第26章 今日も平和です
久しぶりの休みだ。
そう思いながら、ネイルは目を開けた。
正確には、王城へ行かなくていい日だった。
久しぶりに、自分で一日の予定を決められる。
何もしないつもりは、最初からなかった。
布団の中で左手を握り、ゆっくりと開く。
昨日、治癒術師に治してもらった腕は、もう右腕と変わらず動いた。宿へ戻る頃には、治ったばかりの薄い違和感さえ消えていた。
念のため魔力を通してみたが、整える場所も残っていない。
ネイルは寝台を降り、壁の掛け具へ目を向けた。
そこには、ルーナから贈られた濃緑のローブが掛かっている。
裾を指先で整えてから、今日はそれを残し、旅で着慣れた黒い外套へ腕を通した。
(ルーナからもらったものは着ないのか)
(今日はギルドへ行って、依頼を受けるから)
(通常運転に戻ったか)
(そうだよん)
留め具を留める指も、普段より少しだけ軽い。
簡単な依頼を一つだけ。昨夜、グリンと約束した。
王城側と宿の護衛への連絡も、彼が引き受けてくれている。
ネイルは《常刃》を腰へ差し、黒い杖を背負った。財布と冒険者証を外套のポケットへ入れ、扉へ向かう。
(忘れているものはないか)
(なに)
(護衛依頼)
ネイルの足が止まった。
机の上へ目を向ける。
水差しの隣に、商会の紋章が押された依頼達成票が残っていた。
(好きだよ、パレード)
(こういう時しか言わないな)
(そうだっけ)
依頼達成票を革の書類挟みへ収め、今度こそ部屋を出た。
一階では、夜番を終えた若い護衛が、交代を待ちながら入口に立っていた。
「ギルドへ行ってきます」
護衛は一瞬だけ目を丸くした。
「今日は、きちんと一声いただけましたね」
「約束したから」
「グリン様からも伺っております。お気をつけて」
「うん。行ってきます」
今日は《薄影》も使わない。
黒い外套のまま、ネイルは朝の人波へ紛れた。
王城へ向かう日とは違い、急ぐ理由はない。
果物を積み上げる露店の前で足を緩め、朝一番の荷を運び込む商人たちの間を抜けていく。頭上では枝から枝へ渡された細い橋を、羽の小さな妖精たちが行き交っていた。
見覚えのない店もあれば、看板だけを替えて同じ場所に残る店もある。
知っているようで、知らない街だった。
それでも、ギルドへ近づくにつれて革鎧と金属の匂いが混じり始めると、旅先のどこにでもある朝へ戻っていく。
◇
冒険者ギルド・アルフヘイン支部は、横に広い木造二階建ての建物だった。柱や外壁には傷が残り、軒先の看板も色褪せている。
開け放たれた扉を、長弓を背負ったエルフや、小柄な獣人、分厚い革鎧を着たドワーフが行き交っている。人間の姿も珍しくない。
中へ入ると、正面には幾つもの受付窓口が並び、その横には朝から料理と酒を出す食堂が続いていた。
焼いた肉と温かなスープの匂いが、ざわめきの中へ混ざっている。
受付の前では、夜通しの護衛を終えた一団が眠そうに報告書を差し出し、その隣では、採取籠を背負った少女が薬草の束を一本ずつ数えていた。
食堂では、昨夜倒した魔獣の大きさを競う声がしていた。
土地や種族が変わっても、この空気はあまり変わらない。
ネイルは無意識に、外套の襟を少しだけ緩めた。
壁一面を使った依頼掲示板は、AからEまで、等級ごとに区切られていた。
ネイルは掲示板へ視線を残しながら、淡い金髪を背へ流した受付の女性の前へ立つ。
「これ」
革の書類挟みから、依頼達成票を取り出した。
「確認いたしますね」
受付の女性は、達成票に押された商会の紋章と依頼番号を台帳へ照らし合わせた。
指先で紋章をなぞると、乾いていた印章が淡く光る。台帳の同じ欄にも細い光が走り、二つが重なったところで消えた。
偽造や書き換えの跡はないらしい。
「問題ありません。冒険者証もお願いします」
ネイルは外套のポケットから冒険者証を取り出し、差し出す。
「ネイル・エクセリアさん。Bランクですね。商隊護衛依頼の達成を確認しました」
名前にもランクにも特別な反応を見せず、受付の女性は淡々と処理を進めた。
その手際が、ネイルには心地よかった。
「ありがとう」
「こちらの支部は初めてですか?」
「久しぶりかな」
「今、自由に受けていただけるのはB等級とC等級です。DとEは新人育成枠なので、付き添いや指名がない限り、お出ししていません」
受付の女性が掲示板を示した。
ネイルは、依頼書が幾重にも貼られた下段へ目を向ける。
「簡単そうなのに」
「簡単だからこそ、残してあげてください」
「そっか」
「長く引き取り手のない依頼でしたら、例外もありますけどね」
冒険者証を受け取り、ネイルは受付を離れた。
DとEの前では、装備の新しい冒険者たちが、依頼書を囲んで相談している。
「採取なら、今日中に帰れるよな」
「でも、この薬草は似た毒草があるって書いてあるぞ」
「じゃあ、見分けられる人をもう一人探そう」
誰かが一枚へ手を伸ばしては止まり、別の誰かが依頼文を最初から読み直す。
その慎重さを笑う者はいなかった。
ネイルも昔は、薬草一枚の形を覚えるところから始めた。
正確には、始めたことが何度もある。
最初の一度がどの生だったかは、もう思い出せなかった。
上へ行くほど紙の数が減り、人影も少なくなっていた。
最上段のA等級には、誰もいない。
広く空いた区画に、一枚の依頼書だけが残されている。
紙は四隅を黒い留め具で固定され、扉から風が入っても動かなかった。
貼られているというより、何もない空白の中へ取り残されているように見える。
他の依頼書には、討伐対象の特徴や報酬について書き足された紙が重なり、端には冒険者が触れた跡が残っている。
その一枚だけは、角まで真っ直ぐだった。
足を止める者はいても、手を伸ばす者はいない。
ネイルは、その前で足を止めた。
【依頼】王都北東・精霊保護林における異常調査
【推定難度】A
【目的】精霊の意思応答停止、その原因の特定
【現地確認】
精霊魔力反応:47
意思応答:0
消失・死亡:0
【備考】区域内の生態および魔素濃度に、顕著な異常は確認されていない
精霊は、そこにいる。
消えても、死んでもいない。
それなのに、一つとして応えない。
(気になるか)
(少しだけ)
「そちらはA等級です」
先ほどの受付から声が飛んできた。
「分かってる。見ていただけ」
掲示板はAで終わり、その上には何もない。
ネイルはもう一度だけ、二つ並んだ「0」へ目を向けた。
今日は、難しい仕事を受けに来たわけではない。
視線を一段ずつ下ろし、C等級の前へ移動する。
討伐、護衛、採取、調査。
並んだ依頼書を眺め、その中から一枚を抜き取った。
【依頼】王都西方・薬草採取地に出没する《鎧牙猪》の討伐
【推定難度】C
【確認数】1
(簡単なのを一つ、だったな)
(うん。一つだよ)
(主にとっては、だろう)
ネイルは依頼書を手に、受付へ戻ろうとした。
その時、入口の扉が大きく開いた。
流れ込んだ朝風に、DとEの依頼書が一斉に揺れる。
四隅を留められたA等級の依頼書だけは、先ほどと変わらず、空白の中に佇んでいた。
(A等級も、やってみたいよね。本当は)
(ここ数年、Bに留まってきた意地が揺れているぞ)
(たまにはね)
ネイルがC等級の依頼書を手に歩き出すと、掲示板の下段にいた若い冒険者たちの視線が集まった。
ネイルは視線を気にせず、依頼書の端に記された推奨人数を確認する。
推奨、三名以上。
構成までは指定されていない。
「おい、姉ちゃん」
呼び止めたのは、金具で補強した革鎧を着込み、大剣を背負ったドワーフだった。
背丈はネイルより少し高い程度だが、肩と腕はその倍ほどある。片手には、朝から泡の残った木杯を持っていた。
「それ、C等級だろ」
「うん」
「一人で行く気か?」
「そのつもり」
ドワーフは依頼書とネイルの身体を見比べた。
「《鎧牙猪》は、見た目より速いぞ。しかも薬草地なら、周りを気にしながら戦うことになる。悪いことは言わん。仲間を探した方がいい」
からかっている様子はなかった。
ネイルは少し考えてから、外套のポケットへ手を入れた。
「大丈夫」
(また言ったな)
(今のは、本当に大丈夫)
取り出した冒険者証を、ドワーフにだけ見えるよう傾ける。
示されたBの文字を見て、ドワーフの眉が持ち上がった。
「おお、Bか」
「そうだよ」
ネイルは少しだけ胸を張った。
「すげえな。ここはB以上があまり来ないから、てっきり身の程を知らん新人かと思ったぞ」
「よく言われる」
「気を悪くしたならすまんな」
「してないよ。心配してくれたんでしょ」
ドワーフは一瞬だけ黙り、それから豪快に笑った。
「違いない。なら、気をつけて行ってこい。肉まで駄目にするなよ」
「うん」
ドワーフは木杯を掲げ、残った酒を飲みながら食堂へ戻っていった。
(こういう、いかにも冒険者って感じの人、好き)
(だろうな)
冒険者証をしまうと、見守っていた新人たちが慌てて掲示板へ視線を戻した。
ネイルは少しだけ機嫌を良くして、受付の前へ依頼書を置く。
「こちらを受注されるのですね」
「うん」
受付の女性は依頼書へ目を通し、ネイルの後ろを確認した。
「単独受注でよろしいですか?」
「場所も近いし、夜までには戻れるよ」
「分かりました。《鎧牙猪》一頭の討伐。牙、もしくは右耳が討伐証明になります」
受付の女性は依頼書へ受付印を押し、控えをネイルへ差し出した。
「周囲は薬草の採取地です。依頼主から、できる限り荒らさないよう申し添えられています」
「踏まれないようにすればいい?」
「猪にも、ネイルさんにも」
「気をつける」
受注済みの依頼書を折り畳み、外套の内側へしまう。
これで今日の予定は決まった。
(猪なら、今日は肉にしようかな)
(我にも食わせてみろ)
(食べられないでしょ)
(試したことはない)
(今度、杖にお肉を押しつければいい?)
(それは何か違う気がするな)
くだらないやり取りを続けながら、ネイルはギルドを出た。
朝のアルフヘインには、枝葉の間から細い陽光が差し込んでいる。
店を開く者。荷車を引く者。欄干に腰掛けて果実を分け合う子供たち。
ネイルは受注した依頼の控えを確かめながら、王都西門へ続く通りを歩いていく。
黒い外套の後ろ姿が角を曲がり、見えなくなった。
◇
その少しあと、通りの上を入域管理院の精霊フラウが、小さな妖精と並んで飛んでいった。
「この前いた妖精さん、最近見ないねー」
フラウの言葉に、隣の小さな妖精が首を傾げる。
「この前?」
「ほら、一緒に遊んだ……」
そこまで言って、フラウは羽ばたきを緩めた。
「……どんな子だったっけ?」
隣の妖精も、考え込むように宙で一度回った。
「さあ。でも、一緒にいた気はするねー」
「うん。いた気はする」
二人はしばらく顔を見合わせ、それから何事もなかったように、朝の光の中へ飛んでいった。
通りの端にある低い欄干には、小さな花冠が三つ、朝露に濡れて並んでいた。
アルフヘインは、今日も平和だった。




