私の考えが足りませんでした
あら。
ティーポットが空になってしまいましたね。
では、もう少しお湯を足して差し上げましょう。
このお茶、気持ちを落ち着かせるにはなかなかいいでしょう?
……アンドレ執事がどこにいるのか、ですか?
さあ。
私にも分かりません。
あの人とは、もうずいぶん前から話すことなどありませんから。
アンドレ執事は、いつも奥様のご出身を気に入らないと申しておりました。
所詮は宮廷伯爵家の娘にすぎない。
広大な領地があるわけでも、誇れるほどの財産があるわけでもない。
到底、名門と呼べるような家柄ではない――と。
それだけではございません。
奥様には公爵夫人にふさわしい資質がまだ備わっていない。
公爵夫人として一人前になるまでは、この家の女主人として扱うつもりはない、と。
あの人がそれを公然と口にするようになってから、何もかもがいっそう悪くなりました。
領地の者たちは奥様を疎み、旦那様と王女殿下の仲を引き裂いた悪女だと言うようになりました。
この屋敷の使用人たちも、そうした噂に――そして、旦那様ご自身の態度に影響されて、次第に奥様をこの家の女主人として敬わなくなっていきました。
やがて、王都から流れてくる噂もますます酷くなっていきました。
そしてアンドレ執事があのようなことを公然と言い始めてからは、すべてがさらに悪い方向へ進んでしまったのです。
無理もございません。
あの人は、旦那様ご自身が領地の管理を任せた者なのですから。
そのアンドレ執事ですら奥様を女主人として認めないのに、ほかの者たちが奥様を敬う理由など、どこにあるのでしょう。
私にできたことなど、せいぜい奥様に新鮮な果物を召し上がっていただくことくらいでした。
厨房には肉料理や温かいスープをきちんと用意させましたし、少なくとも奥様のために割り当てられたお金だけは、できる限り奥様ご自身のために使われるよう目を光らせておりました。
けれど、若旦那様。
人というものは、ただお腹を満たし、暖かい服を着ていれば、それだけで健やかに生きていけるものではございません。
奥様は、どれほど努力なさっても、誰からも認めてはいただけませんでした。
非の打ちどころのない礼儀作法を身につけて夜会に出席しても、夫である旦那様はいつも王女殿下のエスコートを優先なさいました。
そうなれば、王家の機嫌を取りたい貴族たちにとって、奥様は格好の笑いものです。
領地の孤児院や救済施設を視察なさったときなど、奥様が到着なさるより先に、旦那様と王女殿下の「真実の愛」を面白おかしく書き立てた新聞が、すでにそこまで出回っていたこともございました。
奥様は公爵夫人としての役目を果たそうと、領地の仕事にも関わろうとなさいました。
けれど、アンドレ執事が一言「認めない」と言えば、奥様のお考えはすべて退けることができた。
――旦那様が、あの人にそれだけの権限をお与えになっていたからです。
「聖鎖の聖女」という名さえ王家が重んじなくなったのです。
それで、この国の民のいったい誰が、奥様を敬おうと思うのでしょうね。
それから、旦那様が領地を留守になさっているあいだ、その守りを任されていた叔父君ですが……。
あの方は以前から、旦那様にお子がお生まれにならなければ、いずれ自分の子が公爵家を継げると期待しておいででした。
でしたら当然、奥様のために口を挟む理由などございませんよね。
……本当に驚いていらっしゃるのですね。
旦那様。
今まで、一度もおかしいとは思われなかったのですか?
旦那様が領地へお戻りになるたびに、なぜ王女殿下だけは、いつも誰より早く旦那様のご予定をご存じだったのでしょう。
どうして、いつも誰より先に公爵領へいらっしゃることができたのでしょうね。
それから――。
王女殿下と旦那様がご一緒になると、たとえ大勢の目がある公の場であっても、なぜか毎回、ちょうどよく人の誤解を招くような場面ができあがっていたのは、どうしてなのでしょう。
……ふふ。
あら、失礼いたしました、若旦那様。
旦那様と王女殿下の間に本当に何かあったのかどうかについては……。
ひとまず、旦那様の潔白を信じて差し上げることにいたしましょう。
いえいえ、ご説明は結構です。
私ももう、曾孫までいる年齢ですもの。
若い男女の間に何があったのかなど、細かいところまで聞かされても困ってしまいます。
老人を気遣ってくださって、ありがとうございます。
私がお話ししたいのは、別のことです。
アンドレ執事も、この屋敷にいる使用人の一部が、本当は誰に忠誠を誓っているのか知っていた。
知っていて、何もしないことを選んだのです。
……ええ。
おかしいと思いませんか?
ごく普通の平民の娘だと名乗っているのに、言葉遣いも立ち居振る舞いも、妙に洗練されている。
あれほどの礼儀作法を身につけていれば、王都の男爵家や子爵家の出身だと言われても、私は疑わなかったでしょう。
そのうえ、なぜか王都の噂には異様なほど詳しい。
奥様を見るときだけは、その顔に浮かぶ侮蔑を隠しきれない。
護衛として雇ってほしいとやって来た男たちも同じです。
紹介した者は、代々農業をしてきた家の男だと言っていたのに、手も肌もずいぶんと白くて。
鎌ひとつ、まともに扱えない。
なのに長剣を持たせれば、あっという間に使い方を覚えてしまう。
そんな者たちを、アンドレ執事はろくに疑いもせず次々と雇い入れました。
そうして、いつの間にかこの屋敷のあちこちに入り込み――。
そのうち何人かは、旦那様のおそばにまで送られていきましたよね。
ですから、私はずっと不思議に思っていたのです。
この屋敷に最後まで残り、奥様に忠義を尽くしていた使用人たち――私の息子や甥たちを、公爵家の印章まで持たせて旦那様のもとへ向かわせたというのに。
いったい誰が、あの子たちを旦那様のところへ通さなかったのでしょうね。
そういう者たちが長いあいだおそばにいたというのに、旦那様は一度も疑おうとはなさらなかったようですね。
それについては……少々、残念に思います。
私の記憶にある、尊敬すべき先代公爵様とルーシー様は、若旦那様をそのようにお育てになったはずではございません。
……え?
すべてご存じだった?
ただ耐えていれば、いずれ王女殿下も王家も考えを改めるだろうと、そうお思いだったのですか?
先代公爵様とルーシー様も、それはそれは厳しい時期をお過ごしになりました。
けれど、お二人は決して「我慢」という言葉を理由にして、他人の好きなようにご自分たちの人生を弄ばせたりはなさいませんでしたよ。
……今、なんと?
先代公爵様があれほど苦労なさったのは、間違った正義感を振りかざして、わざわざキャサリン皇太后殿下の肩を持ったせいだ――?
そのせいで公爵家まで余計な苦労を背負わされた、と?
若旦那様。
あなたは、ずっとそのようにお父上のことを理解していらしたのですか?
誰からも聞かなかったのですか?
先代公爵様とルーシー様が、どのようにして出会われたのか。
本当に?
先代公爵様ご本人からも?
……ああ。
そうでしたか。
これは、私の考えが足りませんでした。
私はてっきり、そうした昔のことは、いつか先代公爵様ご自身の口から若旦那様にお話しになるものだと思い込んでいたのです。
けれど、若旦那様は八歳のとき――。
「母を亡くし、十分な教育を受けられる環境にない」という理由で、王家に王宮へ召し上げられたのでしたね。
それからは、王子殿下や王女殿下のおそばで過ごす時間のほうが長くなった。
領地へ戻って、お父上とゆっくりお話しになる機会も、少しずつ減っていってしまった。
では……。
王家が若旦那様のために用意した教師たちは?
その者たちも、何も教えなかったのですか?
……そうですか。
なるほど。
それなら――。
いろいろなことに、説明がつきますね。
……ご存じないのですか?
ルーシー様は、もともとは平民の生まれだったのですよ。
十四歳のとき、初めて「聖鎖の聖女」であることが判明したのです。
……これも、ご存じなかった?
当時、王宮では、この国に現れた聖女が「聖鎖の聖女」だったことを残念がる者が大勢おりました。
平時には何の役にも立たない聖女を国内に置いておくくらいなら、いっそ嫁いでいく王女殿下に付き従わせ、ヴァール帝国へ送ってしまえばいい。
そして、帝国の後宮に入る妃嬪の候補として、王女殿下の嫁入りに添えてしまえばいい――と。
……そのお顔を見れば分かります。
やはり、何ひとつご存じなかったのですね。
実を申しますと、その話を止めた方こそ――
当時、まだ王太子妃になることが決まったばかりだった、キャサリン皇太后殿下なのですよ。
聖女の力がその時代に必要とされているかどうかなど、関係ない。
自国の聖女を嫁入り道具のように他国へ差し出すなど、決して前例にしてはならない。
キャサリン皇太后殿下は、そうお考えになったのです。
だからこそ、王家と対立してまでルーシー様をこの国に残そうとなさいました。
そして後には、身分の違いを乗り越えてルーシー様と先代公爵様が結ばれるよう、お力添えまでなさったのです。
もちろん、ルーシー様も先代公爵様と婚約されたばかりの頃は、ずいぶんと苦労なさいました。
けれど、当時の公爵様ご夫妻は、お二人ともルーシー様をとても可愛がり、息子の婚約者として公然と認めておられました。
ですから、外でどれほど心ない噂を流されようとも、この屋敷に帰ってさえくれば、ルーシー様は自分が安全なのだと分かっていたのです。
学ぶための時間がありました。
失敗することも許されていました。
そして、ゆっくりと成長していくことができたのです。
……本当に驚いていらっしゃるのですね。
これが、ルーシー様が亡くなる前に、若旦那様とモニカ様の婚約をお決めになった理由でもあるのですよ。
何も、お二人が同じ「聖鎖の聖女」だからというだけで、勝手に若旦那様の結婚相手を決めてしまったわけではございません。
ルーシー様は、まだ幼かったモニカ様と若旦那様を実際に会わせておられます。
そして、お二人が本当に仲良く過ごしているところを、ご自分の目で確かめられたのです。
別れたあとなど、それはもう大変でしたよ。
家に帰ったお二人は、それぞれご両親にまとわりついて、「次はいつ会えるの」と何度もせがんでいたのですから。
だからルーシー様は、信じたのでしょうね。
――自分の息子なら、きっとこの子を大切に守ってくれる、と。
けれど残念ながら。
その後のことは、ルーシー様が思い描いていたようには進みませんでした。
先代公爵様も、若旦那様がご結婚なさる前に亡くなられました。
そして結婚なさったあとでさえ、幼い頃から共に育った王子殿下や王女殿下に何かを求められれば、旦那様はいつも王家の都合を最優先になさいました。
一方で王家もまた、旦那様に王女殿下を娶らせることを、最後まで諦めてはいなかったようですね。
王女殿下の縁談がいつまで経ってもまとまらない。
すると王家は、その原因を奥様に尋ねました。
そして――使える手は、ほとんどすべて使ったのでしょう。
……そう考えてみますと。
尊き王家の方々というのは、昔からずっと、同じことを繰り返しておられるのですね。
ご自分たちに都合の悪いことが起きるたびに、誰か一人を選んで犠牲にする。
カーボン公爵の機嫌を取りたければ、公爵の私生児である娘の婚約者に身に覚えのない罪を着せ、その娘を王宮へ迎え入れる。
お金が足りなくなれば、裕福なゲド家に罪を着せ、その財産を国庫へ取り上げる。
ご自分の娘や妹を、血なまぐさいことで名高い帝国の後宮へ送りたくなければ、それまでの婚約を破棄して、代わりにキャサリン様を差し出す。
そして今度は、王女殿下の結婚が厄介事になった。
でしたら――。
モニカ様さえ、いなくなればいい。
……本当に便利なやり方ですね。
いつだって、代償を払うのはご自分たちではないのですから。
あら。
ちょうどカインとヴィクターも戻ってきましたね。
ヴィクター。
いつまでカインの後ろに立っているのですか?
早く旦那様の上着を新しいものに替えて差し上げなさい。
それから、その破れた服はもう処分しておいて。
……どうなさいました、旦那様?
外の様子を知りたい?
それでしたら、ちょうどよかったですね。
ヴィクター。
先ほど外で見てきたことを、旦那様にご報告なさい。
……ん?
旦那様。
どうして先ほどから、そんなふうにカインをご覧になっているのですか?
……ああ。
カインのこの鮮やかな赤い髪は、一度でも会ったことがあれば、そう簡単に忘れられるものではないはずです。
これで、私にもはっきりわかりました。
私の息子や甥たちは――
やはり一度も、本当に旦那様のお目にかかることができなかったのですね。




