第13章 帰還者
ネイルは、水晶へ手を伸ばさなかった。
代わりに、フードの縁へ指をかける。
深く被っていた布を、ゆっくりと後ろへ落とした。
外套の内側に収めていた、腰まで伸びる白い髪が、肩からさらりとこぼれる。
光を受けるたび、細い髪の一本一本が透けるように淡く輝いた。小さく整った顔と、髪の間から横へ長く伸びる耳も、衝立の内側に露わになる。
審査官の動きが止まった。
衝立の上で、小さな光が一つ揺れた。ネイルはそちらへ目を向けかけたが、黙ったままの審査官が気になり、すぐ視線を戻した。
「……」
ネイルも動けなかった。
卓上の水晶だけが、早く手を置けと言うように透明な光を巡らせている。
やがて審査官は一度瞬きをし、自分の仕事を思い出したように背筋を伸ばした。
「失礼しました。エルフの方でしたか」
「はい」
「それでしたら、来訪者向けの詳細な魔力検査は必要ありません」
「え?」
ネイルは水晶と審査官を交互に見る。
「手を置かなくても?」
「はい。少々お待ちください」
審査官は、ネイルの長い耳と、身体の周囲に生じている魔素の揺らぎを確かめるように目を細めた。
普通のエルフと変わらない、僅かな魔素の揺らぎ。
人前に出るたび崩さず維持してきた偽装は、審査官の前でも同じ形を保っている。
「種族確認にも問題ありません。帰郷者の簡易手続へ切り替えます」
その言葉を聞いた瞬間、ネイルの肩から力が抜けた。
(そっか。よく考えたら、エルフだもんね)
(つまらないな)
(何も起きない方がいいの)
水晶へ手を置く必要はなくなった。
あれほど怖がっていたのが、少しだけ恥ずかしくなる。
審査官は記録用紙を一枚取り出し、空欄へ筆を置いた。
「アルフヘインを離れて、どれくらいになりますか?」
「百年くらい」
(珍しく、そのまま答えたな)
(記録に残るなら、変にごまかさない方がいいから)
審査官は疑う様子もなく、その数字を書き込んだ。
「なるほど。でしたら、ご存じないのも無理はありません」
「制度が変わったの?」
「三十年ほど前に、ルーナ女王陛下が手続を改められました。帰郷する同胞に、域外の来訪者と同じ検査を課すのは不合理だと」
審査官は用紙の空欄を示した。
「エルフ種と確認できれば、詳細検査は省略できます。氏名と離郷期間、帰郷の目的だけは記録しますが」
「見た目だけでいいの?」
「耳や身体の特徴と、周囲の魔素に現れる揺らぎの性質を確認します。疑わしい場合は、追加検査へ戻しますよ」
「なるほど」
そこで審査官は、声を少しだけ落とした。
「もっとも、こうして毎回説明していると、本当に仕事が減ったのかは疑問ですが」
「大変なんだね」
「説明を聞いてくださる方ばかりでもありませんから」
遠い目になりかけた審査官は、すぐに咳払いをした。
「ともあれ、お帰りなさいませ。アルフヘインへ」
その一言に、ネイルは返事を忘れた。
依頼の目的地が、たまたま故郷だっただけだ。
そう考えていたはずなのに、帰郷を迎える言葉は、胸の奥へ思ったより深く沈んだ。
「……ただいま、でいいのかな」
「もちろんです。昔と制度は変わりましたが、道の大まかな位置はそう変わっていません。何かお困りでしたら、こちらへ」
審査官は、所属と窓口の場所を記した小さな連絡札を差し出した。
ネイルは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「では、帰郷記録に記載します。お名前を伺っても?」
「ネイル・エクセリア」
筆先が、紙の上で止まった。
先ほどよりも長い沈黙だった。
「……あの、冒険者の?」
「一応……」
審査官の目が、記録用紙の名前とネイルの顔を何度も往復する。
「お姿も種族も知られていませんでしたから、長命種ではないかという噂はありました。エルフか、龍人か、吸血鬼か……あるいは魔族か」
「色々、言われてるんだね」
「人間の国で長く依頼を受けていることから、エルフではないかという説は有力でしたが……本当に同族だったとは」
審査官の声が、次第に熱を帯びる。
「人間領で積み重ねられた功績は、アルフヘインにとっても無関係ではありません。王城へは、すぐ向かわれますか? 正式に報告されれば、王家から招かれても不思議では──」
「行きません!」
思ったより大きな声が出た。
ネイルは慌てて口元を押さえる。
「今回は、寄り道しただけだから。その……できれば、内密に」
「ですが、帰郷記録にはお名前が残ります」
「それは仕方ないけど、大事にはしないでほしい」
審査官は少し迷い、それから真面目に頷いた。
「一般への告知はいたしません。通常の帰郷記録として扱い、お忍びでの滞在をご希望である旨も付記しておきます」
「お願いします」
「承知しました。では改めて、アルフヘインでの滞在をお楽しみください」
ネイルは何度も頭を下げ、フードを深く被り直した。
衝立を出ると、《ブレイズ・フォーカス》の五人も、エルモンド商会の荷車も見当たらない。
門前での待機は守衛に止められ、ケンが言っていたとおり、門内の荷改め区画へ進んだらしい。
門をくぐった先には、旅人が装備を整えるための小さな仕切りが並んでいた。
ネイルはその一つへ入り、周囲の気配を確かめる。
誰にも見られていない隙に、パレードの異空間から灰緑色の外套を取り出した。いつもの黒い外套をしまい、代わりの外套を頭から被る。
(そこまでするのか?)
(名前を出しちゃったから。念のため)
(有名人は大変だな)
(他人事みたいに)
色を変えたところで、背に黒い杖を負った小柄な姿までは変わらない。それでも、何もしないよりはいい。
ネイルは灰緑色のフードを目深に被り、エルモンド商会の荷車を探して人波へ入った。
◇
二十分ほど後。
先ほどの審査官は、入域管理院の奥にある執務室を訪れていた。
「エルヴィン院長。入域の件で、ご相談が」
机の向こうで、丸眼鏡をかけた男が髪を掻き上げた。
机の上だけでは足りず、左右の棚にも書類が積まれている。そのどれも、倒れないことだけを最優先にしたような危うい角度で重なっていた。
「余計な仕事なら明日にしてくれ。もう二晩、まともに眠っていない」
「早急に確認したい案件です」
「この前通した魔族の商人か?」
エルヴィンは書類へ目を落としたまま言う。
「あれは規定どおりだ。交易許可証も身元保証も有効だった。上が面倒を嫌がったところで、種族だけを理由に拒むつもりはない」
「その件ではありません。エルフの帰郷者です」
「なら、簡易手続で通せばいいだろう。何年この仕事をしている」
「通しました。入域管理法に従い、帰郷記録も残しています」
「なら終わりだ。私は本当に忙しいんだ」
「ネイル・エクセリア様が入域されました」
筆の音が止んだ。
エルヴィンはゆっくりと顔を上げる。
「……いつだ?」
「二十分ほど前です」
「なぜ、すぐ知らせなかった」
「ですから、今すぐ来たのですが……」
「違う。入域の時点でだ」
「伺っておりません」
エルヴィンは立ち上がり、背後の書棚へ向かった。
幾つかの箱へ手を伸ばしかけ、一番上の棚に置かれた小さな金庫で動きを止める。首から下げていた鍵を差し込み、中から王家の印で封じられた薄い冊子を取り出した。
表紙には、『王命特別照会簿』と記されている。
「この名が載っている者の入域を確認した場合、王城へ至急報告することになっている」
開かれた頁を見て、審査官が眉を寄せた。
「初めて見ました」
「極秘指定だ。原簿を窓口へ回すことはできない」
「では、どうやって私たちが名前を確認するのですか?」
「該当する名前だけ、照合用の別紙にして渡す手筈だった」
「受け取っていません」
「……そうだろうな」
「なぜです?」
エルヴィンは視線を逸らした。
「この院ができてから、該当者は一人も来なかった。次の規則改定に合わせて運用を整えるつもりで……」
「忘れていたのですね」
「先送りにしていただけだ」
「今、同じ意味になりました」
エルヴィンは答えず、冊子へ目を戻した。
「他に何か言っていたか。滞在目的と、外見上の特徴は?」
「寄り道で、お忍びを希望すると。白く透き通るような長い髪で……まるで、ハイエルフの方のようでした」
「揺らぎは?」
「普通のエルフと変わらないように感じました。帰郷者の簡易手続に切り替えたため、水晶での測定はしていません」
エルヴィンの指が、冊子の端を強く押さえた。
机へ戻ると、紙を一枚引き寄せ、殴り書きに近い速さで指示を書き始める。
「王城へ至急報告。《王樹魔導衆》には、所在確認だけを要請する。囲むな、刺激するな、入域者としての権利を侵すな。お忍びの希望も必ず添えろ」
「王城へお連れしなくてよいのですか?」
「この照会簿は逮捕状ではない。王家が接触を希望しているだけだ」
「理由は?」
「私にも知らされていない」
エルヴィンは指示書に院長印を押し、審査官へ渡した。
「それから、見つけても大声で名前を呼ぶな。市中に噂が広がれば、お忍びも何もなくなる」
「承知しました」
審査官が執務室を駆け出していく。
扉が閉じた後、エルヴィンは机の書類と『王命特別照会簿』を見比べた。
「……今日も眠れそうにないな」
誰もいない部屋で、深いため息だけが落ちた。
◇
その頃、門内の広場を歩くネイルの背中を、冷たいものが走った。
審査官とエルヴィンのやり取りは、聞こえていない。
(僕はね。長く、長く生きてきた)
(知っている)
(だから、こういう嫌な予感は、結構当たるんだよ)
(よかったな。経験が役に立って)
(よくない)
ネイルは歩みを止め、周囲を見回す。
荷車、商人、旅人、巡回する守衛。
今のところ、自分を探しているような者はいない。
けれど胸の奥に生まれた落ち着かなさは、消えてくれなかった。
ネイルは小さく息を吐き、普段はほとんど使わない技能へ意識を向けた。
「《薄影》」
巡回していた守衛の視線が、ネイルの肩をかすめた。
一度は輪郭へ触れたはずの目が、そのまま隣の荷車へ滑っていく。
姿が消えたわけではない。
灰緑色の外套も、背中の黒い杖も、そこにある。
声を上げれば見つかる。誰かに触れられても、名を知る者に探されても隠れきれない。
それでも、行き交う人々の意識から外れるには十分だった。
ネイルは目立たない足取りで、エルモンド商会の荷車を探し始める。
その背後では、王城への報告と、《王樹魔導衆》による所在確認が、静かに始まろうとしていた。




