第27章 廻りますように
「のわあああああああああ!」
大森林の中を、小さなエルフが一人、走っていた。
「鎧牙猪って、こんなに大きかったっけええ……?」
背後では、数メートルはある巨体が木々を押し倒している。狙いはネイルただ一人。行く手に何があろうとお構いなしに、真っ直ぐ追いかけてくる。
(早く倒せばよいものを……)
(ここで倒すと、ほかの魔獣まで寄ってくるから……)
(妙なところで優しいな)
依頼を受けたあと、ネイルはアルフヘインを一人で出て、そのまま森へ向かった。
見つける。倒す。終わり。
そのつもりだった。
ところが、見つけた鎧牙猪は思っていたより大きく、薬草の採取地にも近すぎた。ここで戦えば、採取に来ている冒険者を巻き込む。倒しても、死骸に別の魔獣が寄ってくるかもしれない。
まずは、採取地から引き離そう。
そこまではよかった。
《薄影》で姿を目立たなくして、水弾を当てる。そのまま採取地とは反対へ追い立てるつもりだった。
ところが、何度も撃ち続けているうちに、猪は水弾を撃つネイルを見つけてしまった。
「気づかれないと思ったのに……!」
(《薄影》を使っておっても、目の前で撃ち続ければばれるだろう)
こうして、昼のランニングが始まった。
◇
(どれくらい、走った……?)
息を切らしながら、ネイルは尋ねた。
(二十分ほどか)
(じゃあ、もう十分だね)
採取地からは、十分に離れた。
ネイルは走るのをやめ、猪へ向き直った。
巨体はそのまま突っ込んでくる。ネイルはすんでのところで身をかわしながら、異空間から剣を一本取り出した。背後で地面を削る音が轟き、木の折れる音が重なる。
腰の《常刃》には手をつけていない。
(《常刃》ではないのか)
(普通の剣でも、通るかなって)
両手で剣を構え、猪と向き合う。
構えなど気にも留めず、猪は再び突っ込んできた。
ネイルはその横へ身をかわしながら、猪の横腹を狙って剣を横薙ぎに振り抜いた。
パキン、と音がした。
折れたのは、名もない剣の方だった。
(駄目か)
(だろうな)
続けて、ネイルは猪へ左手を向けた。
詠唱もなく、地面から拳大の岩が二つ浮き上がる。
土魔法《ロックブラスト》。回転する二発の岩弾が、猪の右胴へ撃ち込まれた。
だが、猪の突進は止まらなかった。
岩弾を受けた巨体が進路を曲げ、再びネイルへ向かってくる。
鎧の名は伊達ではない。その皮膚は刃を折るほど硬く、衝撃を逃がすしなやかさも備えている。生半可な打撃では打ち込んだ側が壊れ、今の岩弾でも勢いを削ぐには足りなかった。
(どれくらいかな)
ネイルは胸の前で腕を交差させた。
今度は、かわさなかった。
巨体の突進を、真正面から受ける。
ズドン、と重い音が響いた。
小さな身体が数メートル吹き飛び、木の幹へ次々と背中を打ちつけて、ようやく止まった。
口元に、少しだけ血が滲んでいる。
(やるねえ)
(あえて受けるのは違うだろう……)
やり取りをしている間にも、猪は追撃に来ていた。
今度は、牙を突き立てにくる。
鎧牙猪の牙は、長く生きた個体ほど黒くなる。その硬度は鉄をも凌ぐ。
硬く、重く、それでいて速い。
分かりやすいがゆえに、強い。
(お返しだよっ)
ぶつかる、その直前。
猪の巨体が、何かに弾かれたように宙を舞った。
ネイルが構築し、ぶつけたのは、魔力障壁だった。
突進に合わせた、不可視のカウンター。
数メートルの巨体が、来た方向へ数十メートルも吹き飛んでいく。木々が折れ、地面がえぐれ、猪の飛ばされた跡が森の中へ延びていた。
ネイルは口元の血を拭いながら、その跡を辿って歩き出した。
(これで依頼は終わりかな)
(あとは、討伐証明の部位を切り取ってからだな)
ネイルは異空間からナイフを取り出した。
その腕は、もう治っている。先ほどまで巨体を受け止め、木々へ叩きつけられていたとは思えないほど、滑らかに動いた。
(こんなことをしていると、また死ぬぞ)
(そうだね。でも、治せるし)
(治ればよいという話ではなかったろう。昨日も)
それを大丈夫とは言わないわ。
ルーナの声を思い出し、ネイルはナイフを持つ手へ目を落とした。
(……うん。また怒られそうだね)
(分かってはいるのだな)
(でも、相手の全力を受けてみたいじゃない)
(なら、我が斬ってやろうか)
(それは違うって……)
ネイルは、猪がえぐった地面へ視線を戻した。
(でもさ、こういうことがあると、僕は今、この世界で生きてるんだなって思うんだ)
(……頭まで打ったか)
(そんな気分になっただけ)
折れた木々の向こうへ、猪の飛ばされた跡が続いている。
(……肉、大丈夫かな)
(数十メートルも飛ばしておいて、何を言う)
ネイルは《薄影》を解き、ナイフを手に、その先へ歩いていった。
ふと、魔力を帯びた風が外套の裾を揺らした。
(ん……?)
流れてくる魔力を辿ると、木々の間から小さな精霊が一匹、こちらへ近づいてくるのが見えた。
(戦ってるところ、見られちゃったかな)
(あれだけ物音を立てればな)
風の精霊だ。
ネイルは足を止めた。
精霊は、ネイルの澄んだ魔力を好む。いつもなら、こちらから呼ばなくても寄ってくる。
(あれっ?)
精霊は、ネイルに目もくれず横切っていった。
(自画自賛が過ぎたな)
パレードの言葉にも、ネイルは精霊を目で追っていた。
精霊は木々の間を漂い、森の奥へ進んでいく。漏れ出す風が、通り過ぎた葉を小さく揺らした。
(……様子、おかしくない?)
(いつもなら、主の魔力の痕跡にまでまとわりつくものだが)
(好かれちゃうからね)
(そういう日もある、と考えるか。何かの前触れか)
朝、掲示板で見た依頼書が頭に浮かんだ。
精霊はいる。それなのに、意思を返さない。
(朝の依頼と、関係あるのかな)
今の精霊も、風の魔力を失ってはいなかった。
けれど、こちらへは一度も反応しなかった。
(何も起きないといいけどね)
(主の予感は、よく当たるのではなかったか)
(そんなことも言ったね。そういえば)
ネイルは精霊の姿が木々の向こうへ消えるまで見送り、猪の飛ばされた跡へ戻った。
◇
えぐれた地面の先で、鎧牙猪は横倒しになっていた。
片方の牙は砕け、もう片方は、運よく形を保っている。近づいても、巨体はぴくりとも動かなかった。
「でっか……」
こうして間近で見ると、やはり普通の個体より大きい。
ネイルは猪の傍らへしゃがみ、残った牙を確かめた。根元まで傷がないことを見てから、ナイフで周囲を丁寧に切り、討伐証明となる一本を取り外す。
それをパレードの異空間へ収めると、声がした。
(猪も持っていくか)
(さすがに、全部はね。森にも還そう)
ギルドで食べる分を切り取る。傷みの少ないところから肉を取り分け、ネイルはもう一切れ足した。
(あのドワーフの分か)
(うん。心配してくれたから)
取り分けた肉も、パレードの異空間へ収めた。
牙と、今日の食事。
持ち帰るものを確かめて、ネイルはナイフをしまった。
猪の横へ手をかざすと、土がゆっくりと動き始める。巨体が収まるだけの穴を開け、その中へ亡骸を横たえた。
掘り上げた土を戻すと、猪の巨体は見えなくなった。
(種、ある?)
(あるぞ)
ネイルはパレードから種を一粒受け取り、埋め戻した土へ蒔いた。
その上に指先を添え、魔力を込める。
(廻りますように)
小さく呟いて、一礼した。




