すぐに決められますか?
そうですか。
王都から使者が来て、旦那様に一刻も早く公爵家の騎士たちを招集してほしい、と?
ヴィクター、よくやりました。
では、先ほど割れたガラスと、床に散らばったドライフラワーを片づけておいてちょうだい。
どうやら王家も貴族の皆様も、旦那様にはずいぶんと期待なさっているようですね。
それで、旦那様はどうなさるおつもりですか?
副執事の進言に従って、公爵家の騎士たちを招集し、王都へ救援に向かわれるのでしょうか。
……ああ。
私が申し上げているのは、王家のために働いている、あの副執事のことですよ。
ご存じなかったのですか?
では、王家の命に従い、公爵家の騎士たちを率いて王都へ向かい、ヴァール帝国の軍勢と戦われますか?
それとも、戦える者をすべて連れて辺境へ向かい、ヴァール帝国の魔法使いたちが張った結界を突破できるか試してみますか?
あるいは、ほかのお考えがおありでしょうか。
ご安心ください。
そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。
最後にどのような道を選ばれようとも、旦那様は私の敬愛するご主人様です。
この屋敷に最後まで残った侍女として、私は旦那様の身なりを整え、お荷物をまとめましょう。
そして――旦那様が、ご自分で選ばれるところを見届けます。
すぐに決められますか?
それでも構いません。
まだ時間はございます。
その間に、何かほかのことをなさいますか?
奥様が出せずにいたお手紙と、普段お暇なときにいろいろと書き留めていらした手帳なら、こちらへ持ってきてあります。
ご覧になりますか?
え?
先に、もっと大切なことを済ませたい?
もちろんでございます。
では、こちらに置いておきましょう。
旦那様がその「もっと大切なこと」を片づけてから、ゆっくりご覧になればよろしいかと。
公爵家が所有する土地の権利書ですか?
ございますよ。
鉱山の契約書?
もちろん、そちらもございます。
今年の帳簿……?
旦那様。
まさか、この数年間、一度もそういった書類をご覧になっていなかったのですか?
確かに、ルーシー様の頃から、帳簿をまとめるのは私の役目でございました。
旦那様が王都でお過ごしになったこの五年間も、半年ごとに取りまとめ、暗号化した魔法通信で王都へお送りしておりました。
ただし、私の仕事はあくまで、実際に起きたことを記録するところまでです。
帳簿に問題があるかどうかを判断し、どう対処するかを決める権限までは、私にはございません。
本来であれば、旦那様が領地を離れているあいだ、家令や事務官たちが奥様を補佐しながら処理するはずのことでございました。
けれど旦那様は、その権限をアンドレにお与えになった。
奥様には、お与えにならなかった。
……何ですって?
一度も届いていない?
五年間、半年に一度。
全部で十回です。
その十回が、一度も?
届いたという知らせすら、一度もなかったのですか?
それとも、王都でのお仕事がお忙しく、届いてはいたものの目を通す暇がなかった、と?
……そうですか。
どうやら、途中で止められていたのは、奥様のお手紙だけではなかったようですね。
大丈夫ですよ。
そんなに悲しいお顔をなさらないでください、若旦那様。
今となっては、それらがどこで止められ、どこへ消えたのかを突き止めたところで、もう大して何も変わらないでしょう。
幸い、旦那様ならきっとご覧になりたがると思って、こちらにも一式用意しておきました。
カイン。
あの書類は、今あなたが持っていますよね?
すみませんが、出していただけますか。
一つずつ、私の主人に直接ご確認いただきましょう。
……旦那様。
お顔の色がよろしくありませんね。
帳簿の数字に、何か問題でもございますか?
薔薇のお茶を、もう少しいかがです?
……いらない?
では、どの項目をご覧になって、そんなに驚いていらっしゃるのですか?
ああ。
奥様の支出ですか。
王都で旦那様に報告されていた数字と、こちらに残っている数字が違うのですね?
奥様がここを離れてからの二年間、奥様の生活費は公爵家の予算から一切支出されておりません。
とりわけ、この一年。
ヴァール帝国で奥様がお暮らしになるために必要なものは、キャサリン皇太后殿下と聖盾の聖女様が、すべてご負担くださっています。
お二人とも、喜んでそうなさっているようですよ。
……どうなさいました?
まさか王都では、奥様が宝石やドレスを大量に買い、公爵家の財産をずいぶん浪費している――などと報告されていたのですか?
慎ましさで知られていたご両親と同じく、奥様も決して贅沢を好む方ではございません。
王都の高級店で、湯水のようにお金を使うような方ではありませんよ。
それとも――。
領地で何か大きな災害が起きた、と報告を受けたことがおありですか?
……やはり、ございましたか。
ですが、ここ数年、この領地でそのような災害は起きておりません。
少なくとも、つい先頃までずっと領地で暮らしていたこの老婆は、一度も目にしておりませんね。
それなのに旦那様は王都で、何度か「災害救援費」の支出を承認していらっしゃるようです。
老婆の余計なお節介ではございますが、本当にそれほどの大災害が起きたのなら、領主様には一度くらいご自分の目で確かめに戻っていただきたいものです。
領民たちも、旦那様のお顔を見れば安心できたでしょうから。
ええ、若旦那様。
私がこのことに気づいたのは、一昨年のことです。
ちょうどその頃、王家がどこからかまとまった資金を手に入れ、新しい翡翠鉱山へ投資するつもりらしい――そんな噂が広まっておりました。
ですが、あの頃の私には、そのお金がどこへ流れたのかを追いかける余裕など、もうございませんでした。
奥様が倒れたのです。
それも、ひどく重い病です。
ここにいては、十分な魔法治療を受けることができませんでした。
ですから、一刻も早く奥様を国外へお連れしなければならなかったのです。
旦那様にも、お手紙をお送りしました。
奥様の病状をお伝えし、治療のため、一時この国を離れなければならないこともお知らせしました。
けれど、お返事はありませんでした。
……大丈夫です。
お返事がなかった時点で、私はもう、旦那様にはそもそも届いていないのだろうと思っておりましたから。
ですが、どうかお許しください。
あのときの私には、もうこれ以上待つことができなかったのです。
ルーシー様も、あのとき、もっと早く十分な魔法治療を受けることができていたなら、もしかすると今も……。
……いえ。
今さら言っても仕方のないことですね。
もうご覧になりましたか?
しばらくお使いにならないのでしたら、書類はカインに返しておきますね。
……旦那様?
大丈夫ですか?
こちらにきれいなハンカチがございます。
どうぞ、涙をお拭きください。
この刺繍ですか?
ええ。
奥様がご自分で刺されたものですよ。
昔、何枚も刺していらっしゃいました。
どれも旦那様に差し上げるおつもりだったそうです。
奥様が初めて旦那様とお会いになった日、庭には桃色の薔薇が咲いていたのだとか。
それ以来、桃色の薔薇は奥様のいちばん好きな花になったのですよ。
……思い出せますか?
ええ。
奥様が王都まで旦那様を訪ねていらしたとき、旦那様のお屋敷で王女殿下が侍女に命じて、靴を拭かせた――あのハンカチと同じものです。
奥様は、あのことをとても悲しんでいらっしゃいました。
……ああ。
そうでしたね。
旦那様は、すべては耐えるためだった、とおっしゃるのですね。
王女殿下の熱が冷めるまで耐える。
王家が考えを変えるまで待つ。
そうすれば、いつかここへ戻り、奥様と一緒に暮らせるのだと。
けれど、若旦那様。
この五年間の「我慢」は――
いったい、誰を守ったのでしょう。
旦那様が王宮で人々に囲まれ、褒めそやされていた間。
奥様はどこへ行っても蔑まれ、心ない言葉を浴びせられておりました。
中には「王女と騎士の真実の愛」という物語に入れ込みすぎて、本当に奥様を傷つけようとした者までいたのですよ。
そして、この五年間。
本来ならば、この屋敷と領地を預かるべき女主人である奥様には、何一つ権限が与えられていなかった。
そうして、旦那様がご自分ではずっと耐えているつもりだった、その間に――
旦那様が後ろに残していったものは、何もかも、少しずつ壊れていったのです。
……せめて。
奥様とお会いになったとき、ただ一言でも、ご自分の口から愛していると伝えてくださればよかった。
あるいは、一度だけでもよかったのです。
これから何をするつもりなのか。
何を待っているのか。
そして、なぜそこまで耐えなければならないと思っているのか。
そのすべてを、奥様にお話しくださればよかった。
そうしていれば、もしかすると今とは違う結末になっていたのかもしれませんね。
……ああ。
王宮にいらっしゃる方々が心配なのですか?
そうですね。
何しろ、八歳の頃からともに育ってこられた王子殿下と王女殿下ですもの。
その長い年月で結ばれた情に、私やヴィクターが口を挟めるものではないのでしょう。
きっと、奥様でさえも。
では――もう、お決めになったのですか?
公爵家の騎士たちを率いて、王都の救援へ向かわれるのですね?
紙とペンを?
……奥様には、お手紙を一通だけ残していかれるおつもりなのですね。
ヴィクター。
書斎へ行って、いちばん上等な便箋を持ってきてちょうだい。
……それでよいのかもしれません。
若旦那様がずっとそういう方だったからこそ――
奥様も、ずっと旦那様を愛していらしたのでしょうね。
ほかに何かございますか?
……私の息子や甥たちに、高塔の鐘を鳴らさせて、公爵家の騎士たちを招集したい?
それは少々、難しいかと存じます。若旦那様。
今も私のそばに残っているのは、ヴィクターだけですから。
……どうなさいました?
ほかの子たち、ですか?
三年前。
私が最後に、旦那様へ手紙を届けるため、あの子たちを王都へ向かわせてから――
誰一人、帰ってきておりません。




