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お帰りなさいませ、旦那様

お帰りになったのですね、旦那様。


ああ、はい。


ようやくお気づきになりましたか?


奥様は、もうこのお屋敷にはいらっしゃいません。


どれくらい前からですか?


そうですねえ……もう二年ほどになるでしょうか。


どうして報告しなかったのか、と?


お手紙なら、ずっとお送りしておりましたよ。

奥様から正式に許可もいただいて、魔法の手紙も五通、お送りしました。


五というのは、女神様がお好みになる数字でしょう?


五通続けてお送りしても、旦那様からは何のお返事もありませんでした。


ですから今度は、このお屋敷に残っていた、奥様に忠実な使用人たち――つまり、私の息子や甥たちを王都へ向かわせました。

それでも駄目でしたので、馬を走らせ、旦那様がお務めになっていた辺境にまで行かせたのです。


残念ながら、大切な家門の印章を携えていても、あの子たちは旦那様にお目通りすることができませんでした。


ですが、あの子たちは賢い子たちです。

面会を願い出るたび、必ず十分な数の証人がその場にいることを確かめておりました。


まあ。


旦那様、僭越ながら、それはおやめになったほうが――


あっ。


早くそこから離れてください……!


カイン! ヴィクター!

早くこちらへ来て、手を貸してちょうだい!


まあまあ。

これはずいぶん散らかってしまいましたね。


旦那様、お怪我はございませんか?

お手やお身体を、ガラスで切ってはいませんか?


腹立ちまぎれに壊すにしても、よりによってその箱をお選びになることはなかったでしょうに。


中に入っていたのは、奥様が昔、とてもお気に入りだったガラスの花瓶です。

薔薇を飾るときには、いつもそれをお使いになっていました。


ですが……あれが最後の一つだったのですよ。


ほかの花瓶はないのか、と?


昔はもちろんありました。

いくつもありましたよ。


ただ、このお屋敷のほかの使用人たちは、奥様の持ち物を大切に扱う必要などないと考えていたようです。


ガラスのものも、陶磁器のものも、一つ、また一つと割られてしまいました。

ほかの品々にいたっては……割られる機会すらなかったものもございますけれど。


旦那様、少しだけ足をどけていただけますか?


奥様がお作りになったドライローズを踏んでいらっしゃいます。


先ほど箱が壊れたときに、一緒にこぼれ落ちたのでしょうね。

奥様が大切になさっていた、数少ない思い出の品なのですよ。


本当は、ほかの荷物と一緒にお送りするつもりでした。


どこへ送るのか、ですか?


てっきり旦那様は、その前にお尋ねになるものだと思っておりました。

どうして奥様が、このお屋敷でこのような扱いを受けていたのか。


そして、どうして旦那様のもとには手紙が届かず、使いの者たちも旦那様にお会いできなかったのか、と。


……今はそんなことが問題なのではない?


ああ。


では、旦那様は……以前からご存じだったのですか?


まさか、奥様が心配していらしたことは本当で、旦那様は本当に……?


まあ。


申し訳ございません。

私が悪かった。


私は所詮、この家に少しばかり長く仕えているだけの侍女にすぎません。

若旦那様に差し出がましいことを申し上げる立場ではございませんね。


平民が貴族の方に、このような口を利いてはいけませんもの。


奥様だって同じです。

たとえ伯爵家のご令嬢であっても、尊い王女殿下と張り合うことなど、許されないのでしょうから。


カイン。

ヴィクター。


二人とも、何をぼんやりしているのですか?

早くこの箱を片づけなさい。

若旦那様のお邪魔をしてはいけませんよ。


普段から、私が何と教えているのでしょうか?


私たちはもう公爵家のお役目を辞し、この国を出る支度まで済ませています。

けれど、今日一日はまだ、この家にお仕えする最後の日なのですから。


私どもの一族は、長いあいだ公爵家にお仕えしてまいりました。


なかでも旦那様のお母上――先代公爵夫人のルーシー様には、私は数えきれないほどのご恩をいただきました。


本当にここを去るその時までは、旦那様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。


申し訳ございません、若旦那様。

先ほど、何とおっしゃいました?


ああ、そうでしたね。

失礼いたしました。


私は悪くございません。

先ほどのご質問に、きちんとお答えしなくては。


奥様がお持ちになった嫁入り道具や衣装、宝飾品の大半は、もう何年も前になくなっております。


ほかの使用人たちの話では、整理しているうちに、うっかり失くしてしまったそうですよ。


不思議なものですねえ。

あれほどたくさんの品が、揃いも揃ってなくなってしまうなんて。


ですから、今ここに残っているものは、どれも奥様が大切になさっていた品ばかりです。


今日中にすべて荷造りを済ませて、奥様が今お暮らしになっている場所へお持ちします。


どこにいらっしゃるのか、ですか?


ヴァール帝国です。


そこで何をしているのか、と?


奥様はこの一年ほど、女皇陛下の後宮でお暮らしになっています。


あちらでようやく、聖女として本来受けるべき待遇を受けられるようになりました。


「帝国の薔薇」と呼ばれる聖盾の聖女様が、奥様のお世話をしてくださっています。

それだけではございません。

長年「帝国の薔薇」と寄り添ってこられたキャサリン皇太后殿下まで、直々に奥様を庇護してくださっているのですよ。


ですから、旦那様。


ご心配には及びません。


奥様は今、とても幸せに、そして安全に暮らしていらっしゃいます。


――ここにいた頃とは違って。



……はい?


ヴァール帝国軍が、もう王都を包囲している?

国境全体が結界で封鎖されている?


ええ、存じておりますよ。

皆、知っているのではありませんか?


旦那様も、もうお気づきでしょう。

このお屋敷には、私どもを除けば、ほとんど使用人が残っておりません。


あの人たちは、本当に耳が早かったですねえ。


帝国軍が動き始めた途端、もう荷物をまとめて逃げ出してしまいました。


どうやら、以前から私が考えていたとおりだったようです。

あの者たちが本当に忠誠を捧げていた相手は、ずっと王宮にいたのでしょうね。


まあ、今となってはどうでもよいことですが。


何しろ、あの者たちの本当の主人は今、揃って王宮に閉じ込められ、裁きを待っているのですから。


それにしても、あの結界は本当に見事なものですね。


外から中を見れば、何もかもはっきり見えるのに。

中から外を見ようとすると、ぼんやり霞んで何も見えない。


魔法というものは、本当に不思議ですねえ。


時々、考えてしまうのです。

もし二十五年前、この国がキャサリン皇太后殿下をヴァール帝国へ送るようなことをせず、魔法使いたちを一人、また一人と追い出したりもしなかったなら――


今頃、アッシュ王国はどんな国になっていたのでしょうね。



まあ。


申し訳ございません。

少々、おしゃべりが過ぎました。


若旦那様、しばらくお掛けになってお待ちになりますか?


カインがすぐに替えのお召し物を持ってまいります。

先ほどガラスの破片で破れてしまった上着も、着替えてしまったほうがよろしいでしょう。


お待ちになるあいだ、温かいお茶でもいかがです?


グレイス王国から取り寄せた薔薇のお茶です。

香りがとてもよくて、少し変わった味がするのですよ。


……グリーン王国と呼ぶべきだ、と?


ですが、若旦那様。


グリーン王国が国号をグレイス王国に改めたのは、もう三年も前のことですよ……?


その呼び名がお好きなのですか?

そうですか。


まあ、どちらでも構いませんね。

とにかく、あの国から取り寄せた薔薇のお茶です。


さあ、一口お飲みになってください。

ずいぶんお疲れのようですから。


先ほど申し上げたとおりでしょう?


とても美味しいでしょう?


……少しは落ち着きましたか?


ふふ。


こうしていると、旦那様がまだ幼かった頃を思い出しますね。


覚えていらっしゃいますか?


昔の若旦那様は、外で嫌なことや辛いことがあっても、ずっと我慢なさっていました。


そしてお屋敷に帰ってきてから、ようやく泣き出すのです。


そんなときは、先代公爵夫人――お母上のルーシー様がお菓子をご用意なさって、旦那様と一緒にテーブルについて。


何があったのか、最初から最後まで、ゆっくりお話を聞いていらっしゃいました。


旦那様は、あの頃いつもおっしゃっていましたね。


「僕はいつか公爵家を継ぐんだから、我慢できるようにならなくちゃ」


――って。


まだ頬に涙の跡を残したままでしたのにね。


ルーシー様があんなにも早く亡くなられてしまったのは、本当に残念なことでしたね。


先代公爵様も、もういらっしゃいません。


とても優しい方でした。

ルーシー様と旦那様を心から愛していらして、私ども使用人にも、いつも分け隔てなく接してくださいました。


とりわけ、二十五年前のあの一件では――


当時の国王陛下は、もともと決まっていた婚約を破棄して、ご自分の妹君の代わりにキャサリン様をヴァール帝国の後宮へ送ろうとなさいました。


先代公爵様は、それに最後まで反対していらっしゃいました。


そのせいで、あの頃は王宮でずいぶんお辛い立場に置かれていたそうですね。


まあ。


申し訳ございません。


年を取ると、どうしても昔話が長くなってしまって。


ですから、若旦那様。


この老いぼれの侍女が差し出がましいことを申し上げるのを、どうかお許しください。


旦那様。


これまでずっと続けてこられた、その「我慢」は――


本当に、するだけの価値があったのでしょうか?


王女殿下に呼ばれれば、旦那様はすぐに駆けつける。

舞踏会でも、式典でも。

王女殿下がエスコートをお望みになれば、旦那様はほとんど一度もお断りにならなかった。


その結果、王宮からこのお屋敷に至るまで、誰もが信じるようになりました。

旦那様と王女殿下こそが、本当に愛し合っているお二人なのだと。


そして奥様は――


聖女を騙り、その立場を笠に着て旦那様に結婚を迫った、悪女なのだと。


これもすべて、旦那様のおっしゃる「我慢」だったのでしょうか?


……そのような噂は知らなかった、と?


そうでしたか。


それは……ずいぶん不思議な話ですねえ。


私は息子に頼んで、手に入る新聞はすべて購読させておりました。


王家の新聞社が発行する新聞も。

王都で出回る民間の瓦版も。

領地で発行されている刊行物まで、一つ残らず。


けれど、どれを読んでも、書かれていることはほとんど同じでしたよ。


奥様のご実家は、代々王宮で職務に就き、その役目によって爵位を保ってきた伯爵家でした。

もともと、さほど権勢のある家柄ではございません。


それでも、あらゆる方面から圧力をかけられ、とうとう追い詰められてしまいました。


三年前。


代々受け継いできた王宮での役目を辞し――


爵位も、「自らの意思で」返上なさいました。


王都を去る前、ご実家の方々は、それまで旦那様と交わしてきた手紙をすべて奥様へ送ってこられました。


申し訳ございません。

あのお手紙は、私もすべて読んでおります。


奥様には、ご自分で最後まで読み通すことがどうしてもできませんでした。

ですから結局、一通ずつ、私が声に出してお読みしました。


ご実家の方々が何度も何度も助けを求めて手紙を送ってきても、旦那様のお返事は、いつも似たようなものでしたね。


もう少し我慢してほしい。


もう少し待ってほしい。


いずれ、すべてうまくいくから――と。


そして、ご実家の方々が奥様との離縁を求め、娘を公爵家から連れ帰りたいと申し出たとき。


旦那様は、お返事の中でとうとうお怒りになりました。

お答えは、たった一言。


「ありえない」


そして奥様にも、そのご家族にも、ご自分たちの立場をわきまえ、それぞれが果たすべき責務を果たすように、と。


あのお手紙は、覚えていらっしゃいますよね?


ええ。


もしあれまでお忘れになっていたら――


さすがに、あまりにも酷うございますもの。


ですが、若旦那様。


奥様についての噂は、王都中が騒ぎになるほど広まっていました。

遠く離れた領地の新聞にまで載っていたほどです。


それなのに旦那様は、本当に一度も耳になさらなかったのですか?


その後、奥様のご家族は王都を離れました。


けれど残念ながら、新しい住まいへ無事に辿り着くことはできませんでした。


道中、馬車が盗賊に襲われたのだそうです。

全員が亡くなりました。


――襲ったはずの盗賊たちも含めて。


……どうやら、この件は覚えていらっしゃるようですね。


当然でしょう。


あのとき奥様は、ご家族の葬儀へ参列することを望んでいらっしゃいました。


けれど、それをお止めになったのは旦那様です。

それどころか、執事とすべての使用人に命じて、奥様をお部屋から一歩も出さないようになさいました。


旦那様があのとき、何をお考えだったのかは分かります。


奥様のご家族の死には、不審な点があまりにも多かった。

背後に、もっと大きな企みがあるのかもしれない。


十分な護衛もないまま奥様が領地を出れば、今度は奥様ご自身が襲われるかもしれない。


ですから、外へ出なかった。


ええ。


それが旦那様なりの「お守りする」ということだったのは、私にも分かっております。


ですが――


どうして、何もおっしゃらなかったのですか?


外の人々には、旦那様のお考えなど分かりません。

このお屋敷の使用人たちにも分かりません。


あの者たちの目に映ったのは、ただ一つ。

奥様のご両親が亡くなった。

それなのに、その夫は葬儀にすら行かせなかった。


――それだけです。


だからこそ、あの噂は以前にも増して広まっていきました。


せめて奥様のご家族のご遺骨を領地へお迎えして、こちらで葬儀を執り行ってくださればよかったのです。


けれど旦那様は、そのことまでアンドレ執事に任せてしまった。


王女殿下こそ、この公爵家の女主人にふさわしいのだと、いつも信じて疑わなかった――


あのアンドレ執事に。


ですから最後には、私が勝手に口を出して、アンドレ執事からその役目を引き取ってしまいました。

あのときの私は、確かに少々出過ぎた真似をしてしまったのでしょうね。


ですが、少なくとも――


奥様のご家族を、ようやくきちんとお弔いすることができました。


奥様の国外のお知り合いの方々も、ずいぶん心配していらっしゃるようです。

わざわざ遠方から葬儀に足を運び、奥様がご無事なのか、ご自分の目で確かめたいとおっしゃる方もいらっしゃいました。


どうしてもご本人が国を離れられない方は、代わりに使者を遣わしてくださいました。

立派なお花と、お悔やみのお手紙を携えて。


皆様、本当に礼儀正しい方々でしたよ。


正直に申し上げれば――


ただの年老いた侍女にすぎない私には、少々もったいないほどのご丁寧な応対で。

あのときは、かえって恐縮してしまったくらいです。


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