第11章 森の向こう
パックファングの襲来から、一夜が明けた。
絡枝の森へ入ってから、商隊は一度も足を止めていない。
護衛と御者は交代で荷台へ上がり、短い仮眠を取った。食事も、揺れる荷車の上か、その隣を歩きながら済ませている。
朝靄の残る街道を、グラウオックスが重い足音を響かせて進んでいた。
ケンの胸元には、まだ包帯が巻かれている。歩き方に不自然さはないものの、大きく腕を動かすたび、僅かに眉が寄った。
ガルドの右肩と脇腹にも、傷が残っていた。裂かれた鎧は革帯で応急補修され、右側だけが少し歪んでいる。
「無理してないでしょうね?」
リリィが何度目か分からない確認をすると、ガルドは胸を張った。
「この程度、寝れば治る!」
「寝てないでしょ」
「少しは寝た!」
「荷台で二回、痛いって起きたよね」
「あれは荷車が跳ねたからだ!」
言い返す声だけは、昨日と変わらず大きい。
その少し後ろを歩きながら、ネイルは腰のポーチへ手を入れた。
取り出したのは、薄茶色の四角い塊だった。
そのまま齧るには硬い。角を少しずつ折り、口の中で水分を含ませながら噛み砕いていく。
隣から、じっと視線を感じた。
「ネイルちゃん、それ何食べてるの?」
リリィが、いつの間にかすぐそばまで来ていた。
「店で売ってたもの」
「それは見れば分かるよ。一口ちょうだい!」
ネイルが差し出すと、リリィは端を折り取って齧った。
硬い音がする。
そのまま、表情まで固まった。
「……ネイルちゃん。いつも、こんなの食べてるの?」
「食べやすいからね」
「食べやすい?」
リリィは口の中のものをどうにか飲み込み、信じられないものを見る目を向けた。
「これ、食べてる人いたんだ……」
駆け出し冒険者向けの携帯糧食、トレイルブロック。
安く、長く保存でき、身体を動かすのに必要な栄養もひととおり摂れる。その代わり、味と食感はほとんど考えられていない。
金のない新人が世話になり、余裕ができれば大抵はもっとまともな食事へ移っていく品だった。
「おい、リリィ。何を食ってるんだ?」
二人のやり取りを聞きつけ、ガルドが寄ってくる。
リリィの手元を見るなり、懐かしそうに目を細めた。
「おお、トレイルブロックじゃねぇか。久しぶりだな」
「懐かしいなら、残りも食べる?」
リリィが、齧りかけの欠片を差し出す。
「一口だけな」
ガルドはその端を折り取った。
奥歯で豪快に噛み砕く。
「この味だ。この、何を食ってるのか最後まで分からねぇ感じ。冒険者になりたての頃を思い出すぜ」
「思い出に浸れる味じゃないよね?」
「腹が膨れりゃ何でもよかったんだよ。ネイルは、今でもこれを食ってるのか?」
「うん」
ネイルは残っていた角を、また一つ折った。
ぼり、と乾いた音がする。
「さっきから、そればっかりだよね。ポーチに何個入ってるの?」
「少し多めに」
「アルフヘインに着いたら、ちゃんとした朝ご飯を食べさせるからね」
「これは、ちゃんとしてないの?」
「してない」
迷いのない返答だった。
ネイルは食べることが嫌いなわけではない。ただ、魔法の研究を始めれば、空腹を感じても、あと少しだけと考える。術式の一箇所を直せば、別の箇所が気になる。それを確かめるうちに、一日が過ぎる。
そうして何日も食べず、立ち上がったところで倒れたことが、過去に何度もあった。
三度目までは、パレードも笑っていた。
四度目には呆れ、五度目には本気で怒った。
それからネイルは、言われるままトレイルブロックをまとめて買い、パレードの異空間へ常備するようになった。
食事を忘れて倒れることはなくなった。
代わりに、普段の食事までこれで済ませるようになった。
(安いし、長持ちするからな)
(僕は気に入ってるよ)
(味ではなく、手間がかからないところをだろう)
否定できず、ネイルは黙ってもう一口齧った。
「まあ、何を食べるかは人それぞれですよ」
後ろから、セインの穏やかな声がした。
助け船かと思い、ネイルが振り返る。
セインは眼鏡を押し上げながら、ネイルの隣へ並んだ。
「それより、昨日の《水蛇》について聞いてもいいですか?」
「水蛇?」
「どうして、あれほど速く形を固定できたのですか。形を作ってから飛ばしたようには見えませんでした」
声は丁寧なままなのに、言葉だけが普段より速い。
「あ、セインの魔法スイッチが入った」
リリィが一歩下がった。
「こうなると止まらないから、ネイルちゃん、しばらく相手してあげて……」
「えっ」
セインはもう、ネイルの手元を見ていた。
仕方なく、ネイルは食べかけのトレイルブロックをポーチへ戻す。
空いた右手を上へ向けた。
掌の少し上に、細い水蛇が生まれた。
首を曲げた途端、胴が震え、幾つかの雫が街道へ落ちる。
「形を作ってから動かすと、曲がるたびに外から押さえ直すことになる」
もう一つ、水球を浮かべる。
今度は形を変えないまま、内側の水だけを巡らせた。流れが揃ったところで細く伸ばす。
二匹目の水蛇は一滴も零さず、ネイルの指へ巻きついた。
「先に流れを作る。形は、そのあと」
セインの視線が、蛇の頭から腹へ移る。
「だから、方向を変えても境界を組み直さなくていい」
「うん」
「では、蛇である必要は?」
「曲がりやすいから。味方を避ける時も、流れを切らずに済む」
そこからは、セインの方が問いを重ねた。
水の速度。形を保てる距離。雷を流した時に、どこから崩すのか。
ネイルも一つずつ答えた。
「昨日、完全詠唱を選んだのは、火力より範囲を固定するため?」
いつの間にか、ネイルの方から尋ねていた。
「両方です。ただ、昨日のように範囲を絞る時は、術式を最後まで固定する意味の方が大きいですね」
「じゃあ、最後の二節を短くしたら、固定したまま少し速く──」
「できます。ただし、属性の収束が追いつかない可能性が──」
二人の会話は、そのまま術式の組み方へ移っていった。
セインの問いは細かいが、嫌ではなかった。分からないところを曖昧にせず、面白いと思ったものへ真っ直ぐ近づいてくる。その気質が、少しだけ心地よかった。
「……ネイルちゃんが、こんなに喋ってる」
リリィが、ひどく珍しいものを見る顔で呟いた。
(同類を見つけたらしいな)
(少し、違うと思う)
(話し始めてから、もう十五分は経っているが?)
ネイルは水球を消し、何も聞かなかったことにした。
朝靄が薄れ始めた頃、ツバキが隣へ来た。
「ネイル。昨日の敵……どれくらい先から分かってた?」
短い問いだった。
ネイルはすぐに答えられなかった。
本当は、数キロ先から把握していた。
けれど、それをそのまま話せば、どうやって見つけたのかを説明しなければならない。
万理眼のことまで明かすつもりは、まだなかった。
「……少なくとも、百メートル以上先から」
「方法は?」
「精霊が、教えてくれることもあるから……」
まったくの嘘ではない。精霊へ周囲の様子を尋ねることもできる。
今も普通のエルフ程度に見えるよう、周囲の魔素へ揺らぎを作っている。それでも直接呼びかければ、精霊は大抵、必要以上に集まってきた。
一度部屋へ招けば、寝台にも戸棚にも居座り、髪を引いたり小物の場所を変えたりする。悪気がないからこそ帰ってもらいにくく、今では必要な時にしか頼まなくなった。
「……本当は、もっと先?」
ツバキは、やはりそこで止まらなかった。
ネイルはフードの奥から、短く視線を返す。
「全部は、言えない。でも……次は分かった時点で、方角と数を伝える」
「距離も」
「うん。分かる範囲で」
「それでいい」
ツバキは理由を求めなかった。
「方角、距離、数。確かなものだけでいい。分からないなら、分からないって言って」
「分かった」
昨日より、約束が少しだけ具体的になった。
それから三十分ほど進んだ時、ネイルは街道の先で、幻影術に歪められた魔素の流れを捉えた。
道は緩く右へ曲がっている。
木々に遮られ、肉眼ではまだ何も見えない。
ネイルは、前を歩くツバキへ声をかけた。
「ツバキ」
ツバキが即座に振り返る。
「右前方、九十メートルくらい。一体。周りの魔素が、幻影術みたいに歪んでる」
ツバキの目が僅かに見開かれる。
けれど何も問い返さず、すぐケンへ向き直った。
「ケン。右前、九十メートル。一体。幻影系」
「商隊を止める。ガルドは前へ。セイン、術式の準備。リリィは荷車から離れないで」
命令が、迷いなく飛ぶ。
ガルドは痛む右脇腹を庇いながらも、大盾を構えた。ケンも剣へ手をかける。
商隊が止まって間もなく、一本だったはずの街道が、木々の間で三つに分かれた。
左の道から、助けを呼ぶ声がする。
護衛兵の一人が反射的に顔を向けた。
「動かないで!」
ケンが制する。
「今まで、分かれ道はなかった。声も幻だ」
偽りの道の奥で、何かが枝葉を揺らした。
道と声の幻をこちらへ伸ばしながら、本体の反応も、木々の陰を縫って近づいてくる。
弱そうな者を隊列から引き離し、その隙に襲う。
幻惑獣ファントムイーター。
先に存在を知られてしまえば、その狩りは成り立たない。
「……三十メートルに入った。本体は、右の木の裏」
精密な索敵を広げたツバキが指差す。
セインの杖の周囲に、尖った石が集まった。
「大地の礫よ、槍となれ──《ロック・ランス》」
短く放たれた石槍が、木の脇に潜んでいた影の眼前へ突き刺さる。
人の腰ほどの黒い四足獣が、木陰から左へ飛び出した。
逃げ道に見えた場所へ、ガルドの盾が滑り込む。
鈍い衝突音。ファントムイーターの前脚が止まり、露わになった脇をケンの剣が薙いだ。
獣が草へ落ちるのと同時に、三つの道が一つへ折り重なる。助けを呼んでいた声も途切れた。
ネイルがしたのは、敵の位置を早く伝えることだけだった。
商隊の誰も幻影に誘われず、傷つくこともなかった。
「今の、よかった」
警戒を解かないまま、ツバキが言った。
「うん」
ネイルは小さく頷いた。
絡枝の森を抜けたのは、その日の昼前だった。
森の外にある野営地へ荷車が並び、商隊はようやくまとまった休息を取った。
リリィは朝の宣言を前倒しにして、ネイルの前へ温かなスープと焼いたパンを置いた。
「今日は、こっち」
「トレイルブロックの方が──」
「こっち」
「うん」
湯気の立つスープを一口飲む。
手間はかかるし、歩きながらは食べられない。
それでも、悪くはなかった。
その晩、焚き火の向こうでは、セインが朝の話を紙へ書き留めていた。傍らのスープには手をつけず、水蛇の曲がり方を指先でなぞっている。
「セイン、冷めるよ」
「この一行だけ、書いてしまいます」
ペンが止まらない。
ネイルは自分の椀へ目を落とした。セインの紙を見ているうちに、こちらも匙が止まっていた。
(どこかで聞いた返事だな)
(……僕も、先に食べるから)
ひと口飲んでから、ネイルはもう一度声をかけた。
「その曲がるところなら、覚えてるよ。食べたあとでも話せる」
セインが顔を上げる。
「では、あとで続きをお願いします」
「うん」
ようやくペンが置かれた。
ツバキは街道側を警戒し、ケンは胸の包帯をリリィに巻き直されている。ガルドは応急補修された鎧を抱え、アルフヘインでどんな防具を探すかを楽しそうに語っていた。
ネイルはその夜、いつもより遅くまで焚き火のそばに残っていた。
絡枝の森を抜けてからの四日間、商隊はアルフヘインへ続く街道を進んだ。
道中、危険な生き物と出会わなかったわけではない。
湿った木陰には、苔へ紛れるモススライムがいた。
街道へ飛び出してきたはぐれゴブリンは、ガルドが盾を鳴らして威嚇すると、荷へ触れる前に林の奥へ逃げていった。
けれど、四十を超えるパックファングと、一羽のガストレイヴンが同じ場所で獲物を狙うような事態は、それきり起きなかった。
小さな異常はネイルが早めに伝え、近づいた相手はツバキが確かめる。ケンが対応を決め、五人がそれぞれの役目を果たした。
商隊は大きな損害を出すことなく進んだ。
ケンの胸の傷は日ごとに塞がり、ガルドも右腕を動かすたびに顔をしかめることはなくなっていった。
ただし、鎧の裂け目だけは治らない。
「アルフヘインに着いたら、まず防具だ!」
ガルドは毎朝、同じことを言った。
その四日目の午後。
街道を挟んでいた木々が途切れ、視界が急に開けた。
遠くに、淡い緑の山が見えた。
そう思ったものが、風に揺れる。
一つの山に見えた緑は、重なり合った無数の葉だった。
幹は大地から雲へ伸び、その梢は白い雲の中へ消えている。
高さ千メートルにも及ぶと語られる神木、ユグドラシル。
その根元に、エルフたちの里がある。
アルフヘイン。
ネイルが今世で故郷として暮らし、かつて離れた場所。
依頼票の上で何度も見た名が、今は景色となって目の前にあった。
まだ遠い。
門も、家々も、神木の緑の下に隠れている。
それでも、もう見間違えることはなかった。
(帰ってきたな、主)
(……まだ、着いてないよ)
否定したはずなのに、ネイルの歩幅は、ほんの少しだけ速くなっていた。




