第29章 呼びかけの先に
(精霊の件って……やっぱり、昨日見た子かな)
(だろうな)
ネイルは寝台の脇に置いていた《常刃》を腰へ戻し、外套を羽織った。
昨日、ギルドで見た依頼書。四隅を黒い留め具で押さえられた、あの一枚を思い出す。
精霊の意思応答停止。
森で見かけた風の精霊は、ネイルのすぐ横を通り過ぎていった。こちらの魔力には目もくれず、木々の奥へ流れていく姿が、まだ頭に残っている。
あの依頼はA等級だった。Bランクのネイルが、自由に受けられるものではない。
そもそも、こうした要請を避けたくて、Bランクに留まっていたはずなのだけれど。
故郷のことだから、気になるのだろうか。
外套の留め具を掛けながら考えてみたものの、それだけなのかは、よく分からなかった。
◇
「精霊が呼びかけに応じなくなっている件は、すでにご存じでしょうか」
宿の階段を下りながら、グリンが尋ねた。
「昨日、ギルドで見たよ。A等級の依頼、あれだけだったから」
「でしたら、お話が早いですね。城へ着くまでに、これまでの経緯をお伝えいたします」
宿の前には、岩角牛に引かせる箱型の客車が待っていた。窓には薄いカーテンが掛かり、扉の金具には控えめな装飾が施されている。
グリンが扉を開け、ネイルを先に乗せる。向かいの席へ彼が腰を下ろすと、ほどなく車輪が石畳を転がり始めた。
「グリン。僕も昨日、森で、様子の変な精霊を見たんだ」
説明を始めかけたグリンが、顔を上げた。
「風の精霊だった。呼びかけて確かめたわけじゃないけど、あの依頼と関係があるかもしれない」
「その時のことを、お聞かせいただけますか」
「昨日、C等級の討伐依頼を受けたんだ。鎧牙猪の」
「……『簡単なのを一つだけ』と伺っていたのですが」
「Bより、一つ下だよ?」
「一昨日、腕を折られたばかりで、昨日は魔獣の討伐ですか……」
「あっ……」
ネイルは口を閉じた。グリンの視線が、ネイルの腕へ落ちる。
「ルーナさんには、言わないで……」
「……ひとまず、聞かなかったことにいたします」
ネイルは小さく頷き、話を戻した。
「それで、猪を倒したあとに、風の精霊が近づいてきてね」
魔力を帯びた風を感じたこと。精霊はすぐ横まで来たのに、ネイルに構わず通り過ぎていったこと。
木々の奥へ、その姿が見えなくなるまで見送ったことを話した。
「いつもなら、こっちに寄ってくるんだけど。その子は、全然」
「ネイル様の魔力にも、反応しなかったのですか」
「うん。風は起こしていたよ。だから、魔力がなくなっている感じでもなかった」
グリンは最後まで聞いてから、頷いた。
「伺った特徴は、これまでの調査報告と一致しますね」
「でしょ」
ネイルは、膝の上の杖へ目を落とした。
「いつもは、髪を引っ張られたりして困るんだけどね」
「ええ」
「昨日は、こっちを見てほしかったな」
少しして、ネイルはグリンへ視線を戻した。
「ほかの子たちも、同じなの?」
「はい。異変が報告された精霊は、いずれも呼びかけに応じません」
グリンは、改めて経緯を話し始めた。
「最初に気づいたのは、この国を訪れる精霊が減っていることでした。ここ数か月、以前は姿を見せていた精霊が、来なくなっていたのです」
「里にいる子たちは?」
「今のところ、里に留まっている精霊に異変は確認されていません。ですが、森へ戻った精霊が、そのまま帰ってこなくなる例が続きました。捜索に向かった者たちが、そこで、呼びかけても応えない精霊を発見したのです」
四十七。応答は、零。
依頼書に並んでいた数字を思い出す。
昨日の精霊も、風をまとっていた。木の葉を揺らし、ネイルの髪を撫でて、それでもネイルには振り向かなかった。
「病気みたいなものなのかな」
「何かが伝染している可能性も疑われました。ただ、精霊にも病が広がるようなことがあるのかは、分かっておりません」
「長く一緒に暮らしていても、分からないことはあるんだね」
「ええ。どう接すればよいかは知っていても、なぜこのような状態になるのかまでは……。研究も、そこまでは及んでおりません」
車輪が石の継ぎ目を越え、座席が小さく揺れた。
「冒険者ギルドにも調査を依頼しましたが、今も原因はつかめず、同様の報告が増えています」
「依頼書には、森や魔素に、目立った異常はないって書いてあったよね」
「はい。現時点では、その通りです」
ネイルは車窓へ目を向けた。
朝の通りでは、荷を抱えた人々が客車を避けて歩いている。昨日、肉と酒で賑わったギルドも、今頃は依頼を選ぶ冒険者でいっぱいだろう。
「風は起こせても、森には今まで通り働きかけられているのかな」
「そこが、私どもも気がかりなのです」
グリンも窓の外へ目をやった。
「この地の水や魔素の巡りには、精霊が深く関わっています。その循環が損なわれれば、森だけでは済まないでしょう。里の暮らしにも影響が及びます。異変が目に見えるまで待つわけには、まいりません」
窓の向こうを、小さな荷車が通り過ぎた。積まれた籠からはみ出した青い葉が揺れている。
ネイルはそれを見送ってから、グリンへ向き直った。
「それで、ハルラスが?」
「はい。詳しい調査内容は、王城でご説明いたします。そのうえで、ネイル様のお力を貸していただければと」
グリンは膝の上の手を揃えた。
「また、昨日付けで、BランクからAランクの冒険者を対象とする、特例のオーダーも出されています」
「……Bも?」
「はい。通常、Bランクは対象となりません。今回は、そこまで含めて協力を求める必要があると判断されました」
昨日は、Aランクへの昇級を勧める側だった。その翌朝には、自分のところまで話が来ている。
(結構、大事になってたんだね)
(昨日の予感は、当たっておったな)
(こういうのは、外れてくれてもいいんだけど)
「先ほどの精霊ですが、どの辺りで見かけたか、覚えていらっしゃいますか」
「薬草の群生地から、南へ行ったところ。猪を引き離したかったから、走って二十分くらい……かな。正確な場所までは、ちょっと」
(主を基準にした二十分では、相当な距離になるぞ)
(そうかな……)
「ありがとうございます。大まかな範囲だけでも、助かります」
グリンは地図を取り出し、膝の上で広げた。
王都の北東、精霊保護林の辺りに、小さな印が集まっている。
「これが、見つかった子たち?」
「はい。確認した四十七体の位置を記したものです」
グリンの指が、王都の西方へ移った。薬草の群生地を確かめ、そこから南へ辿っていく。
「こちらから、南へ進まれたのですね」
「うん。採取に来ていた人たちから、離れるように」
グリンはその先を、薄い線で囲んだ。保護林に集まった印とは、離れた場所だった。
「同じ子が、ここまで来てたのかな」
「その可能性もあります。別の精霊なのかは、まだ確かめる必要がございます」
ネイルは、北東の印と、西の囲みを見比べた。
「ほかにも、気づかれたことはございますか」
「今のところは、それくらいかな」
「……想定していたより、範囲が広いようです」
グリンは地図へ顔を近づけた。
すでに記された印を順に辿り、いま囲んだ範囲へ戻る。客車が揺れるたび、紙の端を押さえる指に力が入った。
ネイルは向かいへ少し身を寄せ、地図の端へ手を添えた。
「こっち、持ってるね」
「ありがとうございます」
グリンは片手を紙から離し、北東の印と西の囲みを交互に指した。
「保護林だけを探していては、見落としますね。こちらの周辺にも、調査を広げる必要があります」
「昨日の子も、まだ近くにいるかもしれないね」
「ええ。まずは、確認に向かう者へ、この場所を伝えます」
ネイルは地図の端を押さえたまま、グリンが囲みの脇へ書き添えるのを待った。
◇
王城へ近づいても、修練場から刃を打ち合う音は聞こえてこなかった。
代わりに、城門の前では、衛兵が出入りする者を一人ずつ確かめている。深緑の上衣を着た魔導衆の姿もあった。
客車が止まる。
門衛はグリンの顔を認めても、すぐには道を開けなかった。差し出された書類に目を通し、車内の二人を確かめてから、別の衛兵と言葉を交わしている。
「今日は、厳しいんだね」
「《王樹魔導衆》も、城門と城内の警備に当たっております」
「敵がいるって、分かったの?」
「いいえ。何者かによるものなのか、病のようなものなのかも、まだ判明しておりません。危険の程度が分からないため、警戒を引き上げています」
グリンは書類の確認を待ちながら続けた。
「それに、今日は冒険者の方々も多く出入りされます。皆様を疑うわけではありませんが、確認は必要ですので」
「そっか」
やがて門衛が書類を返し、道を空けた。
グラウオックスが歩き出す。客車は城門をくぐり、その先の広場の手前で止まった。
大きな掲示板の前に、冒険者と魔導衆が集まっていた。
装備の違う者たちが肩を並べ、貼り出された紙を読んでいる。読み終えた者は仲間と短く言葉を交わし、広場に設けられた壇の前へ移っていった。
グリンが地図を畳み、客車の扉を開ける。
ネイルは杖を手に、その人々の間へ降り立った。
近くを通る冒険者の金具が鳴った。客車の中では遠かった話し声が、今はすぐそばで重なっている。
「ネイル様。こちらで、少々お待ちいただけますか」
「いいよ」
「ありがとうございます。先ほどのお話を、伝えてまいります」
グリンは一礼すると、魔導衆の集まる方へ足早に向かった。
数人と言葉を交わし、壇の端で地図を広げる。車内で囲んだ場所を指し示すと、一人が身を寄せ、別の一人が持っていた書類を開いた。
「西方にも、調査を広げるのですね」
地図を覗き込んだ魔導衆の声が、ネイルのいる場所まで届いた。
「ええ。この範囲も、調査に加えてください」
グリンが頷くと、書類を開いていた一人が、その紙へ何かを書き込んだ。
ネイルはその様子を見届けてから、広場へ目を戻した。
オーダーで集まったためか、普段のギルドではなかなか見かけないほど、腕の立ちそうな冒険者が多い。
その中で、ひときわ目を引く後ろ姿があった。
白いフルプレートを身に着けた、人間の女性だった。兜は外している。肩から背にかけて、鎧が朝の光を受けていた。
掲示板の前を人が横切ると、女性は半歩だけ身を引いた。人を通したあとも、その姿勢に無理はない。
ネイルは、彼女の周囲へ意識を向けた。
人が行き交うたびに揺れる魔力。その乱れが、彼女から広がる魔力に触れると、ゆるやかに薄らいでいく。
女性が掲示を読む位置を変えると、穏やかな範囲も、それに伴って移った。
(……へえ)
ネイルが掲示板へ近づくと、女性が顔を向けた。
「こちらが空いている。よければ、どうぞ」
先ほど人を通した場所を、今度はネイルへ譲ってくれる。
「あ、うん。ありがとう」
隣へ入って掲示を見上げると、女性が尋ねた。
「君も、オーダーで来たのか?」
「うん。ギルドに行ったら、ここに案内されてね」
(嘘をつけ)
女性はネイルへ向き直った。
「そうか。名乗るのが遅れたな。私はアデル・セレスティア。よろしく頼む」
「僕はネイル。ネイル・エクセリアだよ。よろしくね、アデル」
「ああ。よろしく、ネイル」
名前を呼び返し、アデルが手を差し出した。
ネイルは杖を持ち替え、その手を握った。白い籠手に包まれた指が、小さな手をそっと握り返した。




