第34章 追跡の先
「うーん……初めて見るものかも」
ネイルは布の上の金属片を傾けた。
表に刻まれた細い溝が、割れ口まで続いている。指先についた土を払い、裏側も確かめたが、見覚えのある道具には結びつかなかった。
「ネイルさんでも、分かりませんか」
「少なくとも、僕が使ったことのあるものじゃないね」
隣から覗き込んでいたアデルも、わずかに顔を寄せた。
「私も見たことはない」
「じゃあ、これはフィンの出番だね」
「ひとまず、お預かりします」
フィンが両手を差し出した。
ネイルは金属片へ目を落とす。そのまま、ほんの少しだけ眼へ魔力を送った。
何も感じられなかった金属の輪郭に、細い力の流れが重なる。
溝のあたりから、わずかに外へこぼれていた。精霊の力に似ている。
割れ口へ指を寄せても、こぼれる力の流れは変わらなかった。
(原理は分からないけど……何かを使っているね)
(どういう金属かは分からんのか?)
(それは知識の話だよ。視えたものが何か、僕が知らなければ分からない)
ネイルは金属片から指を離した。
(こういう道具には、そこまで詳しくないしね)
(まあ、仕方あるまい。今のことは伝えるのか?)
(うん。そうしよう)
眼へ送る魔力を抑え、布ごとフィンの手に載せる。
「触っていて気づいたんだけど、何か、力が漏れている気がする。精霊のものかもしれない」
フィンは受け取りかけた包みへ目を落とした。金属片を布の中央へ収め、顔を上げる。
「……となると、これは大事な手掛かりですね」
「ネイルは、そこまで分かるのか」
アデルがこちらを見ていた。
「ま、まあね。何もないように見えるけど、少しだけ」
ネイルは脇に抱えていた杖を持ち直し、ケンへ顔を向けた。
「これが割れた時、風は弱くなった?」
「いいえ。向きが変わって、相手にも吹きつけていました」
ケンは、土の剥き出しになった地面を振り返った。
「それまでは、こちらへ向かって吹いていたんです。でも、カインさんが蹴りを入れて、杖で輪を壊したあと、横からも後ろからも来るようになって……。相手も、あの木にぶつかっていました」
示された幹には、折れた枝が引っ掛かっていた。その下の土にも、何かが擦れた跡が残っている。
「……使っていた人も、止められなかったんだ」
「短剣を持ち上げて、制御しようとしていたようには見えました。でも、風は収まりませんでした」
ネイルはフィンの手元へ目を戻した。
輪が割れても、風は止まらなかった。その力を扱うために、この細い溝や金属が必要だったのだろうか。
「これは、早急に王都へ届けた方がよさそうですね」
フィンが布の端を折り重ねた。
「うん。それがいいと思う」
ネイルが頷くと、フィンは包みを持ってカインの方へ向かった。
「相手が逃げたのは、どちらですか」
カインが森の奥を示す。フィンはそちらを見てから、近くの地面へ目を落とした。
「それと、ネイルさん」
ケンに呼ばれ、ネイルは顔を戻した。
ケンの手には、門の前で渡した明星玉があった。指先でつまんだ玉を、少し離して持っている。
「これ、本当に助かりました。ただ、もう少し詳しく説明してほしかったです」
「すごく光るって、言ったよね?」
「目を閉じても眩しいとは、聞いていません」
「でも、アステラって結構便利だったんだよ……?」
「はい。便利なのは分かりました。今、使われていない理由も、身をもって分かった気がします」
リリィが口元を緩め、ケンの手にある玉を覗いた。
「ネイルちゃん。『すごーく光る』だけじゃ、あれは伝わらないよ」
「そうかな……」
ネイルは玉へ目を落とした。その向こうで、フィンがカインの指す地面へ屈み込んでいる。
ケンは小さく息を吐くと、明星玉を袋へ戻した。
「次に使う時は、もう少し離して持ちます」
「うん。その方がいいね」
「それも、先に聞きたかったです」
ネイルは返しかけた言葉を飲み込み、杖を両手で持った。隣で、リリィが小さく笑っている。
「ネイルさん。こっち、見てもらえますか」
少し離れたところから、フィンの声がした。
「ん?」
ネイルが近づくと、フィンはカインの示した方へ身体を向けた。
「相手は脇腹を押さえていたそうです。カインの蹴りが、かなり入ったようで」
カインも、枝が何本も折れ重なった方を指した。
「血も吐いていましたし……逃げたのは、この奥です」
フィンは枝の間へ目を配ってから、手にした包みを持ち上げる。
「これをカインとブレイズ・フォーカスの皆さんに届けてもらって、僕たちは追いませんか」
ネイルはフィンを見た。
「たぶん、ネイルさんなら、まだ追いつけるかと。アデルさんもいますし。逃げた先は僕が確かめますので、相手を見つけたら、お願いします」
「そうだね。行ってみよっか」
ネイルは隣へ来たアデルを見上げた。
「アデルも、それでいい?」
「ああ。まだ近くにいるかもしれない」
フィンがカインへ向き直り、包みを渡した。
「これはグリンさんへ。戦った時のことも、直接話してもらえると助かります」
「分かりました」
「僕たちも説明します」
ケンが二人のそばへ来た。
「見たことは、できるだけ伝えておきます。ネイルさんたちも、気をつけてください」
「うん。ケンたちも、帰るまで気をつけてね」
カインは包みをしまい、ケンたちと帰路を確かめ始めた。フィンも地図を開き、相手の消えた方角へ一度指を置く。
ネイルがそちらへ歩み寄ると、フィンは地図を畳んだ。
「こちらです。まず、あの倒れた枝を越えましょう」
フィンが先に進む。ネイルはリリィたちへ手を振ってから、その後を追った。
折れた枝の間を抜けると、足元に下草が戻ってきた。フィンは踏めるところを選びながら、次第に速度を上げていく。
ネイルも走り出した。すぐ横へ、アデルが並ぶ。
「ネイル。君はいいのか?」
「何が?」
「追う相手だ。まだ、どんな手を持っているか分からない」
ネイルは前を向いたまま、小さな根を跳び越えた。
「僕は平気だよ。今まで、たくさん痛い目にも遭ってきたしね」
アデルがこちらを見る。
「それを、平気と言っていいのか……?」
「うん。治せるしね」
アデルはネイルの顔を見たまま、しばらく何も言わなかった。足元の枝を踏み越えてから、前へ目を戻す。
「君の『平気』は、そのまま受け取らないことにしよう」
「そ、そうかな」
先を走るフィンが、低く張り出した枝をくぐった。ネイルも身を屈め、その後に続く。
下草の一部が倒れ、茎の折れた葉が垂れていた。フィンはそこを跨ぐと、木々の間へ進路を変えた。
「こっちです」
「足跡があるの?」
「それもあります。枝に掴まった跡があるので、たぶん、この辺りではかなりふらついていたんでしょうね」
フィンが示した細い枝は、途中から折れ曲がっていた。その下の土には、靴の先を引きずったような跡が続いている。
フィンは足元だけでなく、腰の高さにある枝にも目を配っている。
跡の続く方へ抜けると、木々の間隔が少し広がった。
フィンが速度を上げる。追うネイルたちの足も速くなり、踏まれた草が次々と後ろへ流れていった。
その先で、フィンが片手を上げた。
ネイルは足を緩める。フィンが屈んだそばの葉に、赤黒いものが付いていた。
「血ですね」
フィンは葉に触れず、その下の地面を指した。湿った土の上にも、小さな滴が落ちている。
「こちらへ続いています」
ネイルが顔を上げると、少し先の葉にも同じ色が見えた。フィンは最初の跡を踏まないように立ち上がり、幹の向こうへ回る。
三人が再び進み始めた時、木々の奥から声がした。
言葉までは、まだ聞き取れない。
フィンの足が止まった。ネイルも歩幅を縮め、足を下ろす先の小枝を避ける。すぐ横にいたアデルが、静かに幹の陰へ寄った。
フィンが振り返り、声のする方を指した。
ネイルは頷き、杖を身体へ寄せる。
そこからは、足元を確かめながら近づいた。フィンが茂みの切れ目で身を低くし、ネイルも隣へ屈む。アデルは少し後ろの幹に身を隠した。
枝の間から、二人の男が見えた。
一人は木に手をつき、深く身体を曲げている。灰色の外套が土で汚れ、もう片方の手は脇腹を押さえていた。
「おい、めちゃくちゃ怪我してるじゃん」
声をかけたのは、その前に立つ男だった。
相手の顔を覗き込んだ拍子に、外套のフードが少しずれる。長く尖った耳が見えた。
エルフだろうか。
「一対六だぞ……。それに、魔導衆までいた」
負傷した男は顔を上げ、息を継いだ。口元にこびりついた血を袖で拭う。
「くそっ」
木を支えていた手を握り、幹へ叩きつけた。
鈍い音がして、男の肩が縮こまる。すぐに脇腹を押さえ直し、歯の間から息を漏らした。
「……ああ、もう。じっとしてろって」
耳の長い男が腰の袋を開いた。中を探りながら、相手へ目を向ける。
「んで、精霊の力は採れた?」
「今日は空振りだ。瓶は一度も閉じなかった」
「餌の石は替えたんだろうな」
「言われたとおりにしたよ」
ネイルはフィンを見た。フィンもこちらへ顔を向けていたが、すぐに茂みの向こうへ視線を戻した。
「そうか。……これでも飲んでおけ」
男が袋から小瓶を取り出し、軽く投げた。
負傷した男は脇腹を押さえたまま、空いている手で受け取る。瓶の中で液体が揺れた。
「助かる」
男は脇腹から手を離しかけ、顔をしかめた。小瓶を相手へ差し出すと、耳の長い男が栓を引き抜いてやる。
男は瓶を口へ運んだ。途中で一度咳き込みながらも飲み干すと、木へ背を預ける。
浅く途切れていた呼吸が、次第に落ち着いていった。男が外套の下の服を持ち上げると、赤黒く腫れた脇腹が覗く。その腫れが、少しずつ引いていく。
回復薬らしい。
耳の長い男が屈み、傷のあたりを確かめた。軽く指を添えると、負傷した男が身をよじる。
「触るな。まだ痛い」
「さっきより、喋れるようになったな」
男は返事の代わりに息を吐き、服を下ろした。
ネイルの少し後ろで、アデルが顔の向きを変えた。男たちのいる場所から、さらに奥の木々へ目を配っている。
「歩けるか?」
「……ああ」
男は空瓶をしまい、幹に手をついた。
ゆっくり身体を起こす。途中で顔をしかめたものの、幹を支えに背を伸ばした。
差し出された仲間の腕を掴み、木から一歩離れた。
フィンが、ネイルへ目を向けた。
ネイルは小さく頷く。フィンは後ろのアデルにも目を送り、その頷きを確かめてから立ち上がった。
「そこで止まりなよ」
茂みを抜け、男たちの前へ出る。
二人が振り向いた。負傷した男の足が止まり、耳の長い男は、フィンの深緑の上衣へ目を落とした。
「おいおい、つけられてるじゃん」
「撒いたと思ったんだけどな。さすがに魔導衆か」
負傷した男が舌打ちをした。
ネイルも茂みから出て、フィンの隣へ並ぶ。反対側では、アデルが幹の陰から姿を現した。
耳の長い男の視線が、白い鎧で止まった。
「……悪い、ラザン。お前はここで捕まってくれ。白壁までいるとは聞いてねーよ」
ラザンと呼ばれた男は、掴んでいた腕を離した。脇腹へ手を戻しながら、口の端を上げる。
「逃げ切ったら、飯くらい奢れよ」
フィンが二人へ近づく。耳の長い男はそちらを見て、肩をすくめた。
「手の内も、そんなには出せんからな。じゃあな」
その姿が、ふっと消えた。
フィンの足が止まる。
つい先ほどまでラザンを支えていた腕も、外套も、そこにはなかった。ネイルは杖を持ち直し、男の立っていた場所へ目を向けた。
「分身か何か……?」
「だろうな。実体まであるとは、厄介だ」
アデルは短く答え、残った男へ向き直った。
ラザンは三人を見比べていた。ネイルに一度目を留め、隣のアデルを見上げる。
「魔導衆に、女が二人……。白い方はルミナスのアデルかよ。ついてねーな、ほんと」
ラザンは外套を払った。輪の砕けた短剣を腰に残し、その隣の杖を抜いてアデルへ向ける。
ネイルも杖を握り直し、ラザンへ身体を向けた。
ラザンは脇腹から手を離し、片足を引いた。顔がわずかに歪んだが、杖の先はアデルへ向いたままだった。
口元だけで笑い、わざとらしく声を改める。
「……少し、抗ってみますか」
「その傷で、まだやるのか」
「最後まで戦って、逃げてみますよ」
アデルはラザンの構えた杖へ目を向けた。
「そうか」
腰の剣に手を掛け、静かに抜いた。




