第7章 商隊と嫌な依頼主
夜が明けきる前に、ネイルは目を覚ました。
窓の外はまだ青暗い。街路を行き交う声はなく、遠くで荷車の車輪が回り始める音だけが聞こえた。
昨夜まとめたポーチを腰に留める。普段はない重みが、歩くたびに小さく揺れた。
黒い外套を羽織り、パレードを手に取る。
フードを深く被り、宿を出た。
朝の冷たい空気に触れると、残っていた眠気が少しだけ薄れる。
久しぶりのパーティー依頼。
少しずつ近づくアルフヘイン。
面倒になると分かっているのに、足取りは普段よりわずかに軽かった。
冒険者ギルド前には、すでに《ブレイズ・フォーカス》の五人が集まっていた。
ケンは集まった仲間の準備を確認していた。リリィが数え終えた回復薬を荷へ戻す横で、ガルドは旅装の留め具を締め直している。
昨日、卓を囲んでいた五人が、今は旅の荷を身につけている。
「ネイルちゃん、おはよう!」
最初に気づいたリリィが、大きく手を振りながら駆け寄ってきた。
「おはよう、リリィ」
「ほら、寝坊しなかったよ」
「うん。僕より早かったね」
リリィはネイルのすぐ隣へ並び、その場で足を止めた。
ケンも「おはようございます、ネイルさん」と声をかけた。
「忘れ物はありませんか?」
「多分、大丈夫。昨日のうちに用意したから」
リリィの目が、腰のポーチで止まる。
「それ、昨日はなかったよね」
「旅に出るから。薬も持ってきた」
「そっか。ありがとう」
何を持っているか聞かれると思っていたので、ネイルは少し返事に迷った。
「まだ、使ってないよ」
「使わないで済むのが一番だよ」
リリィはそう言って、ポーチからネイルの顔へ目を戻した。
フードを被っていても、昨日買った小さな物には気づかれる。ネイルは留め具が外れていないことを、指先で確かめた。
挨拶を交わすうちに、荷を積んだ商隊が街路の奥から姿を見せた。
御者たちの声と、路面を軋ませる車輪の音。旅装の商人たちに交じって、一人だけ上等な服を着た老人が歩いてくる。
小太りの身体。宝石付きの指輪を幾つもはめた手。周囲へ向ける視線には、品物の値を測るような冷たさがあった。
老人は《ブレイズ・フォーカス》の五人を順に見たあと、ネイルへ一瞬だけ目を向けた。
小柄な身体と、目深に被ったフード。腰のポーチ。
その視線はすぐに外れる。
どうやら護衛ではなく、荷物持ちか雑用係だと思われたらしい。
「この人は?」
「エルモンド商会の副会長、モードンさんです」
ケンの紹介を受け、モードンは形だけの笑みを浮かべた。
「よろしくお願いいたします」
口調だけなら丁寧だった。
モードンは話し始める前に、一台の荷車を振り返った。
「そこの覆い。端が上がっています」
荷を運んでいた男が足を止め、指された布を直す。
「途中で気づいてからでは遅い。出る前に確かめなさい」
男は短く返事をし、結び目まで手を伸ばした。
ネイルは、モードンが布の端から目を離すまで見ていた。荷については、見落とすつもりがないらしい。
同じ目が、再び護衛へ戻った。
「昨今は魔王軍の侵攻が激しく、本来ならAランク以上の冒険者に任せるはずの依頼でした。しかし、腕の立つ冒険者は王都や国境へ招集されている。そこで、やむを得ず君たちへ任せることになったのです」
護衛へ向けた言葉で、朝の空気が冷えた。
ケンの表情は崩れない。ただ、返事をするまでに、ごく短い間があった。
「今回の積荷は、アルフヘインとの取引に欠かせない重要な商材です。失敗は許されないと理解していただきたい」
「もちろんです。依頼を受けた以上、最後までお守りします」
「《ブレイズ・フォーカス》の名は聞いておりますよ」
モードンはそこで、わざとらしく息を吐いた。
「ですが、正直なところ期待はしていない。せいぜい励みたまえ」
リリィは笑顔を保っていたが、頬が僅かに引きつっている。
セインは眼鏡を押し上げ、その手で眉間を隠した。
ツバキの表情は変わらない。ただし、目だけが少し冷たくなった。
ガルドは隠そうともしなかった。
「モードンさんよぉ」
重い足音を鳴らし、一歩前へ出る。
「こっちはBランクだが、暇だから来たわけじゃねぇ。そんなに気に入らねえなら、今から別の連中を探してもいいんだぜ?」
「ガルド」
ケンは肩を掴まなかった。半歩だけ前へ出て、ガルドの視線を塞ぐ。
ガルドの踵には、まだ引き返せるだけの隙間が残っていた。
モードンは鼻を鳴らし、それ以上はガルドを見ず、今度は五人の背後へ探るような視線を向けた。
「もっとも、戦力については心配しておりません。我が商会でも、君たちとは別に一人、腕の立つ冒険者を雇っております。君たちは、その者を補佐していればよいのです」
(名乗れば、少しは静かになるのではないか?)
(やだよ。もっと面倒になる)
自分の名を使えば、その場ではモードンを黙らせられるかもしれない。
それでも、ネイルは口を挟まなかった。
「出発の準備は整っています」
ケンはモードンの言葉を受け流し、商隊の進行方向を確かめた。
「依頼内容に変更がなければ、予定どおり出ましょう」
「結構。遅れは許しませんよ」
モードンが荷車へ戻ると、ガルドはその背中に向けて息を吐いた。
「よく我慢できるな」
「もう依頼は受けているからね」
「だからって、あんな言い方があるかよ」
「気に入らなかったのは、僕も同じだよ」
ケンはそこで、声を少し落とした。
「でも、言い合っている間にも、ほかの人は待ってる」
ガルドが商隊を見た。御者が手綱を持ち、先ほど布を直した男も、出発の合図を待っている。
「……分かってる」
「うん。前は頼む」
「任せろ」
ガルドが盾を持ち直して先頭へ向かう。ケンはその背を押さず、自分も歩き出した。
ネイルは二人を見てから、セインのそばへ寄った。
「ケンって、怒らないわけじゃないんだね」
「怒る時は怒りますよ。ただ、ガルドと同じ怒り方はしません」
セインは荷の位置を直し、前を見た。
「行きましょう。置いていかれます」
「うん」
ようやく、商隊が動き出す。
護衛は昨日決めた配置についた。
ガルドが先頭に立ち、ケンとツバキがその脇を歩く。セインとリリィは荷車のそばへつき、ネイルもセインから離れなかった。
言葉だけだった作戦が、動く隊列になっていく。
ネイルはその動きに、自分の歩幅を合わせた。
歩き始めは、思っていたより遅かった。
自分の足なら、もう少し先へ進める。それでも荷車の車輪は、同じ速さで回っている。ネイルは先へ出かけた足を緩め、セインと並び直した。
「歩きにくくありませんか?」
「僕、速かった?」
「少しだけ」
「慣れるまで、教えてくれると助かる」
「分かりました。僕のほうが遅れる時も、あると思います」
「その時は、待つよ」
「ありがとうございます」
セインは驚かなかった。待つと答えただけで礼を言われると、ネイルのほうが少し落ち着かない。
荷車の速さは、変わらずゆっくりだった。
門の下を抜ける時、一度だけ振り返る。
昨日まで戻る場所だった街が、荷車の後ろにある。いつ帰るかは決めていない。
前へ目を戻すと、セインは同じ距離にいた。
ネイルは、その隣を歩いた。
コーネリアの門を抜け、街が背後に遠ざかり始めた頃、ケンがネイルの隣へ寄ってきた。
「一つ、伝えておきたいことがあります」
「なに?」
「モードンさんには、ネイルさんの名前を知らせていません。ギルドから、匿名での参加を希望していると聞いていましたので」
「そうなの?」
「はい。あの人は、匿名の参加者が誰なのかも分かっていません。ネイルさんのことは……たぶん、僕たちの荷物持ちだと思っています」
ケンは申し訳なさそうに眉を下げた。
ネイルは、むしろ安心していた。
「ありがとう」
「え?」
「名前、言わないでくれて」
「当然ですよ。本人が望んでいないことを、僕が勝手に話すわけにはいきません」
ケンはそう言ってから、少しだけ笑った。
「ただ、荷物持ちとして扱われるのが嫌になったら言ってください。訂正くらいはしますから」
「ありがとう。でも、今のままで大丈夫。僕は、そのほうが気楽だから」
「ネイルさんらしいですね」
彼は隊列の前へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ネイルはフードの縁へ指を添える。
あの場で名前を出せば、モードンの態度は変わったかもしれない。ケンにも、そのほうが楽だったはずだ。
それでも、言わないでいてくれた。
名を隠すことも、顔を隠すことも、これまでは一人で決め、一人で守ってきた。
誰かが事情を深く知らないまま、ネイルの希望だけを尊重してくれたのは、少し不思議だった。
(嬉しいのか?)
(……分からない)
(そうか)
珍しく、パレードは笑わなかった。




