第10章 六人の戦い
雷鳴が遅れて岩場を揺らした。
十数匹のウルフが草の上へ投げ出され、どの個体も起き上がれない。
「思っていた以上に……」
杖を下ろしたセインが、珍しく言葉を失っていた。
狙ったのは、味方のいない側面に固まっていた五匹ほどだ。それが実際には、その何倍もの範囲を巻き込んでいる。
群れの左右では、二匹の《水蛇》が形を失っていた。
ガルドの視線も、その水へ向いていた。
索敵を続けていたツバキも、雷が走った道を見落としてはいない。
即席の連携だった。
「まだ終わってねぇぞ!」
ガルドの声が、止まりかけた戦場を再び動かす。
雷鳴に驚いたのか、黒い翼が雲の下へ降りてきた。
「動けるのは……二十五前後。それと、上」
ツバキの声に、ケンたちの視線が一瞬だけ持ち上がった。
雲を抜けた黒い翼が、戦場の上を大きく旋回している。
翼を広げれば五メートルを超える鳥獣、ガストレイヴン。
群れの一角が崩れたことで、空から地上の様子を確かめているらしい。
その僅かな隙を、ウルフたちは逃さなかった。
後退していた前列が、揃って地面を蹴る。
「前だ!」
ケンが叫ぶ。
四匹が中央へ殺到した。
狙われたガルドは、大盾を地面へ打ちつけるように構え直す。
一匹目の牙を盾で受け、そのまま盾の縁を横へ振った。
鈍い音が響く。
ウルフのこめかみへ重い一撃が入り、身体が横倒しに吹き飛んだ。
同時に、右手の短槍が二匹目の喉元を貫く。
だが、そのウルフは倒れながら槍の柄へ噛みついた。
ガルドの右手が、その場へ縫い止められる。
残る二匹は、それを待っていたかのように左右へ分かれた。
一匹の爪が右肩の装甲の継ぎ目を裂く。
もう一匹の牙が脇腹の継ぎ目へ食い込み、防具ごと肉を抉った。
「ぐっ……!」
血が飛び、脇腹を濡らす。
息を吸った一瞬だけ、ガルドの肩が縮んだ。それでも、足は一歩も退かなかった。
「まだまだ、これからだぁ!」
盾の把手を離す。
大盾は前腕の革帯に吊られたまま地面を擦った。空いた左手で肩口の一匹を掴み、その身体を脇腹の一匹へ叩きつける。
二匹をまとめて地面へ振り下ろした。
草と土が弾け、地面に浅い窪みができる。
一匹の死まで、次の牙のために使う。群れが大きくなるほど連携を増す──群牙狼の名は、その戦い方についたものだった。
ネイルは一歩出かけ、止まった。
ここを離れれば、詠唱直後のセインが剥き出しになる。ガルドの右へ回ろうとした一匹には、すでにツバキが刃を向けていた。
ガルドが四匹を受け止める横で、ケンも二匹を相手取っていた。
剣身を、淡い緑の揺らぎが覆う。
風の付与魔法。
無詠唱で威力を抑えた代わりに、刀身の切れ味だけを一時的に引き上げている。
「いくよ」
リリィの《迅脚》を受けた両脚が、一気に間合いを消した。
ケンの剣が一匹目の首を切り落とす。
だが、二匹目は振り戻す刃の軌道を読んだように、低く身を沈めていた。
剣の下を抜け、ケンの胸元へ爪を振るう。
「……っ!」
服と胸当てが裂け、鮮血が滲んだ。
パックファングは着地と同時に跳び直し、今度は剥き出しになった首へ牙を向ける。
その横顔へ、黒い影が突き立った。
ツバキの投げたクナイだった。
刃は頬を深く裂き、パックファングの顔を横へ弾く。
生まれた隙へ、ケンの剣が走った。
一閃。
ウルフの身体が、勢いを失って草地へ転がる。
「助かった」
「……礼はいい。次、来る」
ツバキはすでに別の方向を見ていた。
ガルドを抜けられないと判断した群れが、彼を避けて荷車へ向けて散り始めている。
「行かせない」
ツバキが走り、先頭の一匹へ刃を突きつけて押し戻す。
その間にも、リリィは杖を掲げていた。
「ケン、ガルド! その場にいて!」
温かな光が杖の先へ集まる。
「慈しみの光よ、傷つきし者を包み、その痛みを癒やせ──《ヒール》!」
柔らかな光が二つに分かれ、ケンとガルドを包んだ。
裂かれた胸元の血が止まる。
ガルドの肩と脇腹も、開いた傷が少しずつ塞がっていく。
光が消えると、ガルドは右腕を上げ、途中で眉を寄せた。それでも左腕の盾は構え直せた。
ケンの胸元も塞がっている。だが、深く息を吸った途端、赤が薄く滲んだ。
長くは持たない。
「助かるぜ!」
ガルドは礼を叫ぶと、槍へ噛みついた死骸を足で蹴り外した。
すぐに盾を構え直し、飛び込んできた一匹を正面から受け止める。
「ガルド、少しだけ耐えて!」
「少しと言わず、いくらでも来い!」
ケンは答えを聞きながら、剣を正面へ構えた。
先ほどの淡い揺らぎとは違う。
今度は、詠唱によって術式を最後まで組み上げていく。
その時、荷車へ回り込もうとした一匹が、前衛の脇を抜けた。
低く跳び、セインへ牙を向ける。
ネイルは後ろを振り返らなかった。
「セイン、そのまま」
足元から細い水が起き上がり、飛び込んできた牙の前で膜になった。
突っ込んだ鼻先が水を押し広げる。膜は破れず、ウルフの顔を包みながら横へ曲がった。
ネイルは指をわずかに返す。
勢いを逸らされた身体が草へ落ち、セインとは反対の側へ転がる。起き上がったウルフは、前衛に押し戻されてきた群れへ紛れた。
水を解くと、ネイルの前はまた空いた。
セインは同じ場所にいる。
ネイルも、そこを離れなかった。
「大気を巡る風よ、刃に集い、その鋭さを我が剣へ。一閃の軌跡を風刃へと変えよ──」
刀身が鮮やかな緑へ染まった。
細い風が幾重にも剣の周囲を巡り、草の先を低く揺らす。
ガルドが盾で群れを押し返す。
ツバキが回り込もうとした個体を斬り返し、ケンの前へ追い立てる。すぐに身を翻し、射線を空けた。
ガルドに押し返された群れもそこへ重なり、パックファングたちはケンの正面で身動きを失った。
「ガルド、しゃがめ!」
その声を聞いた瞬間、ガルドは片膝をつき、大盾ごと上体を沈めた。
「《エアリアル・エッジ》!」
ケンが剣を横一線に振り抜く。
緑の風刃が、低くなったガルドの頭上を通り過ぎた。
群れの前列を薙ぎ、背後の個体へ突き抜ける。
十数匹のパックファングが一斉に崩れ落ちた。
それでも風刃は止まらない。
風刃は群れを抜け、そのまま東の岩丘へ横一線の亀裂を刻んで、ようやく消えた。
一拍遅れて、割れた岩の欠片が斜面を転がり落ちる。
ケンは剣を下ろした。大きく息を吸いかけて、途中で止める。
胸元の裂け目には、薄く血が滲んでいた。
地上の群れが動かなくなる。
上空を回っていたガストレイヴンは、翼を一度大きく傾けた。
獲物を追う群れが失われたことを悟ったのか、絡枝の森とは反対の空へ向きを変える。
セインが、その背へ杖を向けた。
杖の先へ、尖った石が幾つも集まり始める。
「大地に眠る礫よ、我が前へ集い──」
「追うな」
ケンが隣へ寄り、低い声で制した。
セインは詠唱を止める。
形を作りかけていた《ロック・ランス》が、土と小石へ戻って落ちた。
「ツバキ、周囲。リリィはガルドを」
ツバキは返事の代わりに目を閉じた。リリィはもう、血の落ちるガルドの脇腹へ手を当てている。
ケンは振り返る。
大岩の陰では、護衛兵たちが荷車と商人を囲んだまま周囲を見ていた。グラウオックスは雷鳴に怯えていたが、御者が手綱を押さえている。倒れた者も、壊れた荷車も見当たらない。
荷車へ届いたパックファングはいなかった。
「……やりすぎ」
リリィが呟いた。
「加減したつもりなんだけど……」
「その台詞、ネイルちゃんみたい」
「僕?」
突然名前を出され、ネイルは首を傾げた。
(似た者同士ということだな)
(たぶん、違うよ)
ネイルは、そこでようやく肩の力を抜きかけた。
けれど、血に濡れたガルドの脇腹と、ケンの胸元で視線が止まる。
(……もっと早く伝えていれば)
(傷を負わなかったとは限らん)
(それでも、備える時間は増やせた)
答えは返ってこなかった。
「ネイルさん」
セインが近づいてきた。
「先ほどの、蛇のような水は?」
「《水蛇》。雷魔法の詠唱が聞こえたから、あれがいいかなって」
「詠唱を聞いただけで、合わせたのですか?」
「うん。先に聞いてたわけじゃないけど、途中で分かったから」
「僕の《サンダーボルト》は、あれほど広い魔法ではありません。あの水が、雷をつないだんですね」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「うまくいくと思ったけど、セインの魔法だから、どこまで広がるかは分からなかった」
雷の流れる先は読めても、セインが完全詠唱で放つ最大火力と水を組み合わせるのは初めてだった。
セインは少し考え、それから深く息を吐いた。
「助かりました。ただ、次は先に教えてください。自分の魔法が急に広がると、心臓に悪いので」
「ごめん」
「怒ってはいません。味方を避けて水を流してくれたことも、分かっています」
セインの口元が、僅かに緩む。
「次は、僕も合わせます」
「うん」
「二人で何してるのー!」
離れた場所から、リリィが大きく手を振っていた。
「治療の続きするから、こっち来て! ネイルちゃんも怪我してないか見るよ!」
「僕は大丈夫──」
「それは見てから決めます!」
(諦めたまえ)
ネイルは小さく息を吐き、リリィの方へ歩いた。
ケンの胸とガルドの肩・脇腹には、まだ鈍い痛みが残っていた。
リリィは傷を洗い、薬を塗ってから包帯を巻く。
処置を終えると、リリィとセインは魔力回復薬を飲んだ。ガルドはその隣で、傷ついた鎧を見下ろしていた。
「俺の大事な防具が……」
右肩と脇腹には、爪と牙の跡が深く残っている。
ガルドの大きな背中が、目に見えて丸くなった。
「アルフヘインで買えばいいんじゃない?」
リリィが言う。
「もしかしたら、付与魔法のついた防具があるかもよ」
「その手があったか!」
丸まっていた背中が、すぐに伸びた。
「立ち直るの、早いね」
「装備を選ぶのも冒険だからな!」
「さっきまで泣きそうだったのに……」
ケンが苦笑した。
ツバキが周囲に反応がないと告げると、護衛兵たちも岩陰を出て、持ち運べる素材だけを手早く回収した。
治療と確認を終える頃には、予定された休憩時間も残り少なくなっていた。
モードンは最初に荷車を確かめ、それから《ブレイズ・フォーカス》の前へ来た。
「積荷に損害はないようですね」
服についた土を払いながら、一人ずつを見る。
「想定外の襲撃ではありましたが……よく守りました。絡枝の森でも、引き続きその働きを期待します」
「はい。最後まで責任を持ってお守りします」
ケンが答える。
モードンは短く頷くと、護衛兵へ出発の準備を命じた。
「今の、褒めたのか?」
ガルドが小声で尋ねる。
「たぶんね」
「珍しいこともあるんですね」
「……明日は雨かも」
セインとツバキまで加わり、リリィが吹き出した。
やがて御者の声が重なり、グラウオックスが再び歩き始める。
街道の先では、絡枝の森が口を開けて待っていた。
ネイルがいつもの位置へ戻ろうとした時、外套の裾が僅かに引かれた。
振り返ると、ツバキが指を離すところだった。
「さっきの水、出すのが速かった」
「……速すぎた?」
「そうじゃない。気になっただけ」
ツバキはネイルの手から顔へ視線を上げた。
「それと、もう一つ。ネイル、さっき……進路が変わる前から、東を見てた」
「うん」
言い訳は、すぐに幾つも思いついた。
草が揺れた。
風の音がした。
偶然、同じ方角を見ていただけ。
けれど、どれも口にはしなかった。
ツバキも理由を聞こうとはしない。
「言えないことがあるのは……分かる」
小さな声で、それだけ言う。
「でも、確かじゃなくても、何かいるって分かった時は、もっと早く教えて。理由は……あとでもいい」
ネイルは、先を行く仲間たちを見た。
前でガルドが笑い、ケンが速度を抑えるよう注意している。
一人なら、確かになるまで待てばよかった。
危険に変わってから、自分が片づければ、それで終わる。
けれど、今は自分だけが備えれば終わるわけではない。
「うん」
ネイルはツバキへ向き直る。
「次は、もっと早く言う」
「……分かった」
ツバキはそれ以上追及せず、隊列の外側へ戻っていった。
(言えるのかねぇ)
(……努力する)
ネイルも、五人の歩幅へ自分の足を合わせる。
商隊は大岩を離れ、絡枝の森へ進んでいく。
前を行くツバキの背中は、声をかければ届くところにあった。




