第9章 衝突
「止まれ──!」
商隊の前方から、護衛兵の声が飛んだ。
荷車が順に速度を落とし、車輪を軋ませて止まっていく。
国境標を越えて間もない街道の脇には、大岩が幾つも重なっていた。その向こうには、黒い枝を絡ませた木々が、壁のように連なっている。
絡枝の森。
魔王領を通る貿易街道の中でも、見通しの悪い区間だった。
コーネリアを出てから、半日。
荷車を引いてきた荷役魔獣、岩角牛──グラウオックスたちも、さすがに疲れを見せていた。太い脚を止め、口元から白い息を漏らしている。
「一時間、休憩する!」
護衛兵の号令を聞き、《ブレイズ・フォーカス》の五人も警戒を解かないまま足を止めた。
ネイルはセインを背にしたまま、東の草原と雲の流れを見ていた。
ほかの誰にも見えていないものが、今も東の草原を進んでいる。
ウルフの群れ。
そして、その上空を旋回する黒い鳥獣。
商隊は荷車を大岩側へ寄せ、商人たちはその陰へ入った。護衛兵は外周に残る。
荷を下ろす者はいなかった。座る場所を探した商人が岩へ背をつけ、水袋の栓を抜く。
ネイルは、それを立ったまま見ていた。
休憩の号令が出ても、東の反応は消えない。群れはまだ商隊より北へ進み、その上では影が回っている。
ケンへ伝える言葉を、一度頭の中で並べた。
群れがいる。近づいている。ただし、こちらを狙っているとは限らない。
そこまで考えて、口にはしなかった。まだ、先ほど決めた進路の変化はなかった。
ケンは立ったままのネイルへ一度だけ目を向けてから、ツバキを呼んだ。
「ツバキ。国境近くまで索敵を続けて、疲れただろう。今のうちに休んでくれないか」
「……大丈夫」
短く答えたあと、ツバキは少しだけ目を伏せた。
「と、言いたいけど……少し休む」
「そうしてくれ」
ケンが差し出した魔力回復薬を一口飲み、ツバキは岩へ背を預けた。
ケンは少し離れた場所で本を開いていたセインへ声をかけた。
「セイン。ツバキが休んでいる間、代わりを頼めるか?」
「了解しました」
セインは栞を挟んで本を閉じ、片手を地面へ向けた。
「《感知結界》」
淡い魔力の膜が、セインを中心に広がっていく。
半径は、およそ五十メートル。
ツバキの索敵魔法より広い。しかし分かるのは、結界へ何かが侵入したという事実だけだ。方角も、数も、相手の種類も判別できない。
精度を落とす代わりに範囲を広げた、休憩中の警報だった。
セインから少し離れ、ネイルは大岩の陰へ腰を下ろした。
水袋を置きに来たリリィが、ネイルの視線を追った。
「さっきから、何を見てるの?」
「精霊と、少し話してたんだ」
リリィの目が、フードへ向く。
「ネイルちゃん……エルフ?」
「うん」
リリィは嬉しそうに目を細めたが、それ以上踏み込まず、仲間のもとへ戻ろうとした。
戻りかけた背中へ、ネイルは小さく声をかけた。
「リリィ。水袋、ありがとう」
「どういたしまして。ちゃんと飲んでね」
今度こそリリィが離れる。ネイルは水を一口飲み、栓を戻した。
エルフだと分かっても、驚かれて終わりだった。耳を見せてほしいとも、精霊がどこにいるのかとも聞かれない。
そのことに少し気を緩めかけて、ネイルはまた東を見た。
草原の帯は、さっきより近かった。
休憩が始まってから、二十数分。
低い丘の向こうで、草が帯になって倒れていく。
先ほどまで、群れの先頭は商隊より北を向いていた。このままなら、街道を横切るだけで終わる可能性もあった。
上空の黒い影が、小さく旋回する。
群れが一斉にこちらを向いた。続く個体も次々に進路を折り、倒される草の帯が大岩の陰で休む商隊へ真っ直ぐ伸びてくる。
それで十分だった。
「東。四十以上。上にも一体いる」
ネイルは、今度は迷わなかった。
五人の視線が集まる。
「どれくらい先ですか?」
「数百メートル。今、こっちへ進路を変えた。五分もしないうちに来るよ」
ケンは東の草原を見た。低い丘の向こうで、草の帯だけがこちらへ伸びている。
「分かりました。理由は、あとで構いません」
ケンの声が切り替わる。
「ツバキ、動ける?」
「……もう大丈夫」
「セインは結界を維持。ガルドは前へ。リリィは荷車側で待機」
ガルドが盾を持って進み、ツバキは休んでいた岩から離れた。セインは結界を保ったまま杖を手元へ寄せる。
ネイルが伝えた数と方角が、動きに変わる。
「商人の方たちは、岩の陰へ。荷車から離れすぎないでください」
ケンが護衛兵へ声を渡す。
「あと、空にも一体います。頭上にも気をつけて」
護衛兵の一人が空を見上げ、それから商人へ手を振った。
休憩のために広がりかけていた人々が、慌てて荷車の側へ戻る。水袋を持ったまま立ち上がった男が、隣の者に促されて岩陰へ入った。
ネイルは、その最後の一人が隠れるまで見ていた。
護衛兵たちは商人をさらに大岩の陰へ下げた。モードンが雇った冒険者だけは、モードンの箱馬車を守る位置から動かない。
雲が切れた。
ケンたちの目にも、初めて黒い翼がはっきりと映った。
魔王軍の斥候ではない。地上の群れを退ければ、あの鳥獣は離れていく。
ネイルはセインのそばへ戻り、東を見た。
準備を終えて待つあいだにも、草の帯は急速に近づいた。
草の動きだけだったものに、黒灰色の背が混じり始める。
ネイルはセインの杖を見た。その先はまだ低く、詠唱も始まっていない。
「ここでいい?」
「はい。僕は後ろにいます」
それを聞いて、ネイルは東へ顔を戻した。
前ではガルドが、群れの来る方角を見据えていた。
ネイルはセインのそばにいた。昨日、街道図へ指を置いた時とは違い、目の前には押し寄せる群れがいる。
その時、セインを中心に広がっていた魔力の膜が大きく震えた。
座っていたセインが立ち上がり、その細い身体からは想像できない声を張り上げた。
「敵襲!」
待ち構えていた空気が、一段強く張り詰めた。
ガルドは盾を構え直し、ケンは剣を抜いた。ツバキも東の草原へ顔を向ける。
「結界へ入りました。来ます!」
「ツバキ、頼む」
「了解」
ツバキが目を閉じ、索敵魔法を再展開する。
五十メートルの境を越えたウルフは、ほんの数秒でさらに距離を詰めていた。
ツバキの目が開く。
「三十メートル。東から四十前後。ウルフ系……多すぎる」
ケンは一度、全体を見渡した。
「いつもどおりだ。商隊を背に、ここから先へ抜かせない」
「任せろ!」
ガルドが大盾を地面へ落とし、その左右をケンとツバキが埋めた。
黒く重い鎧に身を包んだガルドの右手には、短槍がある。
大きく息を吸い込むと、盾の表面を槍の石突きで打ち鳴らした。
「来い──!」
戦技。磨き上げた声と威圧が、姿を現したウルフの目をガルドへ集める。
その背後で、セインが杖を上げた。リリィは五人を見渡せる場所へ残る。
ネイルはセインを背に、迫る群れを見据えた。
低い丘の陰から、ウルフが次々と飛び出した。
黒灰色の毛並み。
剥き出しの牙。
群れはガルドへ殺到しながら、一部が大きく広がって荷車を狙う。
先頭が盾へ向かっているからといって、後ろまで同じ道を来るわけではない。ガルドへ目を集めた群れの端が、草を踏み倒しながら左右へ伸びる。
ケンが、その動きを追って足を運んだ。
ネイルは手を上げかけ、ケンが追いつけると見て下ろした。まだ、前の三人が止める場所だった。
「ケン、《迅脚》いくよ!」
リリィが杖を向ける。
淡い光がケンの両脚へまとわりつき、足元へ吸い込まれた。
「調子はどう?」
「最高だ」
ケンの脚へ魔力が集まる。
次の瞬間、彼の姿が前へ弾けた。
ガルドの左を抜けようとした一匹へ追いつき、剣を横薙ぎに振るう。
一閃。
ウルフの身体が、草の上へ倒れた。
「セイン、射線を作る! 準備を!」
「了解しました」
セインが杖を掲げる。
「天を駆ける雷霆よ、我が声に応えよ。黒雲を裂き、蒼き閃光となりて──」
セインが杖を向けた先に、味方はいない。五匹が固まり、その脇をさらに十匹近くが駆け抜けようとしていた。
五匹を倒しても、残りは止まらない。
ネイルは両手を下げた。
二筋の《水蛇》が草の根を這い、ガルドたちの踵を避けて左右へ走る。先頭の脚へ絡み、腹を濡らし、その隣へ続いた。
「眼前の敵を撃ち貫け──《サンダーボルト》!」
蒼白い雷が落ちた。
五匹で終わるはずだった光が、濡れた毛並みから隣へ跳ねる。さらに、その先へ。
空気が焼け、舌の奥へ金属の味が広がった。
ネイルは《水蛇》を崩す。
味方の足元まで、雷の道を残す必要はなかった。
崩れた水の向こうで、ウルフたちが草へ落ちていった。




