第12章 アルフヘイン
アルフヘインは、中立国である。
神木の根元に築かれた首都の名であり、その周囲に広がる国の名でもあった。古くから暮らすエルフたちは、今もそこを「里」と呼ぶ。
この里には、ユグドラシルが人々の飢えを救ったという言い伝えがある。
かつて大陸を干ばつが襲い、他国から届く穀物も途絶えた。備蓄が底をつきかけた頃、神木の枝に、季節外れの実がついたという。
熟した実が、里へ降り注いだ。幾日も、幾日も。人々は籠を抱えて根元へ集まり、拾った実を分け合って飢えをしのいだ。
神木が、里の声を聞いたのだ。
当時の人々はそう受け止め、その話を子や孫へ伝えた。
ユグドラシルには、意思があるのかもしれない。
飢えを救われたという記憶とともに、神木への信仰は深まり、今も里に息づいている。
アルフヘインは、大陸のどの国家にも与せず、種族を理由に来訪者を拒まない。門をくぐった者は、魔族であろうと獣人であろうと、同じ法に守られ、同じ法で裁かれる。
少なくとも、滞在を許されている間は。
誰でも客として迎える。
けれど、誰でも同じ家の住人になれるわけではない。
それが、エルフ領の掲げる平等だった。
この地では、魔力操作の澄明さが力以上の意味を持つ。乱れの少ない魔素とユグドラシルを通った水は、精霊や長命な調薬師たちの技術と結びつき、ほかでは代えの利かない薬や魔術具を生み出してきた。
その富と中立を守る公的な精鋭戦闘組織が、《王樹魔導衆》である。
統括長ハルラスは、ネイルがこの地を離れた頃から、すでに名を知られた魔法騎士だった。
澄んだ魔力の扱いを尊び、ハイエルフを王に戴く国。
そこへ今、本人だけは何事もなく門を通りたいと願う、一人のハイエルフが戻ろうとしていた。
◇
ユグドラシルを遠望した翌日の昼前。
神木は、遠くから眺めるものではなくなっていた。
枝葉の広がりは、端から端まで八百メートル近いという。昨日は一つの山に見えた緑が、今は幾重にも重なって頭上へ迫っている。根元から梢へ目をたどるだけで、首が反った。
さらに近づくと、幹の裾に連なる低い山々まで、土でも岩でもないと分かってきた。
深い溝を刻んだ樹皮が斜面を覆い、その上を道が横切っている。道を行く荷車は、根の頂へ差しかかるたび、向こう側へ隠れた。
一本の根を越えた先に、また一本。幹から遠ざかるにつれて低くなり、やがて地中へ潜っていく。その谷間に、アルフヘインの家並みが収まっていた。
(主。この樹の始まりを知っているのか?)
(どうだろう。きちんとは覚えてないけど……)
ネイルは、雲へ伸びる幹を見上げた。
(こんなに大きくは、なかった気がする)
(百年前の話か?)
(……いつだったかな)
ネイルはしばらく梢を眺め、それから街道へ目を戻した。
前方には、白い石柱が立っていた。
絡み合う葉と枝の紋章が刻まれ、その下に複数の言語で注意書きが並んでいる。
白い石柱を越える直前、護衛兵の視線がツバキの周囲へ広がる魔力を捉えた。
「探知は、ここまででお願いします」
「ツバキ」
ケンが呼ぶより早く、淡い揺らぎが消える。
護衛兵は一礼し、それ以上は何も言わなかった。
外から広げた魔力が領内の結界へ触れるのを、この国のエルフは昔から嫌う。境を越える前に内側を探ることは、客にも同胞にも許されない。
(変わってないな)
(懐かしそうだな、主)
(懐かしくはないよ……)
ネイルはユグドラシルを見上げたまま、そう返した。
領境を越えてから、街道の様子も少しずつ変わっていた。
反対側から、角を持つ魔族の商人が荷車を引いてくる。耳と尾を持つ獣人の一団が、その後ろを歩いていた。鱗の浮いた頬を布で覆う龍人も、守衛へ何かを尋ねている。
その誰も、種族を理由に止められてはいない。
街道沿いに魔獣の姿はなかった。結界と《樹都守衛》の巡回に守られ、敵意を持つ集団や大きな魔獣が、道へ公然と近づくことはほとんどない。
「……空気が違いますね」
セインが眼鏡を押し上げた。
「魔素は濃いのに、絡枝の森より静かです。引っかかるような乱れが少ない」
「エルフが、取り込んだ魔素を整えて戻すから」
ネイルが答えると、セインの目がすぐにこちらを向いた。
「体内で濾過している、ということですか?」
「少しだけね。ユグドラシルや精霊の影響もある。長く住む人が多いから、それも積み重なる」
「なるほど。だから調薬に向く」
「水もいいからね」
横で聞いていたガルドが、応急補修された鎧を叩いた。
「薬もいいが、付与防具だ! この鎧を直すか、もっと頑丈なのを買う!」
「まず値段を見てからにしてね」
ケンが穏やかに釘を刺す。
「いい品なら高くてもいいだろ!」
「帰りの食費まで使ったら、リリィに怒られるよ」
「もう怒ってるけど?」
リリィの声が重なり、ガルドは鎧の裂け目を押さえて黙った。
そのリリィが、今度はネイルの隣へ並ぶ。
「ネイルちゃんって、ここからコーネリアへ来たの?」
「うん」
「じゃあ、おいしいお店とか知ってる? 名物の料理とか、お菓子とか」
「百年前のお店が、まだあればね……」
リリィの足が、一歩だけ遅れた。
「……百年前」
「エルフだから」
「分かってるけど、数字で聞くとやっぱりびっくりするの」
すぐに追いつき、今度は少し声を落とした。
「久しぶりなんだね」
「そうだね。それに、たぶん面倒ごとが起きる」
「何が起きるの?」
「それが分からないから、面倒なんだよ」
リリィは何かを尋ねかけ、閉じた口をそのまま横へ曲げた。
「気になるけど、今は聞かない」
「うん」
「でも、困ったら私のところに来てね。ネイルちゃんが一人で何とかできることでも」
その言葉に、ネイルはすぐ返事ができなかった。
一人で何とかできるなら、一人でする。それが、ずっと当たり前だった。
ツバキには、危険を早く伝えると約束した。セインとは、魔法についてなら話せる。
けれど、用件さえうまく言えないまま、誰かのところへ行ったことがあっただろうか。
「……覚えておく」
「うん。それでいいよ」
リリィは、いつものように抱きつかなかった。
ただ、隣を歩いた。
◇
「そろそろ門に着く。通行証を準備して」
ケンの声に、全員が前を見る。
ケンはネイルへ声を落とした。
「ネイルさんは、出発前に確認したとおり、門で個別の本人確認になります」
「うん。分かってる」
「僕たちが先に通ることになっても、荷改め区画で待っています」
「ありがとう」
ユグドラシルの根元を囲むように、淡い灰色の城壁が伸びていた。
高さは十メートルほど。
壁の向こうから幾つもの枝が伸び、そのさらに奥には、ユグドラシルの幹が空を塞ぐように立っている。
大きく開いた門の上には、銀色の葉を囲う紋章が掲げられていた。
王家と《王樹魔導衆》の紋章。
記憶にあるものと、変わっていない。
門前には長い列ができていた。
人間の行商人も、獣人の旅人も、角を隠そうともしていない魔族も、荷や書類を持って同じ列で審査を待っている。
守衛は門の前だけでなく、城壁の上と列の左右にも配置されていた。
一人が旅人の荷へ視線を落とすと、城壁上の弓手が、その背後へ目を移した。
誰かが一人を追うたび、別の目が空いた場所を埋める。
人数が増えただけではなかった。
(増えたな)
(主が昔、何かしたからではないだろうな?)
(してないよ。たぶん)
(最後の一言で信用が消えたぞ)
列が進む。
前にいた獣人の旅人は、小さな金属板を差し出した。
魔道具に淡い光が灯り、そのまま門を通っていく。
次の人間は、証明書を持っていなかった。守衛に促され、衝立の奥へ消える。
布が揺れた一瞬、卓上の水晶が見えた。
五人には、商会が今回限りの入域証を用意している。ネイルの分がないのは、手配漏れではなかった。
商隊用の証を作るには実名の登録が必要で、モードンにも名が渡る。それを避けるなら、門で個別に顔貌と魔力の確認を受け、氏名を管理院の記録へ残す。
後者を選んだのは、ネイル自身だった。
けれど、衝立の奥に見えた水晶を思うと、指先が冷たくなる。
ネイルに魔力がないわけではない。今は普通のエルフに見えるよう、周囲の魔素へ意図的に揺らぎを作っている。
検査具は、何をどこまで測るのか。百年前と同じとは限らない。魔力操作によって生じる揺らぎの僅かな違いへ、アルフヘインほど敏感な国はなかった。
五人は商会の保証で門を通る。
ネイルは、自分の名をこの国の記録へ残す。
寄り道のつもりでも、記録には帰ってきた日が残るのだ。
「ネイルちゃん、寒いの?」
リリィが、小刻みに震えるネイルを覗き込んだ。
「違う」
「じゃあ、怖い?」
「少しだけ……」
リリィは門とネイルを見比べた。
何も聞かず、少しだけ距離を詰める。
列が、また一人分進んだ。
エルモンド商会の交易許可証と積荷目録が確認され、護衛兵と商人たちが順に門を通っていく。
ケンたちの入域証にも、一つずつ確認の光が灯った。
そして、ネイルの番になった。
「事前連絡にあった、商隊とは別に本人確認を受ける方は、あなたですか?」
「……はい」
「承知しました。では、こちらへ。顔貌確認と魔力検査を行います」
守衛は、列の脇に設けられた衝立を示した。
ネイルは促されるまま、衝立の向こうへ入った。
卓上には、透明な水晶が置かれている。
内部を、細い術式が幾重にも巡っていた。
ネイルがいた頃には、あんなものはなかった。
(……精度、上がってる)
(よかったな、主。故郷は順調に発展しているらしい)
(よくない)
守衛が水晶の隣へ立ち、丁寧な声で告げる。
「フードを外して、こちらへ手を置いてください」
ネイルは動かなかった。
相手は魔王でも、竜でもない。
ただの入国審査だった。
それなのに、故郷を前にしてから、一番逃げたくなった。




