第6章 旅立ちの前夜
その日の夕方、ネイルはいつもの宿へ向かっていた。
途中の道具屋で、足が止まった。
店先には、旅用の袋や革紐が吊られている。ネイルはその中から小さなポーチを一つ取り、裏返した。
縫い目はほつれていない。口も、片手で開けられる。
(何を入れるつもりだ?)
(薬とか)
(我の中にあるが)
(そうだけど。皆の前で、毎回そこから出すわけにはいかないでしょ)
ポーチを腰へ当ててみる。普段の外套に、見慣れない膨らみが一つ増えた。
「旅支度ですか」
店の奥から声をかけられ、ネイルは顔を上げた。
「うん。明日から」
「なら、詰めてから歩いてみるといいですよ。空だと気にならなくても、中身が入ると邪魔になることがありますから」
「邪魔にならないのは、どれ?」
「何を入れるか次第ですね」
もっともな答えだった。
ネイルは手にしたポーチを見た。一人で依頼へ行く時は、取り出す物をパレードから受け取ればよかった。走る時に袋が揺れるかどうかなど、考える必要がない。
「薬瓶。あと、少し食べ物」
「一緒に入れるなら、瓶は包んでおいたほうがいいでしょうね」
店主が、端切れを置いた箱を示した。
ネイルは柔らかい布を一枚選び、ポーチと一緒に台へ置いた。瓶を包める幅か確かめるために、両端を持って広げる。
「そんなに要りませんよ。小瓶なら」
「何本か持っていくから」
答えてから、何本にするか決めていないことに気づいた。
回復薬は、リリィも持ってくるだろう。けれど、自分が持たなくていい理由にはならない。
ネイルは布を減らさず、そのまま代金を払った。
店を出てから、パレードが笑う。
(普通の旅人らしくなってきたではないか)
(ポーチを買っただけだよ)
(空の袋に、ずいぶん悩んでいたが)
(いつも持たないから)
折り畳んだ布をポーチへ入れる。まだ軽いそれを手に提げ、ネイルは再び宿へ向かった。
仕事を終えた冒険者と、明日の荷を運ぶ商人たちが行き交っている。
露店を片づける音。酒場から早くも漏れる笑い声。宿へ急ぐ冒険者の肩が、すれ違いざまにネイルの外套を揺らす。
いつもと変わらないコーネリアの夕方だった。
それでも今日は、聞こえてくる声の一つ一つが、少しだけ近く感じられた。
明日の朝には、この街を出る。
いつもなら、依頼が終われば一人で戻ってくるだけだ。
今回は五人と商隊がいて、依頼を終えた後の道も決まっていない。片道だけの護衛であることを、遅れて実感する。
リリィは明日も同じ調子で話しかけてくるのだろうか。
ケンはまた丁寧すぎる言葉を使うのか。
考えたところで分からない。
分からない相手と過ごす翌日のことを考えるのは、ネイルにとって随分と久しぶりだった。
ネイルは人の流れを避けながら、いつもの宿へ戻った。
階段を上がり、自室の扉を閉める。
鍵を掛けたところで、ようやく肩から力が抜けた。
黒い杖を壁へ立てかけ、ベッドまで歩く。
そして外套も脱がないまま、うつ伏せに倒れ込んだ。
「疲れた」
戦ってはいない。
難しい魔法も使っていない。
長い距離を歩いたわけでもない。
依頼を受ける相手と話し、作戦を聞き、少し抱きしめられ、返事をしただけだ。
それなのに、身体の芯に重さが残っている。
(キヒヒッ。面白かったねぇ)
壁際のパレードから、楽しそうな声が精神に響いた。
(長く生きても、ああいう相手には弱いらしい)
(見てないで、助けてくれてもよかったじゃん)
(どうしろと? リリィの腕へ割り込めばよかったか?)
(もう、助けない)
(はいはい。冗談だ)
ネイルは枕へ顔を埋めた。
パレードはまだ笑っている。
(名前を言わなければ、もう少し楽だったかな)
(言うと決めたのは主だ)
(うん)
(後悔したか?)
ネイルは枕から少しだけ顔を浮かせた。
ケンの敬語には困った。リリィの近さにも困った。それでも、何と呼べばいいのかさえ分からないまま別れたかったわけではない。
(ネイルって、呼んでくれたから)
(そうだな)
(あれでよかったと思う)
言ってしまうと、またからかわれそうだった。けれどパレードは、今度はすぐに笑わなかった。
ネイルは寝台の上で身体を起こし、買ってきたポーチを手元へ引き寄せた。布の入った袋は軽く、膝に載せると底がくたりと折れた。
明日は、これを腰に提げる。今日とは少し違う姿で、同じ五人に会うのだ。
(それにしても、主が他人に役目を決められて、素直に頷くとはな)
(そんなに変だった?)
(いや。珍しいだけだ)
明日からは、五人の判断に合わせ、セインの前を守る。魔獣と戦うより難しそうなのに、断りたいとは思わなかった。
ネイルはポーチを脇へ置いて横になり、寝返りを打って天井へ目を向ける。
「目立たないようにしないと」
(できるといいねぇ)
「そう言う時のパレード、嫌い」
(百年ぶりの故郷なのだ。主を覚えている者もいるのではないか?)
「……だから、目立たないようにするんだよ」
そう答えても、アルフヘインという名を依頼票で見た時から続くざわめきは消えなかった。
懐かしいだけなのか。
帰りたいのか。
まだ答えは出ない。
ネイルはベッドから身体を起こした。眠る前に、明日の支度だけは済ませておかなければならない。
黒い杖へ手を伸ばし、パレードの異空間から必要な物を出していく。
その中に、鞘へ収めた片手剣があった。
常刃。
柄へ触れてから、ネイルはそれを脇へよけた。
(そちらは持たないのか?)
(皆には、魔法使いだって話したから)
(剣も使えると言えばよかろう)
(今から戻って言うの?)
(明日でもよい)
ネイルは少し考え、鞘ごとパレードへ返した。
(必要になったら、ちゃんと話すよ)
腰へ提げる物は、買ってきたポーチだけにする。
剣を入れたままのパレードは、特に惜しむでもなく黙っていた。ネイルもそれ以上説明せず、薬瓶を寝台へ並べた。
回復薬。
魔力回復薬。
傷口を洗うための薬液。
普段のネイルなら、どれも持っていかない。負傷することはほとんどなく、魔力回復薬も自分では使わない。荷物なら、パレードの異空間へ入れられる。
六人で旅に出るのに手ぶらでは不自然だ。そういうことにして、回復薬と薬液を小さなポーチへ収める。
口を閉じて持ち上げると、瓶が中で触れ合った。
小さな音に、ネイルは手を止めた。
先ほど店で言われたことを思い出し、もう一度中身を出す。布を瓶の周囲へ回し、隣の瓶と直接触れないように収め直した。
今度は音がしない。
(我の中なら、割れぬぞ)
(分かってる)
(取り出すのも早い)
(分かってるってば)
便利な相棒を持つと、普通の袋がひどく不便に思える。ネイルはポーチを腰へ当てたまま、部屋を数歩歩いた。
寝台の端で向きを変えると、袋も遅れて揺れる。
足には当たらない。袋の口へ手を伸ばせば、中の瓶に届く。
「これなら、いいかな」
(誰に聞いている?)
「僕に」
パレードが低く笑った。
お気に入りの保存食も詰めた。
ひと欠片を手元に残し、口へ運ぶ。旅先で食べるのと同じ物を、自分の寝台で噛んでいる。
見慣れた天井と、鍵を掛けた扉。明日の晩は、頭の上にこの天井も、背後にこの扉もない。
(眠れそうか?)
ネイルは指についた小さな欠片を拾い、口へ入れた。
(多分、大丈夫。今日は疲れたから)
(戦いもせずにな)
(それ、もう言わなくていいから)
笑い声を聞きながら、ネイルは布の端を折った。
(足りなければ、この中から出すのだろう?)
(見られないようにね)
(結局、使うのではないか)
ネイルは答えず、最後に残った魔力回復薬へ指を伸ばした。
(まだ入るのか?)
(一本くらいなら)
(主は使わぬだろう)
ネイルは余った布を広げ、瓶を包んだ。
理由を増やしたことには触れず、ポーチのいちばん奥へ収めた。
ネイルは口を閉じたポーチを枕元へ置いた。
普段はない重みが、手を離したあともそこに残った。




