第24章 空を裂いた朝
その朝、ネイルは夜明けを待たずに目を覚ました。窓の外には、まだ夜の色が残っている。
いつもなら布団を引き上げる時間だったが、今日は眠気がなかった。
手早く身支度を整え、常刃を腰に差し、黒い杖を背負う。〈薄影〉を使って宿を抜け、王都南方の林へ向かった。
夜露を含んだ風が、火照る前の頬を冷たく撫でていく。
人の気配が消えたところで〈薄影〉を解く。黒い杖を古木の根元へ立てかけ、ネイルは常刃を抜いた。
指先から足裏まで魔力を巡らせる。踏み込みに合わせて出力を切り替えても、循環に淀みはない。
〈万理眼〉を深く開いた瞳に、普段のおっとりとした色はなかった。
一太刀。
刃の軌跡は見えなかった。
空気の裂ける音だけが遅れて届く。次の瞬間には、常刃は元の位置へ戻っていた。
誰もいない正面に、これまで出会ってきた強敵を一人ずつ思い描く。
あの相手なら、ここで踏み込む。あの好敵手なら、次の瞬間には刃を返してくる。
防がれたなら、どこへ通すか。避けられたなら、その先をどう追うか。
頭の中で相手を替えるたび、足の位置と剣の角度も変わる。
納得できなければ、もう一度。
そうして動きを繰り返しているうちに、空が白み始めた。
額を汗が伝う。頬にも、はっきりと血色が差していた。
ネイルは最後の一振りを終えると、常刃を鞘へ納め、パレードの異空間へ収めた。
代わりに、古木の根元へ立てかけていた黒い杖を手に取る。
(たまには、こうして身体を動かしておかないとね。鈍った時って、自分では案外気づかないものだから)
(キヒヒッ。ようやく、我を振るう気になったか)
(少しだけ)
(主の言う「少し」は、あまり信用できんな)
ネイルが膨大な魔力を注ぐ。
古びた杖の輪郭がほどけ、長い柄の先に、夜を切り取ったような黒い刃が伸びる。水晶が紫に輝き、謁見の間でも見せた大鎌へ変わった。
〈万理眼〉で雲の下を見渡す。鳥影ひとつない。
ネイルは、誰もいない空へ向けて大鎌を一度だけ振るった。
黒い斬撃が、朝空の高みへ駆け抜ける。
空が、割れたように見えた。
斬撃の軌道に沿って雲が分かれ、押し退けられた大気の間に細長い暗がりが走る。その向こうには、夜の名残のような深い青が覗いていた。
遅れて、空の奥まで断ち切ったような轟音が落ちてきた。
暗がりは数呼吸ほど残り、やがて朝の青へ溶けるように薄れていく。
ネイルは目を丸くした。
空の切れ目が溶けきったあとも、森の葉だけがざわざわと揺れている。
そこでようやく、王都の方角へ顔を向けた。
ネイルの顔に、普段ならまず見せないほど明るい笑みが浮かぶ。
(やばい。やりすぎた!)
(キヒヒッ。我には分かっていたぞ)
(先に言ってよ)
(言えば、やめたのか?)
(多分、やめなかった)
ネイルはパレードを黒い杖へ戻すと、勢いよく踵を返した。
「帰ろう!」
(逃げる、の間違いではないか?)
次の一歩で、林の景色が後ろへ流れる。
走る足は、逃げているとは思えないほど軽い。口元の笑みも、まだ消えていなかった。
(王都まで、聞こえたかな)
(まず間違いなくな)
ネイルは否定せず、朝の林を駆け抜けた。
◇
〈薄影〉のまま宿へ戻り、何食わぬ顔で二階へ上がる。部屋へ入る寸前、向かいから昨夜の若い護衛が顔を出した。
「次から外へ出られる際は、一声いただけると助かります」
「ごめんなさい」
頬の赤みと靴の朝露までは、隠しきれなかったらしい。
汗を流したあと、ネイルは部屋でコーヒーを飲みながら、トレイルブロックの端をかじった。
空いた左手を水差しへ向ける。
浮かび上がった水が三つに分かれる。
小さな球。紙より薄い膜。髪の毛ほどの糸。
三つの水は形を崩さず、指先の動きに合わせて位置を入れ替えていく。
二口目をかじったところで、扉が二度叩かれた。
「ネイル様。お迎えに上がりました」
「入っていいよ」
扉を開けたグリンは、ネイルと、その傍らで回る三つの水を順に見た。
「本日は、随分とご機嫌ですね」
「そんなことないよ」
「そうでしょうか」
ネイルが首を傾げると、細い水の糸まで同じ向きへ傾いた。
グリンはトレイルブロックへ視線を落とした。
「朝食は、そちらで?」
「食べやすいよ」
「そうですか」
納得した顔ではなかった。
残りをコーヒーで流し込み、水を水差しへ戻す。
ネイルはローブを羽織り、常刃を腰に差し、黒い杖を背負った。
「それでは、参りましょう」
「うん」
◇
ネイルは〈薄影〉で朝の人波へ紛れ、グリンと王城へ向かった。中央広場では、猫耳の小柄な獣人が号外を配っている。
「号外だニャ! 今朝の大音響、王都南方の空に謎の切れ目だニャ!」
ネイルは人の輪へそっと近づき、号外を一部受け取った。
『王都南方で空に異変──早朝の大音響、原因は不明』
大きな見出しの下には、朝空を一本の暗がりが横切る挿絵まで載っている。
「こうして見ると、綺麗だね」
「こうして見ると……?」
グリンが、紙面からネイルへ目を移した。
ネイルは一度、口を閉じる。
「言い方を間違えた。綺麗だね、って」
「何かご存じですか?」
「知らないよ」
「そうですか」
返事は穏やかだったが、眼鏡の奥の視線は少しだけ長く残った。
ネイルは号外を小さく畳み、ローブのポケットへ押し込んだ。
◇
演習場へ入ると、ハルラスが中央で木剣を振っていた。踏み替えから斬り上げ、返す刃まで途切れず、それでも身体の軸はぶれない。
最後の突きを止めると、二人へ顔を向けた。
「待たせたな」
ハルラスは木剣を肩へ担ぎ、ネイルを見た。
「今朝は空がいつもより綺麗でな。私も少し、身体を動かしたくなった」
「そうなんだ」
ネイルは目を逸らさなかった。
(ばれてる?)
(まだ探っているだけだな)
「今は、そういうことにしておこう。演習の話が先だ」
ハルラスが演習場の奥へ目を向けると、木陰で待っていた三人が歩いてきた。
灰銀の髪を項で束ねた細身の剣士、イヴァル。短い褐色の髪と広い肩を持つ剣士、ローデン。その一歩後ろには、赤茶の髪を細く編んだ術者ミアナが立っていた。
イヴァルとローデンはネイルの腰の常刃へ、杖を持たないミアナはネイルの足元と演習場の境界へ目を向けた。
◇
顔合わせを終え、昼を挟んだ午後。
演習場には、朝にはなかった張りつめた気配が満ちていた。
石段の陰から淡い金色の髪がぴょこりと覗き、そのままルーナが軽い足取りで演習場へ降りてきた。
「今日は、いつもと少し空気が違うわね」
姿を認めた王樹魔導衆の者たちが、一斉に背筋を正して敬礼する。
「今日は、そんなに固くならなくていいわよ。私が見たいと言って来ただけなのだから」
ルーナが柔らかく笑っても、誰一人として腕を下ろさない。
「直れ」
ハルラスの号令で、ようやく敬礼が解けた。
「ルーナ様が演習をご覧になる。だが、動きはいつもどおりだ」
「私を守る時、あなたたちが何を見るのか、見せてもらうわ。精一杯、頑張りなさいね」
明るい声に、イヴァルたち三人の表情がかえって引き締まった。
ハルラスが片手を上げると、演習場の端で杖を手に待っていた四人の術者が、ルーナを囲むように散った。杖の石突きが地を打ち、足元を結んだ淡い光が透き通る膜となってせり上がる。膜はルーナを抱くように弧を描き、頭上で閉じた。
薄緑の光越しに、ルーナが三人へ小さく手を振る。守られる本人はいつもどおりだったが、護衛標章の前へ向き直った三人の肩からは、もう柔らかさが消えていた。
ネイルは黒い杖を背から外した。
(我まで置いていくのか)
(使わない約束だから)
(我なら、三人まとめて一薙ぎだぞ)
(だから置いていくんだよ)
黒い杖を場外のハルラスへ預け、常刃だけを腰に残した。鞘口は、抜けないよう固定してある。
演習場の奥、ルーナを包む結界の手前に、護衛標章が置かれていた。
人形の方が気は楽だった。けれど、三人が本当にルーナを守る時、何を見るのかは知りたかった。
イヴァルとローデンが標章の前に並び、二人の間から半歩下がったミアナがこちらを見ている。
ローデンと場外線の間にだけ、駆け抜けられそうな隙間があった。わざと開けた誘いだ。踏み込めば、三人がどう動くのか。そこまでは、まだ分からない。
ネイルは三人の足、肩、視線を順に追った。
朝、頭の中で組み立てた相手とは違い、目の前の三人は、こちらの予想どおりには動かない。
だから、楽しい。
「双方、準備はいいか」
ハルラスの声が演習場を横切った。
ネイルが静かに頷く。三人は返事の代わりに重心を落とした。
ネイルも常刃の鞘へ左手を添える。空いた右手へ、ミアナの視線が一度だけ刺さった。
「始め!」
ミアナの足元で魔素が集まり、地中へ沈んだ。狙っているのは、ネイルの足元だ。
ネイルは踏み出しかけた足を引き、右へ跳んだ。
直後、それまで立っていた地面が下から爆ぜた。跳ね上がった土がローブの裾を打つ。ネイルは空中で膝を胸へ引きつけ、飛んでくる土をかわした。
「右だ!」
ローデンの声と同時に、イヴァルがネイルの着地点へ突きを放つ。ローデンも踏み込み、頭上から木剣を振り下ろしてきた。
このまま落ちれば、突きに当たる。上からの一撃も迫っていた。
ネイルは常刃を腰から外し、鞘ごと斜めに掲げた。
木剣が鞘を叩く。手首から肩へ衝撃が走ったが、押し返さない。打たれた側の肩を落とし、その勢いに任せて身体を傾けた。
着地点がずれる。イヴァルの切っ先は、ローブの脇を擦って通り過ぎた。
突きを放ったイヴァルと、振り下ろしたローデンが、ネイルの目の前ですれ違う。二人は肩を軽くぶつけ、その反動で向きを変えた。互いの位置を入れ替えても、足は止まらない。
ネイルは踵で土を削りながら着地し、一歩退いた。
二人がすぐに間合いを詰める。肩が重なって見えるほど近くに並び、後ろにいるミアナを隠した。
(うまい)
姿は隠れても、〈万理眼〉には見えている。二人の向こうで、魔素が細く絞られていく。
「開け!」
イヴァルとローデンが左右へ分かれた。その間から、白い電光が真っ直ぐ奔る。
横へ避ければ、二人がまた道を塞ぐ。だが今なら、ミアナの前には誰もいない。
ネイルは肩から胸を守る魔力を厚くした。
常刃の鞘尻をミアナへ向け、投げ放つ。
手を離れた直後、電撃が肩から胸へ食い込んだ。
「……っ」
視界が白く弾け、奥歯が鳴った。巡らせた魔力が電撃の大半を散らしても、肺から空気が押し出され、指先まで一度に強張る。
投げた常刃は、その間にもミアナへ迫っていた。
ミアナが上体を捻る。僅かに遅い。
鞘尻が胸元へ食い込み、その身体を後ろへ弾いた。
「ぐっ……!」
電光が途切れる。
「ミアナ!」
「構うな、標章を守れ!」
片膝をついたミアナが声を返す。
ローデンが間髪入れず斬り込み、イヴァルは標章の前へ戻った。
雷の痺れが抜けるより先に、ローデンの木剣が左肩へ向けて斜めに走る。
半歩退けば、かわせる。だが、その間にイヴァルが標章の前を固めてしまう。
ネイルは退かなかった。
魔獣や魔人との戦いでは、致命傷でないなら受けて進む方が、先に目的へ届くことがあった。その選び方は、もう身体に染みついている。
痺れの残る左腕へ魔力を寄せる。雷で乱れた魔力は、肘の先へうまく通らなかった。
それでも、木剣なら痣で済む。
ネイルは左腕を上げ、一撃を受けようとした。
触れる寸前、ローデンが後ろ足を強く踏ん張る。腰が沈み、木剣へ全身の重みが乗った。
気づいた時には、木剣が前腕を打っていた。
バキッ、と腕の内側で乾いた音がした。
痛みより先に肘から先が力を失う。指を握ろうとしても、痺れしか返ってこない。
(これは、痣じゃすまないかも……)
(自分から受けに行っておいて、何をしている)
(治せるから)
次の脈に合わせ、熱い痛みが肘の下から指先まで走った。
(……いたた)
結界の奥でルーナが息を呑み、白い指先を結界へついた。ローデンの目も一瞬だけネイルの左腕へ落ちたが、すぐに木剣を引いて次の一撃へ戻ろうとする。
ネイルは打たれた勢いのまま身体を回し、低く沈んだ。右手を地面につき、その一本で身体を支えながら、逆立ちするように脚を跳ね上げる。
構え直そうとしたローデンの顎へ、踵が下から入った。
顎が跳ね、ローデンの身体が浮く。ネイルは蹴りの勢いで足を地面へ戻し、身を起こした。
木剣が地面を打ち、遅れてローデンも膝から崩れ落ちた。
イヴァルはミアナとローデンを見ず、標章の正面を守ったまま、背中でルーナを隠している。
「ここは通しません」
声も、正眼に構えた木剣の切っ先も揺れていなかった。
ローデンの木剣が、ネイルの足元まで転がってきた。
右手で拾い上げ、力の入らない左腕を胸へ寄せる。そのまま、イヴァルへ向かって地面を蹴った。
一歩ごと、肘の下で痛みが跳ねる。
イヴァルも一歩前へ出た。
ネイルが肩口へ木剣を打ち込むと、イヴァルはその軌道へ自分の木剣を合わせた。同時に踏み込み、ネイルの行く手を身体で塞ぐ。
二本が触れる寸前、ネイルは握っていた右手を開いた。
イヴァルが弾いたのは、手を離れた木剣だけだった。受け止めるはずの力がなく、彼の木剣はそのまま脇へ流れる。
ネイルは、開いた懐へ踏み込んだ。
イヴァルの目が見開かれたのは一瞬だった。剣を振る腕を止め、空いた手をネイルの肩へ伸ばす。
ネイルは左腕を胸へ寄せたまま身をかがめ、その腕の下を抜けた。
イヴァルの指先が、フードの端を掠める。
すれ違いざま、イヴァルの後ろへ右手を伸ばした。
指先へ返ってきたのは、人の体温ではなかった。
硬く、冷たい感触。
護衛標章だった。




