第14章 依頼の終わり
アルフヘインの入域管理院で働くのは、エルフだけではない。
書類を運ぶ小さな妖精もいれば、検査具の周囲を漂い、その日の魔素の乱れを職員へ教える精霊もいる。
もっとも、彼らが皆、人と同じように職務を理解しているわけではなかった。
衝立の上に腰かけていた小さな精霊も、その一体だった。
名は、フラウ。
仕事を手伝う日もあれば、一日中、窓から差し込む光を追っている日もある。
今日はたまたま、白い髪のエルフと審査官のやり取りを、最初から最後まで眺めていた。
「ネイル・エクセリアっていうんだ」
誰もいなくなった衝立の中で、フラウは楽しそうに笑う。
「きれいだったなあ。みんなにも教えよっと」
陽気な声だけを残し、その姿が風へ溶けるように消えた。
◇
門内広場を抜けた先に、荷改めを終えた商隊の待機区画があった。
灰緑色の外套をまとったネイルは、並んだ荷車の間を歩きながら、見覚えのある五人を探す。
やがて、エルモンド商会の紋章が入った箱馬車の前に、《ブレイズ・フォーカス》の姿を見つけた。
ケンとモードンが、向かい合って話している。
ネイルは、二台の荷車を隔てたところで足を止めた。
《薄影》は、まだ解いていない。
声をかければ、二人は気づく。
けれど、話がどこまで進んでいるのか、もう少しだけ聞いておきたかった。
(今、解けばいいだろう)
(……話の途中だから)
(盗み聞きの言い訳としては弱いな)
(契約が終わったのか、確認してるだけ)
モードンは護衛兵から受け取った革袋を、ケンの前へ置いた。
「実にご苦労でした。こちらが、契約どおりの報酬です」
ケンは袋の口を開き、中身を幾つかの束に分けながら数える。
「……金貨百二十枚。確かに受け取りました」
旅の費用を引いて六人で分けても、贅沢をしなければ一年以上は働かずに済む額だった。
(これだけあれば、しばらく遊べるね)
(金がなくても、主なら困らないだろう)
(そうなんだけど、働かなくていい理由があるのは大事だよ)
(普段から、さほど働いていないではないか)
(失礼だな)
モードンは確認が終わるのを待ち、胸元から細い香葉巻を取り出した。乾いた香草の葉へ火を移し、ひと息吸ってから口を開く。
「それで、帰りはどうします?」
「帰り、ですか」
「当商会がコーネリアへ戻るのは、およそ三か月後です。帰路も同じ六人で引き受けるなら、条件は今回と同じにしましょう」
危険な道と互いの動きを知る六人なら、商会にとっても都合がいいのだろう。
「僕だけでは決められません。仲間と話して、明日までにお返事してもよろしいでしょうか」
「構いません。ただし、こちらも予定を止めておくわけにはいかない。明日まで同じ話が残っているとは限りませんよ」
「承知しています」
モードンは満足したように頷き、香葉巻を片手に箱馬車へ戻っていった。
扉が閉まるのを見届けたケンは、受け取った革袋を抱えたまま、仲間たちへ振り返る。
「さて……どうしようか」
「俺は任せるぜ」
ガルドは即答した後、応急補修された鎧の右肩を指で叩いた。
「ただし、すぐ帰るのはなしだ。まず鎧を直す。ここなら、付与つきの上物もあるんだろ?」
「買い替える気になってるね」
リリィが呆れたように笑う。
「俺の命を守るんだぞ。出すところでは出す!」
「まだ報酬を配ってもいないんだけどな……」
「私は、どちらでもいい」
ツバキは街路樹の枝と建物の屋根を順に見上げた。
「でも、ここ……ずっと見られてる気がする」
「精霊か妖精だと思う」
ケンも同じ方向へ目を向ける。
葉が揺れているだけで、彼には何も見えていないらしい。
「僕も時々、気配だけは感じる。慣れるまでは落ち着かないかもしれないね」
「敵意は、ない」
「なら、少しずつ慣れるしかないかな」
ツバキは小さく頷いた。
「私は三か月いてもいいよ。ネイルちゃんと遊べるかもしれないし」
リリィの声が弾んだ。
「本人の予定を聞く前に決めないように」
「誘うだけならいいでしょ?」
その間も、セインは通りの向こうの魔術具店と調薬店を見比べていた。眼鏡の奥の目が妙に明るい。
「セイン?」
「僕は三か月滞在します」
「即答だね」
「理由は、魔法です」
「うん。聞く前から分かってた」
ケンは困ったように笑った。
「じゃあ、三か月はアルフヘインに滞在する。帰路の依頼は、同じ条件で受けられるなら引き受ける方向で、明日モードンさんへ返事をしよう」
四人から異論は出なかった。
「それで……ネイルさんは、どこへ行ったか知ってる?」
話題が自分に移り、荷車の向こうにいたネイルの肩が僅かに揺れた。
リリィは門の方角を振り返る。
「入域証がなくて、私たちとは別の場所へ案内されてたよ。そろそろ終わってると思うんだけど……」
「百年ぶりだと言っていたから、確認に時間がかかっているのかもしれないね」
ケンは報酬の袋を見下ろす。
「出てくるまで、ここで待とう。ネイルさんの取り分も渡さないと」
「そうだね」
五人は、ネイルが荷車の向こうにいるとは知らず、その場で待ち始めた。
今なら、《薄影》を解いて声をかければいい。
けれど、ついさっきまで会話を聞いていた事実まで、同時に伝わる気がした。
(出るなら今だぞ)
(分かってる)
(今ならまだ、偶然着いた顔ができる)
(そういうことを言われると、余計に出にくい)
迷った末、ネイルはさらに荷車の陰へ身を引いた。
近くの倉庫の壁際まで移動し、人目が途切れたところで《薄影》を解く。
それから、たった今ここへ着いたような足取りで五人へ近づいた。
「……お待たせ」
最初に振り返ったリリィが、すぐにネイルの顔を覗き込む。
「ネイルちゃん。どうしたの?」
「なにが?」
「声が、ちょっと疲れてる」
「分かるんだ」
「分かるよ。何かあった?」
ネイルは答えかけて、黙った。
いつもなら、大丈夫だと言って終わらせるところだった。
けれど、門へ着く少し前、リリィは困ったら来てほしいと言ってくれた。
それに、今はもう五人ともネイルを待っている。
「……探されるかもしれない」
「誰に?」
「まだ分からない。審査の人に名前を言ったら、知ってて……。大事にしないでって頼んだけど、仕事の報告までは止められないから」
「何か悪いことをしたの?」
「してないよ。たぶん、昔の依頼のことで」
「それを世間では伝説って言うんだよ、ネイルちゃん」
困りきった声で話すネイルを見て、リリィは堪えきれず小さく吹き出した。
「ご、ごめん。でも、故郷へ戻ったことが伝わったら、少しくらい騒ぎになるかも」
「少しくらいで終わるかな」
「終わらなかったら、私たちにも話して。今みたいに」
「うん」
短い返事だった。
「気にするな!」
ガルドが大きな声で笑う。
「悪いことをしてねぇなら、堂々としてりゃ終わりだ!」
「あんまり、目立ちたくなくて」
「やったことは評価されるべきだろ。ガハハ!」
「ガルド。声が大きい」
ツバキの短い注意で、ガルドは慌てて口を閉じた。
周囲の何人かがこちらを見たが、すぐに興味を失って歩き去っていく。
「話の途中ですみません」
ケンが革袋を手にして近づいた。
「先に、今回の精算を済ませてもいいですか」
「うん」
「報酬は一人二十枚。共同の薬や消耗品の費用が五枚です。残った品は、次の依頼用に共同管理します」
ケンは一度言葉を切る。
「ネイルさんは自分の食料も薬も持っていました。共同費の負担から外すこともできますが、どうしますか?」
「同じでいいよ。僕も、六人で守ったから」
「分かりました」
ケンは金貨十五枚の入った小袋と、商会の印が押された細長い紙を差し出した。
「こちらが取り分です。それから、依頼達成票」
依頼達成票をギルドへ提出すれば、今回の依頼が正式な達成記録になる。匿名で参加したネイルの票には、名前の代わりに受注番号が記されていた。
「ありがとう。確かに受け取った」
紙と小袋を腰のポーチへ入れる。薬瓶を包んだ布を指で押さえ、金貨の袋が直接当たらないように収めた。
「これで、僕たち《ブレイズ・フォーカス》と匿名の六人目が受けた依頼は完了です」
ケンが右手を差し出す。
「お疲れさまでした、ネイルさん」
ネイルはその手を見つめた。
五人と目的地まで歩けば終わりだと思っていた。今は、それきり別れる気にはなれなかった。
ネイルも手を伸ばす。
「……楽しかったよ」
「僕たちもです」
二人は短く握手を交わした。
「それで、この後なんですが」
ケンは少しだけ照れたように続ける。
「僕たちは三か月、アルフヘインに滞在することにしました。その後、条件が変わらなければ、エルモンド商会の帰路も護衛するつもりです」
「そうなんだ」
「ネイルさんは、どうします?」
「まだ、あんまり考えてない。でも、帰る時期が合ったら……また一緒に帰るよ」
ケンは柔らかく笑った。
「はい。何かあれば、《ブレイズ・フォーカス》を頼ってください。三か月いますから、食事くらいは一緒にしましょう」
「……いつでも平気だよ」
次に会う時は、依頼がなくてもいいらしい。
「じゃあネイルちゃん、今日はこのまま二人で──」
リリィがネイルの手を取ろうとした時だった。
人波の中から、揃いの濃緑色の外套をまとった三人が歩み出る。
全員が、細身の杖と剣を携えたエルフだった。
装具には、ユグドラシルの枝を囲む銀の紋章。
《王樹魔導衆》の印である。
三人は、道幅を塞がなかった。
二人は人波の縁に残り、一人だけが歩み出る。誰も腰の武器には触れていない。
ネイルの視線が、足元へ落ちる。
ネイルの退路を塞ごうとする者もいなかった。捕らえに来た者の立ち方ではない。
「ネイル・エクセリア様」
逃げる理由も、少なくとも表向きにはなかった。
それでも、ネイルの肩は強張った。
中央の男は一礼した。
「お迎えに上がりました」




