。


では、もうひとつの道を選ばれていたら?


もし最初から、すべてを手放して帝国の奥様のもとへ行くと決めていらしたなら――


お茶が効き始めたあと、私たちが人目につかないよう、きちんと帝国までお送りする手筈になっておりました。


一眠りして、次に目を開けた時。


ベッドのそばに座っているのは、きっと奥様だったでしょう。

もちろん、奥様ご本人は、この試みについて何もご存じありません。


きっとお怒りになるでしょうね。

泣いてしまうかもしれません。


それでも最後には、旦那様の手を握ってくださったのではないでしょうか。


もちろん、それから二人はいつまでも幸せに暮らしました――などというおとぎ話にはならないでしょう。


それでも。


お二人には、まだ時間があった。

失ってしまった年月を、少しずつ取り戻していく時間が。


けれど、若旦那様。


最後に道をお選びになるまで、少々時間をかけすぎてしまいましたね。

これだけのことを知ったあとでも、若旦那様は最後に王都をお選びになった。


ですから――


もう、遅いのです。


そうでしょう?


カイン様。


……そうですか。


承知いたしました。


では、これより若旦那様は、ヴァール帝国の捕虜として扱われるのですね。


どうなさいました、若旦那様?

なぜ、そんなに驚いていらっしゃるのですか?


帝国から派遣された使者は、エリザベス・ゲド夫人です。


ああ。


若旦那様のお年では、彼女が誰なのかご存じなくても仕方ありませんね。

けれど、そのお顔を見る限り――姓には聞き覚えがおありのようです。


ええ。


二十五年前に滅びたゲド家で、ただ一人生き残った娘です。


今から王都へ駆けつけたところで、もう誰も救えないでしょう。


国王陛下。


王妃殿下。


先王陛下。


王太后殿下。


そして、カーボン公爵。


エリザベス夫人はどうやら、二十五年前、処刑場で兄君が味わったものを、今度はあの方々自身に味わわせるおつもりのようです。


……旦那様?


大丈夫ですか?


ヴィクター、こちらへ来て手伝ってちょうだい。

旦那様の身なりを整えて、身体も冷えないようにして差し上げなくては。


――これでよろしいでしょうか?


カイン・ゲド様。


……まあ。


若旦那様。


今になって、ようやくお気づきになったのですか?


それはさすがに、少し寂しいですね。


若旦那様が領地を離れられる前は、私の子供たちとも一緒に育ったというのに。

あの子たちの中に、こんなに目立つ赤い髪をした子など、一人もおりませんでしたよ。


……ええ、カイン様。


公爵領の帳簿。


土地の権利書。


それから、公爵家の印章。


必要なものは、すべてこちらに揃えてございます。


皇妹殿下が到着なさったら、どうぞカイン様ご自身の手でお渡しくださいませ。

婚約者から未来の花嫁へ贈る、少々大きな贈り物ということで。


それでは、カイン様。


若旦那様はこれから、帝国の捕虜として監視下に置かれるのですね?


皇妹殿下がこの領地に留め置かれるのか、それとも帝国へ連れて行かれるのか。


それはもう、私などが口を挟むことではございません。


ただ、ひとつだけお願いがございます。

その間も、私と息子が若旦那様のおそばに付き、きちんとお世話をすることだけは、お許しいただけませんでしょうか。


食事も。


衣服も。


必要なものは、何ひとつ不自由させないようにいたします。


若旦那様は少々鈍いところがあって、身近で起きていることにも、なかなかお気づきになれない方です。


それでも。


ルーシー様の、たった一人の息子なのです。


私が幼い頃から、ずっと見守ってきた子でもあります。


そして何より――


奥様は今でも、この方を愛していらっしゃいます。


……お願いできますか?


ありがとうございます、カイン様。


それでは、ヴィクター。

若旦那様をしっかり支えて差し上げて。


もうすぐ、お眠になるでしょうから。


せめて皇妹殿下がお着きになるまでは――

私たちで、若旦那様をきちんとお世話して差し上げましょう。


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― 新着の感想 ―
王家による暗愚教育で公爵家乗っ取られてますね
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