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第32章 風の行方

 薬草の群生地を過ぎたところで、ネイルは森の南へ進路を取った。昨日、猪を引き離すために駆け込んだ方角だ。


 そこから、昨日と同じくらいの速さで二十分ほど。


 木々の並びに見覚えがあって、ネイルは足を緩めた。幹の間から覗く地面を確かめ、昨日、猪を振り返った辺りで立ち止まる。


「この辺りだよ」


 後ろを振り返ると、フィンが膝に両手をついていた。


「ネイルさん……ここまで、走ったんですか……」


「うん。しかも、追われながら」


 フィンが顔を上げかけ、また下を向く。言葉の代わりに、長い息が漏れた。


「あの……速すぎますって……」


「そうかな……?」


「返事するのも、ちょっと待ってください……」


 ネイルは隣のアデルを見た。


「……私でも、少し堪えた」


 アデルの肩も、呼吸に合わせて上下していた。ただ、フィンのように膝へ手をつくほどではない。顔を上げたまま、ゆっくり息を吐いている。


「鎧を着てるのに……」


 フィンが横目でアデルを見て、首を振った。


「いや、比べるのはやめます……」


(やはり、主の基準はよくないな)


(うーん……)


 ネイルは二人を見比べた。


「少し休んでて。僕は、その辺りを見てくるよ」


 フィンはまだ顔を下げたまま、片手を上げた。


 ネイルは杖を手に、木々の間へ歩いていった。


 昨日、風の精霊が近づいてきた辺りで足を止める。姿を見送った方へ向き直り、下草の向こうや枝の間にも目を配った。


 頬に風が触れた。


 そちらを向いても、昨日の小さな姿は見えない。


 少し歩いてから、もう一度、後ろを振り返る。フィンはようやく身体を起こしていた。アデルがそばで何か声をかけている。


(……使おうか)


(それが早い)


 ネイルは木々へ視線を戻し、そっと眼に魔力を込めた。


 瞳に淡い青が灯る。その光が、縁からわずかにこぼれた。


 先ほど歩いて確かめた辺りから、さらに森の奥へと視線を移していく。


(この周辺には、いないみたいだね)


(そのようだな)


 ネイルは眼へ送る魔力を抑えた。淡い光が薄れ、瞳がいつもの色へ戻っていく。


「ネイル。何か見つけたか?」


 アデルが近づいてきた。その後ろから、地図を開いたフィンも歩いてくる。


「うーん。この辺りには、もういないみたい」


「そう思う理由を聞いても?」


「単純に、見えないからね」


 ネイルが森へ目を向けると、アデルも同じ方を見た。


「そうか。私には精霊の姿が見えない。そこは、君に頼ることになるな」


「見つけられるといいんだけど」


 フィンが地図と辺りの様子を見比べながら、二人の横へ並んだ。まだ呼吸は少し深かったが、話すたびに途切れることはなくなっていた。


「何か、残った痕跡でもありませんかね……」


「精霊が通った場所が、大まかに分かるくらいだな。冒険者として見ても、それ以上は……」


 アデルは辺りを見渡し、少し離れた地面へ目を留めた。


「むしろ、こちらの方が分かりやすい」


 ネイルもその視線を追った。


 土が盛り上がり、その先には、何かが吹き飛ばされたような跡が残っている。


「これは、君がやったのだろう?」


「……よく分かるね」


「昨日、ここで戦ったと言っていただろう」


 アデルは土の盛り上がりを避けて歩き、跡の続く先を眺めた。


 フィンも近づき、地図を持った手を下ろす。地面からネイルへ、ゆっくりと目を戻した。


「……どう戦ったら、地形が変わるんです?」


「カウンター、かな……?」


「猪にですか?」


「うん。向こうから来てくれたから」


 フィンはもう一度、地面を見た。


 ネイルは少し首を傾げる。


「フィンも、できるようになるよ」


「教えてください」


 今度は、すぐに返事が来た。


「……今?」


「後でいいので。ぜひ」


 地面を確かめていたアデルまでこちらを向いたので、ネイルは小さく笑った。


「それじゃあ、先にこちらをお願いします」


 フィンは地図を折り返し、余白を手前にした。懐から筆を出す。


「精霊を見かけたのは、猪を倒したあとで間違いないですか?」


「うん。こっちに来て」


 ネイルは戦闘の跡から少し離れたところへ歩いた。振り返ると、盛り上がった土が幹の間に見える。


 昨日も、あの跡を背にしていた。


「僕はこの辺りに立ってた。風を感じて、あっちを向いたんだ」


 杖を持っていない方の手で、木々の間を示す。


「精霊が来たのは、そちらからですね」


「うん。すぐ横まで来たけど、そのまま通り過ぎていったよ」


 フィンがネイルの横へ立ち、示された方角を確かめた。地図の上に小さな印を付け、短く書き込んでいく。


「見えなくなったのは?」


「あの奥。木に隠れて、その先は見てない」


「分かりました」


 フィンは矢印を一本引き、その先で筆を止めた。


 書き終わるのを待って、アデルが二人から少し離れた。


「周りは私が見る。二人は続けてくれ」


「お願いします。僕は向こうを回って、近くに何か残っていないか確かめます」


「僕も、精霊を探しながら行くよ」


 フィンが頷き、地図をしまった。


 木々を回り、下草をかき分ける。足を止めて地面を調べていたフィンは、やがて顔を上げた。


「ネイルさん。この辺りにも来ました?」


「そこは、猪から逃げてた時に通ったかもしれない」


「なるほど……。では、これだけでは判断できませんね」


 フィンはしゃがんだまま、周囲にも目を配った。ネイルも隣から覗いてみたが、踏まれた草の先には、昨日の自分の通り道が重なった。


 フィンが立ち上がると、少し先で待っていたアデルも歩き出す。


 立ち止まっている二人の間へ入ることなく、木々の奥を見渡せるところを選んでいた。ネイルが前へ出れば、その後ろへ。フィンが屈めば、そちらへも目が届く位置へ移る。


 しばらくして、三人は精霊を見送った辺りへ戻ってきた。


 フィンが地図へ書き込む。最初の印を囲むように、細い線が加わった。


「もう少し先まで行ってみますか。近くにいなくても、移動しただけかもしれませんし」


「そうだね」


 ネイルは、昨日の精霊が消えていった木々の間へ目を向けた。


 風が葉を揺らす。今度も、その中に姿は見えなかった。


「普段なら、探す前に向こうから来るんだけどな」


 何気なくこぼすと、アデルが顔を向けた。


「呼ばなくてもか?」


「うん。髪を引っ張ってくるんだ。振り向くと、すぐそこにいてね」


 ネイルは耳の脇へ手をやり、髪を一房つまんだ。


「それで、手を伸ばすと逃げる。もう行ったのかと思うと、また後ろから引っ張るんだよ」


「なかなか忙しそうだな」


「こっちが急いでる時にもやるから、困るんだよね」


 話しているうちに、指先の髪がするりと抜けた。ネイルはそれを耳へ掛け直す。


「それも、書いておきます」


 フィンが筆を動かした。


「……いたずらのことも?」


「いつもと何が違うのか、分かる方がいいので。普段は向こうから寄ってくるのに、昨日は反応がなかったんですよね」


「うん。近くまで来たから、また何かされるのかと思ってた」


 ネイルは下ろしかけた手で、もう一度、髪の先に触れた。


 昨日は何もされなかった。視線も向けず、通り過ぎていった。


 フィンが書き終え、紙の上の文字を確かめる。その傍らで、アデルも森へ目を向けていた。


「君の話を聞いていると、私も少し見てみたくなる」


「精霊?」


「ああ。姿が見えなければ、髪が動いても風だと思ってしまうだろうからな」


「会えたら教えるよ。すぐそばに来てても、アデルには分からないかもしれないし」


「頼む。気づかずに通り過ぎるのは、少し惜しい」


 ネイルは頷いた。


 フィンが地図を畳み、先ほど確かめた木々へ顔を向ける。


「では、ここから先を見ていきましょう。ネイルさん、昨日見送った方角を教えてください」


「あっち。そこを抜けたところまでは、見えてたよ」


「分かりました。僕が先に足元を見ますので、周りをお願いします」


 ネイルはフィンの示す順路へ目を向けた。アデルが一度後ろを確かめてから、二人に続く。


 ◇


 ブレイズ・フォーカスに割り当てられた区域でも、精霊の姿はなかなか見つからなかった。


 ケンは、先を進むツバキとの間隔を確かめた。すぐ後ろではガルドが枝を避け、リリィとセイン、魔導衆のカインが続いている。


「この辺りで合っていますか?」


「はい。もう少し先まで確認してから、向きを変えましょう」


 カインが地図を畳んだ。


 ケンは頷き、足元の根を越えた。腰の荷物が揺れ、しまっておいた明星玉(アステラ)の位置を手で確かめる。


 何も起こらなければ、それでいい。渡された玉も、使わずに済む。


 前を歩いていたツバキが、片手を上げた。


 ケンは足を止める。後ろの足音も順に途切れた。


「人がいる」


 ツバキが声を落とした。


 示された先には、倒れた木が一本あった。その向こうで、灰色の外套を着た人物が屈んでいる。頭には深く布を被り、顔は見えない。


 こちらに気づいたのか、その人物はゆっくりと立ち上がった。手元にあった袋を閉じ、腰へ寄せる。


「ほかの調査班か?」


 ガルドの問いに、カインが首を傾げた。


「この区域を担当するのは、私たちだけのはずですが……」


 ケンはツバキへ目を向けた。彼女は人影から目を離さず、少し横へ位置を変える。


「こんにちは。少し、お話を伺ってもいいですか」


 ケンが声をかけると、外套の人物は顔を上げた。


 布の陰から、口元だけが覗いている。返事はなかった。


「僕たちは、この辺りの精霊について調べています。何か見かけませんでしたか?」


 相手はケンを見たあと、その後ろへ視線を動かした。


 ガルド、セイン、リリィ。その間にいるカインで、顔の向きが止まる。


「こちらで何をされていたのでしょうか」


 カインが前へ出かけた。


 相手の腕が動いた。その手から、短い刃が飛ぶ。


「下がれ!」


 ガルドの声と、鋭い金属音が重なる。


 ケンの横へ差し出された大盾に、短い刃が当たっていた。弾かれた刃が地面へ落ち、草の間に沈む。


 カインが足を止めた。リリィがその腕を引き、ガルドの背後へ下がらせる。


 ケンは剣を抜いた。


「ツバキ、左を!」


「分かった」


 ツバキが木々の間へ動く。ケンはガルドの右から前へ出た。


 外套の人物は、すでに倒木から離れていた。二人の動きを見比べ、背後の木々へ足を向ける。


「セイン!」


「準備します」


 セインが杖を上げた。


「天を駆ける雷霆よ、我が声に応えよ。黒雲を裂き、蒼き閃光となりて──」


 ガルドが盾を構えたまま間合いを詰める。


 相手はさらに後退した。左にはツバキがいる。ケンも木の陰へ回り込ませないよう、剣を構えて進んだ。


 二本の幹の間で、灰色の外套が一度止まる。


 セインから、相手までの間に味方はいない。


 ケンは踏み込む足を止め、剣を握った右手をわずかに上げた。


 相手が腰の細長い布包みに手を掛ける。そこから、細身の短剣を引き出した。


「それ以上、動かない方がいい。六対一だよ」


 ケンは剣越しに相手を見据えた。


 返事はない。布の陰に隠れた顔が、ケンからセインへ向いた。


 手元の動きも止まらなかった。


 ケンは上げていた右手を下ろし、セインへ合図を送った。


「眼前の敵を撃ち貫け──〈サンダーボルト〉!」


 蒼白い雷が落ちた。


 外套の人物は、逃げなかった。短剣を、胸の前へ傾けただけだった。


 その指の間で、刃の根元を囲む金属の輪が淡く光った。


 ケンには、雷が相手を貫くように見えた。


 けれど、触れる寸前で光の筋が曲がった。


 肩の脇を通り、外套をかすめもせず、足元の土へ流れていく。


 乾いた音とともに土が弾けた。


 相手は、まだ同じ場所に立っていた。裾の近くに、黒く焦げた土が残っている。


「……どういうことだ?」


 ケンは剣を構え直した。相手から目を離さず、背後のセインへ問いかける。


「狙いは外していません。きちんと制御して撃ちました」


 セインの声にも、戸惑いが混じっていた。


 その言葉が終わる頃には、相手が短剣をこちらへ向けていた。


 白い光が膨らむ。


「来るぞ!」


 ガルドが大盾を正面へ据えた。後ろにいるセインたちを隠すように、足を踏ん張る。


 リリィはすでに杖を向けていた。淡い防御の光が、盾の表面に重なる。


 相手の手元から、雷が走った。


 ケンの目の前で、大盾の正面が白く染まる。


 受け止めた。


 そう思った直後、盾の横へ細い光が伸びた。


 雷が、防御の光に沿うように大盾の縁を走っている。上へ、横へ。正面を覆っていた光の筋が、盾の裏側へ折れた。


 横にいるケンからは、その先にガルドの腕が見えた。


「ガルド、離せ!」


 ガルドが大盾を前へ押し出し、握りを放した。


 雷が内側へ回り込む。引き抜いた腕のあった場所を掠め、盾の裏を白く照らした。


 ガルドは一歩退いた。手を離れた大盾が地面に倒れ、土を削る。


「なんだ、今の……!」


 ケンも答えられなかった。


 セインの雷は相手を避け、向こうの雷は盾の内側へ入り込んだ。


 地面に倒れた盾から、細い光が散る。その向こうで、外套の人物はこちらを見ていた。


 ケンは剣を構えたまま、左手を腰へ回した。


 指先に、小さな玉が触れる。


 魔法を使うより早い。門の前で、ネイルはそう言っていた。


「みんな、目を閉じて!」


 ケンは明星玉を取り出すと、相手へ向けて左手を突き出した。


 魔力を込める。


 指の隙間から、白い光が溢れた。

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