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第22章 似た顔の食卓

 午前の訓練を終え、ネイルは王城の客室へ戻った。


 扉を閉めてフードを下ろすと、ようやく肩から力が抜けた。濃緑のローブをソファの背へ掛け、《常刃》を膝に載せる。今日使ったのは借りた木剣だけだが、修練場の砂埃は鞘にも薄く残っていた。


 向かい合わせのソファも、奥にある寝台も、一人で使うには大きすぎる。王城の客室を借りるのは一晩だけという話だったから、昼食が終われば市中で宿を探すつもりだった。


 朝になっても迎えを待たず、好きな時に起きて出かけられる場所。その方がネイルには合っている。


 ただ、昨夜どちらへ転がっても端へ届かなかった寝台には、少しだけ未練があった。


(持って帰るか?)


(入らないよ)


(試す前から諦めるとは、主も丸くなったものだ)


(王城で寝台が消えたら、絶対に騒ぎになるから)


 鞘を拭きながら、明日の防衛演習を思う。


(やめるなら今だぞ、主)


(やめないよ)


(不安なのだろう?)


(少し。でも、楽しみ)


 磨いた鞘へ指を滑らせると、口元が僅かに緩んだ。


(相手が気の毒だ)


(ちゃんと強い人たちだよ)


(だから気の毒なのだ)


 言い返す前に、扉を二度叩く音がした。


「ネイル殿。ハルラスです」


「少し待って」


 ローブを羽織り直し、白い髪と長い耳をフードへ収めてから扉を開ける。


 ハルラスは応接用の卓へ書類を並べた。


「明日の守備側は三名。普段から一組で動く者たちを選びます」


「うん。その三人が、崩れた後にどう動くか見たい」


「持ち込まれるのは、その剣だけで?」


「鞘に入れたまま使う。攻撃魔法も使わない」


 演習を見てから、次の訓練と指南日程を詰める。その確認を終えると、ハルラスは報酬の書面を差し出した。


 王家から示された日額へ、ネイルの指が止まった。


「多い」


「全員が生きて戻る可能性を上げるための対価です。値下げには応じません」


 ネイルは僅かに頬を膨らませたが、ハルラスは気づかないふりで次の紙を重ねた。


「あとは、護衛対象ですが」


 今度は、返事を待たず扉が開いた。


「その役なら、私でいいでしょう?」


 ルーナが立っていた。ハルラスはすぐに立ち上がり、ネイルも目を見開いた。


「女王陛下。なりません」


「だめ」


 二人の声が重なった。


 ルーナは一度瞬き、それから楽しそうに目を細めた。


「二人とも、急に息が合うのね」


「結界の中から動かないわ。それでも駄目?」


 ハルラスはすぐには答えなかった。王である彼女が立てば、守る三人の判断も、人形を守る時とは変わる。


「その約束を守っていただけますか」


「ええ。約束するわ」


「……承知しました」


「では、打ち合わせは終わりね」


「まだ話は終わっておりません、女王陛下」


「食事の後に返すわ」


 ルーナはネイルの隣まで来ると、ローブの袖を軽く摘まんだ。


「二人でお昼にしましょう」


「今から?」


「そのために迎えに来たのよ」


 荷物のように連れていかれながら振り返ると、ハルラスがネイルへ深く一礼した。


「どうか、ごゆっくり」


 声はいつも通りだったが、目だけは少し同情しているように見えた。


(見捨てられたな)


(統括長なのに)


 通されたのは女王の私的な居間だった。窓際に書類、棚に読みかけの本、細い花瓶に白い花が一輪。謁見の間の威圧はなく、円卓も椅子も長く使うために選ばれた品だと分かる。


 ネイルは扉の前で足を止めた。


「入っていいの?」


「私の部屋だもの」


 背を押され、円卓へ座る。


 侍女たちが焼きたてのパン、葉野菜と根菜、『森角牛の香草包み焼き』を並べた。森苺のソースと蜜果の焼き菓子、花の茶まで置かれると、ネイルの腹が小さく鳴る。


「冷めないうちに食べましょう」


 笑みを含む声だった。


 侍女たちが下がると、ネイルはフードを外した。肉にソースをつけて口へ運ぶ。香草の後から酸味と甘みが広がり、目が僅かに開いた。


(顔に出ているぞ)


(今はいい)


 パンで皿のソースまで拭う頃には、演習への不安も遠ざかっていた。


 向かいのルーナが、ネイルの食べる様子を見ていた。


「何?」


「おいしそうに食べるのね」


「おいしいから」


「朝食のパンも気に入っていたと、厨房から聞いたわ」


「聞いたの?」


「作った者が喜んでいたわよ」


 ネイルが目を伏せると、ルーナはパン籠を寄せた。迷ってもう一つ取る。その目元が柔らかくなる。


「あなたと二人で食事をしたかったのはね、妹ができたみたいで嬉しかったからよ」


 ネイルはパンを持ったまま固まった。


「僕、妹じゃない」


「見た目の話よ」


「年も、僕の方が上かもしれない」


「それは今、聞かなかったことにするわ」


「なんで」


「妹が姉より年上では、少し困るでしょう?」


「僕も困る」


 ルーナは声を上げず、楽しそうに笑った。


「今は二人だけなのだから、そんなにかしこまらなくていいわ」


「わかりまし──わかった」


「ええ。それでいいわ」


「ルーナ……さん」


「そこは残すのね」


「いきなりは無理」


 謁見の間で女王と話していた時より、呼吸はずっと楽だった。


 ルーナは茶を一口飲んだ。


「昨日は、町で食事をしてきたのでしょう?」


「うん。昔、通ってたお店に。友達と」


「いいわね。私も、行きたいと思った時に行けたらいいのだけれど」


 城を出るだけでも行き先を決め、警護を動かし、通る場所を調べる。町へ着く頃には、もう普段の町ではないという。


 女王を守るには必要なことなのだろう。


 けれど、食卓で自分のパンを寄せてきた人が、その日の気分で道を曲がることさえできない。その窮屈さなら、ネイルにも少し分かった。


 ルーナはカップを置き、円卓越しに身を乗り出した。


「だから、一つお願い。あなたがアルフヘインにいる間に、一日だけ、私の代わりをしてほしいの」


 ネイルの手が止まった。


「女王を?」


「公務は任せないわ。事情を知る者だけで、顔を隠したまま私室にいてもらう。必要なら遠目に姿を見せるだけ。その間、私は化粧をして普通の服で城下町を歩きたいの」


「公の予定がなくて、ハルラスさんが認めたら。護衛も一緒。何かあればすぐ戻る。駄目と言われたら、諦める」


「約束するわ」


 まずは、ハルラスに相談してからだ。


 ルーナは嬉しそうに笑っていたが、やがてネイルの周囲へ意識を向けた。


「顔を隠せても、揺らぎで気づかれない?」


「同じにはできない。でも、ルーナさんに近づける。近くで調べられたら、ばれるよ」


 ネイルは指先を上げ、魔力を扱う時に周囲へ生じる乱れを大まかになぞった。ルーナが目を閉じて確かめる。


「確かに私に似ているわ」


「似せたのは、揺らぎだけ」


 向かいのよく似た顔を見ているうちに、ルーナの笑みから少しだけ軽さが引いた。


「ネイル。一つだけ、聞いてもいい?」


「何?」


「答えたくなければ、答えなくていいわ」


 その前置きで、ネイルの指が止まった。


「あなたは、どこの出身なの?」


 すぐには答えられなかった。


 ネイルの転生は、誰かの子として生まれ直すものではない。命を終えた身体へ魂が入り、それを足場に新しい身体が形作られる。元の持ち主の記憶も家族も渡らず、残るのはネイル自身だけだった。


 今の生は、コーネリア近郊で命を失った女性エルフの身体から始まった。アルフヘインは故郷だが、生まれた場所ではない。すべて話せば、出身を答えるだけでは済まない。


 嘘で終わらせることも、「分からない」とだけ渡すこともできる。それでも、何も渡さずには終えたくなかった。


「今の僕が始まったのは、コーネリアの近く」


「レグナリアの、国境都市?」


「うん」


「アルフヘインではないのね」


「ここは故郷。でも、生まれた場所じゃない」


 ルーナは蜜果の焼き菓子へ伸ばしかけた手を止めた。


「ご両親は?」


「分からない」


「二人とも?」


 ネイルは小さく頷いた。


 嘘は言っていない。顔も名前も声も、何も受け取っていない。


 ルーナは、しばらくネイルを見つめた。


 昨日、ネイルの正体へ届いたのと同じ目だった。それでも今度は、逃げたいとは思わなかった。


「不思議な答えね。でも、嘘はついていないみたい」


「うん」


「なら、今日はそれ以上聞かないわ」


 ルーナは蜜果の焼き菓子を半分に割り、片方をネイルの皿へ置いた。


「似ている理由が分からなくても、私が嬉しかったことは変わらないもの」


 ネイルは、皿へ置かれた半分を見つめた。


 顔を上げると、ルーナはもう自分の分を一口かじっていた。


「冷めるわよ」


「うん」


 一口食べると、蜜の甘さがゆっくり広がった。


 その時、扉を控えめに二度叩く音がした。


 ネイルはフードを被り、白い髪と長い耳を隠す。それを確かめてから、ルーナが扉へ声をかけた。


 入ってきた侍女は、円卓から離れた場所で一礼する。


「女王陛下。そろそろ午後のご予定がございます」


「そうね。すぐに向かうわ」


 返事は短かった。席を立った時には、先ほどまで城下町を歩きたいと笑っていた人ではなく、アルフヘインの女王へ戻っている。


「ネイル。また一緒に食べましょう」


「うん」


「今夜からは、好きな宿を使っていいわ。ただし、決まったら王城へ場所を知らせて。保護を外すという意味ではないから」


「分かった」


「グリンに、宿まで送らせるわ」


「一人で行けるよ」


「知っている。でも、宿の場所を伝える手間も省けるでしょう?」


「それなら」


 ルーナは満足そうに頷き、侍女へグリンを向かわせるよう告げた。


 二人で居間を出る。回廊の分かれ道で、ルーナは午後の予定へ、ネイルは客室へ向かった。


 振り返れば、女王は侍女から次の報告を受けながら、王城の奥へ歩いていく。


 一日くらいなら、好きな道を歩かせてあげてもいい。


 先ほどより少しだけ強く、そう思った。


 その前に、明日の防衛演習だ。今夜の宿も決めなくてはならない。食事がおいしく、一人で静かに過ごせればいい。


 できれば寝台は、柔らかい方がいい。


 ネイルは甘い余韻を口に残したまま、グリンを待つため客室へ戻っていった。

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