第8章 国境の向こうから
コーネリアを出発して、半日。
街道の両側には、人の手が入らなくなった草原が広がっていた。
背の低い草が風に押され、同じ方向へ波打っている。振り返っても、監視塔はもう小さな影にしか見えない。
国境は目前だった。
午前のうちに見かけた畑は、もうない。道端の草が伸び、荷車が通る幅だけが土の色をしている。
ネイルは外套の裾を押さえ、風の向こうを見た。
「何かありますか?」
隣でセインが尋ねる。
「ううん。随分、遠くまで見えるなって」
「森へ入ると、そうもいきません。今のうちに見通しが利くのは助かりますね」
「セインは、こっちに来たことがあるの?」
「魔王領へは。ただ、いつも同じ道というわけではありません」
セインは前方のケンへ目を向けた。
「今回は、この先で休憩を取る予定です。荷を引くほうにも、休みが要りますから」
ネイルも荷車を見た。車輪の音の間に、荷役魔獣の重い足音が混じっている。
自分が疲れていないからといって、進み続けるわけにはいかない。
「休む時も、セインの近く?」
「ずっと隣にいなくても大丈夫ですよ。何かあれば声をかけます」
「そっか」
少し安心してから、ネイルは自分が本当に、決められた場所を離れないようにしていたことに気づいた。
セインはそれを笑わず、歩きながら荷の肩紐を直した。
「そろそろ魔王領に入る」
先頭を歩くケンが振り返った。
その声で、隊列の空気が変わる。
ガルドは重心を落とした。少し遅れて荷車の脇へ目を向けると、リリィも腰の道具へ触れていた。
ネイルはセインのそばを歩きながら、先を行くケンたちと荷車の様子へ目を配った。
国境へ近づくほど、空気の感触が変わっていった。
肌を撫でる風が重い。
呼吸をするたび、舌の奥へ鉄に似た味が残る。
大気に滞留する魔素が、人間領より濃いのだ。
草の色が急に変わるわけではない。同じ風が、国境のこちらと向こうを吹き抜けている。
それでも、身体には分かる。
ネイルは、一度だけゆっくり息を吸った。
「平気?」
リリィが荷車のそばから顔を覗かせる。
「うん。平気だよ」
「水、飲む?」
「まだ持ってる。ありがとう」
リリィは頷き、水袋を戻した。フードを覗こうとはせず、今度は前方のガルドへ声をかける。
ネイルは水袋へ触れた。
一人なら、息を吸ったことに返事をする相手はいない。今は、その程度のことで声が届く。
自分にも同じことができるだろうか。隣でセインが少し歩く速さを変えた時、疲れたのか、荷車に合わせたのか、ネイルにはまだ分からなかった。
「ツバキ、ここから索敵を頼めるか?」
「……もう展開している」
ツバキは周囲から視線を外さずに答えた。
「半径三十メートル、反応なし。風上にも、今は何もいない」
「さすがだ。助かるよ」
ケンは礼を言い、すぐ前へ向き直る。
必要な確認が短い。
ツバキも、自分の役割を説明し直したりはしない。
二年間を共にしてきた者同士の呼吸だった。
ガルドが肩を回し、国境の先へ獰猛な笑みを向ける。
「久しぶりの魔王領だな。向こうから来た魔獣を迎え撃つんじゃなく、こっちから入るのは随分ぶりだ」
「嬉しそうだね」
リリィが呆れた声を出す。
「このまま俺たちで、辺り一帯の魔獣を片づけてもいいんじゃねぇか?」
「目的を忘れるな」
セインが即座に言った。
「今回は商隊の護衛だ。戦争を始めに来たわけではない」
「ガルドって、本当に馬鹿だよね」
「うるせぇ。分かってて言ってんだよ」
「分かっている人は、普通そんなこと言わないよ」
「二人とも」
ケンが苦笑しながら割って入る。
「国境を越える前から喧嘩しないでくれ。商隊まで不安になる」
緊張を解くための軽口なのだろう。
誰も配置を崩してはいない。
ネイルは少し離れたところから、そのやり取りを聞いていた。
一人で歩く時にはなかった声だ。
騒がしいとは思う。
けれど、不思議とうるさくは感じなかった。
(馴染んできたではないか)
(まだ、半日だよ)
(時間の問題ではあるまい)
(そうやって、すぐからかうんだから)
言い返したネイルの視線が、ふと東へ向いた。
誰にも気づかれないよう、フードの奥で《万理眼》を開く。
いつもの景色に、魔素の流れが重なる。
ネイルは東の草原へ意識を向けた。
視ようと思えば、そこが視える。遠くの草に隠れた獣の動きも、目の前にいるかのように。
東に、揃って動く反応があった。
風に流れる線。草陰を逃げる小さな獣の残滓。その中で、東だけが濁っている。
街道から外れた草原を、四十を超えるウルフが進んでいた。
先頭が速度を落とすと、続く個体も呼吸を合わせたように速度を落とす。速さが変わっても、個体同士の間隔は崩れない。
獲物を追って集まった群れではない。
隊列だった。
間隔が詰まった一角だけが、急に前へ出ることもない。先頭の動きが、群れの後ろまで伝わっている。
これほど数がいれば、ばらばらに走っていても厄介だ。それが同じ動きで近づいてくる。
ネイルは、前を歩くガルドの盾と、群れの広がりを見比べた。
一匹ずつ受け止められる相手でも、左右へ分かれれば守る場所が増える。
まだ、こちらを狙ってはいない。
ネイルはそのことを確かめてから、上へ視線を移した。
(パレード)
(見えている)
パレードの声から、先ほどまでの笑いが消えた。
ネイルはウルフの上空を探った。
雲の影へ紛れ、一羽の大きな鳥獣が、地上の群れと同じ方向へ進んでいた。
ネイルがそちらを視ると、雲の内側に隠れた姿まで鮮明になった。黒い翼。長い嘴。風を受けて揺れる尾羽の一本一本まで、視える。
(ガストレイヴン)
影が旋回するたび、群れの先頭が進路を直した。
地上だけを見て動いている群れではない。
(一緒に動いてるんだね)
(上からなら、地面の連中より遠くが見える)
(僕たちも、もう見つかってるかな)
(こちらを獲物に選んだかまでは、まだ分からんな)
ネイルは視線を少し下げ、群れと街道の間を見た。
遮るものの少ない草原では、進む方向が分かりやすい。だからこそ、少しの向きの違いが気になった。
(まだ、道を横切るだけかもしれない)
(その先まで行くとは限らんがな)
(うん。だから、見てる)
ネイルは水を作ろうと思えば作れた。魔法を使うために、何かを取りに戻る必要もない。
ただ、今ここで構えれば、隣のセインは気づくだろう。
何を狙っているのか。どこを見ているのか。
顔を隠しているだけなら、聞かれずに済んだことまで、答えなければならなくなる。
ネイルは杖を持つ手を動かさず、東を見続けた。
前のほうで、ガルドが何かを言った。リリィの返事が続く。言葉までは追わなかったが、声の調子は先ほどと変わっていない。
まだ、あの声を止めなくてもいい。
そう考えた自分に、ネイルは何も言わなかった。
地上の群れは止まらない。上空を確かめている間にも、先頭は同じ速さで草を分けている。
(襲ってくるのなら、上の影をここから撃ち落として終わりなのにな)
パレードが心底残念そうに言う。
(僕も、そう思う)
ただ、群れの先頭は、まだ商隊を向いていない。
どれだけ鮮明に視えても、次にどちらへ向かうつもりなのかまでは分からなかった。
風は商隊から東へ流れている。ツバキの索敵魔法が届く距離でもなかった。
(教えるのか?)
ネイルの唇が僅かに開いた。
口に出せば、隣のセインには届く。前を歩くケンにも、呼びかけられる。
東、四十以上。上にも一体。
それだけ伝えれば、ケンたちは今すぐ備えられる。代わりに、ツバキにも届かない距離をなぜ見抜けたのかが残る。
ケンの背中を見た。ネイルのすぐ後ろには、何も知らないセインがいる。
開いた唇を、ネイルは閉じた。
(……今は、まだ教えない)
(ほう)
(進路がこっちを向いたら、すぐ伝える。それまでは見ている)
(うまくいくといいねぇ、ネイル)
パレードの声に、楽しそうな響きが戻る。
(そう言う時のパレード、嫌い)
(キヒヒッ)
ケンたちは、まだ東の群れに気づいていない。
モードンも、商人たちも、何も知らないまま街道を進み続けている。
東を進む群れは、一度も隊列を崩さない。
互いの進路が変わらなければ、あと三十分ほどで行き会う。
雲の下で、黒い影がゆっくり翼を傾けた。




