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第25章 日が暮れるまで

「そこまで!」


 ハルラスの声が、演習場へ響いた。


 ネイルの指先は、護衛標章へ触れたまま止まっている。


 イヴァルも動きを止めた。


 弾かれた木剣だけが地面を転がり、やがて乾いた音を立てて止まった。


 一拍遅れて、見守っていた者たちの間から、どよめきと歓声が広がった。


 張りつめていたものが解ける。


 その途端、左腕の痛みがはっきりした。


 肘の少し下。


 動かさなければ耐えられるが、指を僅かに曲げるだけで、骨の奥から熱が返ってくる。


(……いたた)


 ハルラスは、顎を蹴り上げられたローデンのもとへ向かっていた。


 それより早く、場外で待機していた治癒術師がネイルへ駆け寄ってくる。


「ネイル!」


 結界の向こうから、ルーナの声も重なった。


 ネイルの右手は、考えるより先に痛む左腕へ触れていた。


 骨を繋ぎ、痛みを消すための魔力を集める。


 一人なら、もうそうしていた。


 痛みを抱えたまま誰かを待ったことなど、ほとんどなかった。


 あと数呼吸もあれば、元へ戻せる。


「ネイル様。左腕を見せてください」


 治癒術師が目の前へ膝をつき、両手を差し出した。


 ネイルは、集めかけた魔力と、その手を交互に見る。


(自分で治さないのか)


(……来てくれたから)


 左腕へ集めた魔力を、静かにほどいた。


 右手も離す。


「お願いします」


 治癒術師の手が、左腕を下から支えた。


 位置を確かめる指が触れ、鈍い痛みが骨の奥まで走る。


「……っ」


「骨までいっています。動かさないでください」


 ルーナを囲んでいた結界が解かれた。


 駆け寄ってきたルーナの顔が強張った。


「ネイル、その腕……」


「大丈夫。折れただけだから」


「それを大丈夫とは言わないわ」


「でも、治せるし……」


 ルーナの表情は戻らない。


 ネイルは少しだけ目を逸らした。


「……少し、痛いけど」


 治癒の魔力が左腕を包む。


 骨の奥に残っていた熱がゆっくりと引き、ずれていた感覚が元の位置へ戻っていく。


 やがて、治癒術師の手が離れた。


「もう、動かしていただいて大丈夫です」


 ネイルは指を曲げ、手首を静かに回した。


 痛みはない。


 ただ、治ったばかりの場所だけ、薄い膜を挟んだように感覚が遠い。


 強く握るのはやめておいた。


「ありがとう」


 一人なら、誰かの手が届く前に終わらせていた。


 今は、治してくれた者の手がまだ近くにあり、ルーナが心配そうに左腕を見ている。


 ネイルは腕を引かず、そのまま小さく息を吐いた。


「大丈夫だよ」


「本当でしょうね」


「本当」


 もう一度、指を握って開いてみせる。


 ルーナはようやく左腕から目を離したが、その表情にはまだ疑いが残っていた。


 少し離れた場所では、意識を取り戻したローデンが、治癒術師に顎を診てもらっている。イヴァルは地面に落ちた木剣を拾い、治療を終えたミアナは土の上へ転がった鞘ごとの《常刃》を拾い上げていた。


 ミアナが、ネイルの前まで歩いてくる。


「お返しします」


「ありがとう。胸は大丈夫?」


「はい。まともに受けていたら、まだ立てなかったと思いますが」


 ネイルは《常刃》を右手で受け取り、鞘についた土を払って腰へ戻した。


 ローデンとミアナの治療を見届けたハルラスが、ネイルのもとへ戻ってくる。


「見事だった」


 ネイルは左手を開いたり閉じたりしながら答えた。


「ボロボロだけどね」


「こちらは、初めから勝ちに行くつもりだった」


「分かってる。そうじゃなかったら、僕もここまでにはならなかったよ」


「負傷は?」


「もう平気」


「だといいのだけれど」


 ルーナの声には、やはり疑いが残っていた。


 ハルラスは僅かに口元を緩め、それからイヴァルたち三人へ目を向ける。


「我々の三人は、どうだった?」


「強かったよ」


 ネイルは迷わず答えた。


「三人とも、最後まで守るものを見失わなかった」


 三人の表情には、敗れた悔しさが残っている。それでも、ネイルから目を逸らす者はいなかった。


「では、言うことはないか」


「ううん。強いからこそ、次に見たいものがある」


 ハルラスは三人の顔を見た後、演習場の端へ目を向けた。


「せっかくだ。続きは全員にも聞かせてくれないか」


「今?」


「今だ」


「いきなりだね」


「指南役だからな」


 ハルラスは返事を待たず、演習場へ向き直った。


「総員、集まれ!」


 散っていた《王樹魔導衆》が一斉に動いた。


 声を掛け合う者はいない。それでも列は淀みなく組み上がり、瞬く間に全員の爪先と肩が揃う。


 ネイルはハルラスに促され、演習場脇の低い壇へ上がった。


 整然と並んだ視線が、一斉に集まる。


 戦うより、こちらの方が難しいかもしれない。


 ネイルは治った左腕を右手で押さえかけ、途中で手を離した。


「先に言っておくね」


 最初の声は、少し小さかった。


「君たちの戦い方は綺麗で、とても強い。見栄えの話じゃなくて、一人の位置が崩れても、誰かが空いた場所へ戻る。さっきの三人も、途中で役目を見失わなかった」


 戦いの話を始めると、言葉は少しずつ滑らかになった。


「たぶん、どこへ出ても通用する。冒険者になっても、引く手あまただと思う」


 何人かの眉が僅かに動いた。


「でも、君たちが守る相手を狙う者が、同じように綺麗に戦うとは限らない」


 ネイルは、土の上へ残る亀裂と木剣の跡へ目を向けた。


「ハルラスに伝えた三つを、今日の戦いに合わせて話すね」


 ネイルは一度、三人を見た。


「一つ。隊形を崩された後、自分たちで戻ること」


 前列の何人かが、イヴァルたちへ視線を向けた。


「これは、できていた。交差した後も、ミアナが倒れた後も、空いた場所を誰かが埋めた。最後にイヴァルが一人になっても、守る場所は変わらなかった」


 イヴァルは正面を向いたまま、僅かに顎を引いた。


「二つ。相手の攻撃を、見た目だけで読み違えないこと」


 ネイルは治った左腕を軽く上げる。


「この腕は、僕の見積もり違い。雷で守りが乱れていたのに、木剣なら痣で済むと思った」


 ローデンが、治ったばかりの顎から手を離した。


「ローデンの踏み込みは、僕が思ったより深かった。その上、折れた音を聞いても攻撃を止めなかった。イヴァルも、僕が武器を手放すと、別の手で道を塞ごうとした」


 ネイルは二人へ目を向ける。


「どちらも間違ってない。ただ、一瞬だけ、僕の次の動きを見失った。その一瞬を、僕が使った」


 演習場は静まり返っている。


「僕は避けられた電撃を避けなかった。鞘も木剣も手放した。腕が折れると分かっていても、標章へ届く方が早ければ受けていたと思う」


 ローデンが低く答えた。


「負傷した腕で、あのように動くとは考えませんでした」


「うん。普通は、そう考える。でも、魔獣や魔人が、こちらと同じ痛み方や考え方をするとも限らない」


 誰も視線を逸らさない。


「できないことと、しないだろうと思ったことは、分けて見た方がいいよ。傷や武器の有無だけで決めず、相手が何を守り、何を捨てられるのかを見る。残った課題は、その一瞬をなくすこと」


 ネイルは三本目の指を立てた。


「三つ。読ませないこと」


「二人の背中でミアナを隠し、左右へ開いて電撃を通した。普通の相手なら、十分に読ませない連携だったと思う」


 そこで言葉を切る。


「でも、僕には術の起こりが見えていた。姿を隠すだけでは、僕の読みからは外れなかった。次は、僕にも一つくらい見落とさせてほしい」


 ミアナの赤茶の眉が僅かに上がり、すぐに真剣な顔で頷いた。


「一つ目は、できていた。二つ目は、あと一瞬。三つ目は、次に僕が見たいもの。今日の三人は、そこまで来ていたよ」


 そこまでは、言えた。


 あとは締めるだけだった。


 並んだ全員が、その続きを待っている。


「だから──」


 ネイルの視線が、僅かに泳いだ。


「これからも、が、頑張っていこう」


 少しだけ、声が裏返った。


 それでも、笑う者はいなかった。


 先ほど標章へ届くまでの一戦を、全員が見ている。


 ハルラスが右拳を胸へ当て、深く頭を下げた。


「本日の指南に、感謝する」


 次の瞬間、並んだ者たちの拳と声が、一つに揃った。


「ありがとうございました!」


 思っていたより大きな声に、ネイルの肩が僅かに揺れた。


 ◇


 これで終わりだと思って壇を降りると、大柄なエルフが一人、列を離れて近づいてきた。


 厚い胸当てを身につけ、訓練用の大斧を片手に持っている。


「ネイル殿。一つ、よろしいでしょうか」


「なに?」


「先ほど、ローデンの振り下ろしに逆らわず、着地をずらしていました。俺のような重い武器では、外された後の戻りが遅くなります。どう直せばよいでしょう」


 ネイルは大斧と、エルフの足元を見た。


「一度、振ってみて」


 大柄なエルフが頷き、二歩離れる。


 踏み込みから振り下ろされた大斧が、低い風音を立てて止まった。


「もう一度」


 二度目も、同じ軌道だった。


「腕はそのままでいいよ。後ろ足を残しすぎてる。武器が当たる前に、身体だけ止まってるから」


 ネイルが自分の足を置いてみせる。


「ここまで一緒に運んで、外されたらその足で次へ出る。まずは半分の速さでやってみて」


 大柄なエルフが構え直した。


 今度の大斧は、地面へ届く寸前で止まり、そのまま横薙ぎへ繋がった。


「おお……」


「今の方がいい」


「ありがとうございます!」


 その声を合図にしたように、別の一人が前へ出た。


「ネイル殿。私も一つ、手合わせをお願いできませんか」


 腰に二本の木剣を差した、細身のエルフだった。


 ハルラスが何かを言うより早く、ネイルは地面の木剣を拾い上げる。


「いいよ。一戦だけなら」


 返事と同時に、ネイルの口元が明るくなった。


(帰るのではなかったか)


(これが終わったらね)


 最初の打ち合いが始まると、また一人、また一人と周囲へ集まった。


 剣を振る者には、踏み込みの前に動く肩を。


 槍を使う者には、長い間合いへ頼って空けている足元を。


 術者には、術の起こりを隠そうとするほど、視線が不自然に逸れていることを伝えた。


 答えを先に渡さず、まず一度動いてもらう。


 同じ動きをもう一度見て、それから一つだけ変える。


 質問は一つから三つへ増え、三つが終わる頃には、次の者たちが列を作っていた。


 ネイルも、断らなかった。


 木剣が重なる音が何度も響く。


 相手の剣先が僅かに速くなれば、ネイルの笑みも少し深くなる。


 気づけば、演習場に長く伸びていた影は消え、周囲の木々が夕闇へ沈み始めていた。


 治った場所に残っていた薄い違和感も、いつの間にか消えている。


「今日は、ここまでだ!」


 ハルラスの声で、ようやく最後の木剣が止まった。


 ネイルは小さく息を弾ませながら、借りていた木剣を返す。


(随分と長い、一戦だったな)


(質問もあったから)


(一戦ではなかったことは認めるのだな)


 ハルラスから黒い杖を受け取り、背負い直す。


 最初は固かった兵士たちの表情も、今は訓練を終えた者らしい疲れと満足へ変わっていた。


 指南役を引き受けた時は、何をすればいいのかもよく分かっていなかった。


 けれど、一緒に動いている間は、困らなかった。


 王城を出ようとすると、門の近くでグリンが待っていた。


 深緑の上衣の肩へ、灯り始めた城門の明かりが落ちている。


「お疲れさまでした」


「待たせた?」


「少しだけです。終盤の手合わせは、演習場の端から拝見していました」


 グリンは眼鏡の位置を整え、静かに笑った。


「すごかったです」


「でしょ」


 ネイルは少しだけ胸を張った。


 自分からそう返したことが可笑しくなり、口元にも笑みが残る。


「以前、機会があれば剣を見せてくださると仰っていましたが、想像していた以上でした」


「今日は、たくさん見せたからね」


「でしたら、私にもきちんと教えてくださいね」


「ここにいる間ね」


「約束ですよ」


「うん」


 二人で城門を出る。


 昼の熱が抜けた石畳の上を、夜風が静かに通り過ぎていった。


「明日は休養日です」


 グリンが告げると、ネイルはすぐに隣を見上げた。


「じゃあ、ギルドで依頼を受けてもいい?」


「今の話を聞いておられましたか?」


「簡単なのを一つだけ」


「本日の『一戦だけ』を拝見した後では、あまり信用できませんね」


「今度は本当に一つ」


「今朝は宿を抜け出し、午後には腕を折った方のお言葉とも思えません」


「もう治ったよ」


「そういう問題ではないのですが」


「久しぶりなんだよ。お願い」


 グリンは困ったように眼鏡を押し上げ、しばらくネイルを見ていた。


「分かりました。王城側と護衛には、私から伝えておきます。ただし、無理はなさらないでください」


「ありがとう」


 返事が少しだけ早くなった。


 道が二つへ分かれる場所で、グリンが足を止める。


「宿まで、短い道と静かな道がございますが」


「静かな方」


「承知しました」


 二人は人通りの少ない並木道へ入った。


 枝の隙間に星が見える。


 初めは半歩ずれていた足音が、歩いているうちに同じ間隔で石畳へ重なる。


 小さな宿の灯が見えるまで、二人は星明かりの下を、同じ歩幅で歩いていった。

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