第20章 指南役の朝
瞼の裏が、淡く赤かった。
眠る前に目深に被ったはずのフードは、寝返りを打つ間に外れている。
窓から差し込んだ朝日を片手で遮ると、開け放たれた小窓の向こうで、小鳥が一つ鳴いた。
(明日が来た)
(残念だったな、主)
眠る前、来なければいいと願った。けれど、明日が来なければ、昨日交わした約束の続きも来ない。
最後まで本気では願いきれなかった。
もう一度目を閉じたが、小鳥の声が一つ増え、寝返りを打てば今度は頬へ日が当たった。
(今日、何するんだっけ)
(訓練を見て、統括長と話す)
諦めて上体を起こす。
一人には広すぎる部屋は、昨夜と変わらず整っていた。冷たい水で顔と白い髪を洗い、細い風を沿わせて水気を飛ばす。
身支度を終えると、寝台の脇へ置いていた黒い杖に触れた。
誰の気配もないことを確かめ、カオス・パレードの異空間から、鞘に収められた片手剣を取り出す。
《常刃》。
目を引く装飾も、魔法も、スキルもない。
ただ、折れず、欠けず、よく切れる。
昔、一人のドワーフから贈られた、大切な一振りだった。
刃に曇りや歪みがないことを確かめ、柄の巻きと鞘口へ指を滑らせる。
(今日は見学だけだぞ)
(使うかもしれない)
(誰にだ)
(分からないけど)
旅用の軽鎧を整え、《常刃》を腰に提げる。濃緑のローブを羽織り、最後にカオス・パレードを背へ戻した。
内側の滑らかな感触が肩を包んだだけで、少し気分がよくなる。
ちょうど留め具を合わせた時、扉が二度叩かれた。
「ネイル様、おはようございます。朝食をお持ちいたしました」
昨日、客室まで案内した侍女の声だった。
「はーい」
卓へ並べられたのは、瑞々しい葉野菜と果実、湯気の立つ卵料理、それに焼きたての丸いパンだった。
旅の保存食とは違う、焼けた小麦の匂いがする。ネイルの足が自然に卓へ向かった。
椅子へ腰を下ろし、パンへ手を伸ばしかけて止める。遥か昔に身につけた宮廷の作法を思い出し、一口分ずつちぎりながら侍女の顔を窺った。
咎められはしない。恐る恐る口へ運ぶと、パンは柔らかくほどけ、焼けた小麦の香りと僅かな甘みが広がった。
「お気に召しましたか?」
ネイルは飲み込んでから、何度も頷いた。
「おいしい」
「厨房の者へ伝えておきます」
ネイルが食べ進める間に、侍女は手元の紙を開いた。
「朝食後、グリン様がお迎えに上がります。修練場で訓練をご覧になり、その後はハルラス様との打ち合わせです」
「それが終わったら、今日は帰ってもいいのかな」
どこへ帰るのかまでは、自分でも決めていない。それでも、王城の外へ出られる時間があるかは確かめておきたかった。
「その後、女王陛下が昼食をご一緒したいとのことです」
飲み込む途中だったパンが、喉で止まった。
「こほっ、こほっ」
差し出された水を二口飲み、ようやく息を整える。
「ほ、本当に?」
「はい。謁見とは別にお食事へ招かれるのは、大変珍しいことです」
「そ、そうなんだ」
(聞いてない)
(防護結界を突破した方が早そうだな)
(朝から国を敵に回さないで)
頭の内側で、パレードが愉快そうに笑う。
侍女が食器を片づけて退出した後も、ネイルは椅子へ座ったまま、最後に残したパンを見つめた。
悩んだ末、それだけはきちんと食べた。
◇
ほどなくして、扉が再び二度叩かれた。
「ネイル様。グリンです」
「どうぞ」
入室したグリンは、姿勢を正して深く一礼した。
「おはようございます。本日は私が修練場までご案内いたします」
「おはよう、グリン」
昨日と同じ深緑の上衣。同じ声。それなのに、背筋も礼の角度も、僅かに固い。
「昨日より、少し固い」
グリンは一度目を瞬き、小さく息を吐いた。
「指南役をお迎えする初日ですので。私も、少し緊張しているようです」
「今までどおりで、いいよ」
「……承知いたしました」
返事の姿勢は、まだ固いままだった。
グリンの視線が、濃緑のローブから覗く《常刃》の柄で止まる。
「本日は、その剣もお持ちになるのですか?」
「だめ?」
「いえ、修練場ですので。ただ、剣も嗜まれるとは存じませんでした」
ネイルの瞳が、僅かに細くなる。
「見たい?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「じゃあ、機会があったらね」
「楽しみにしております」
(今日は見学だけだと、ようやく思い出したか)
(剣は別)
白い髪をローブの内側へ収め、大きなフードを目深に被る。
「行こう」
「はい。ご案内します」
◇
客室を出ると、短い詠唱と剣の打ち合う音が廊下にまで響いていた。時折、術が標的を打つ音が重なる。
グリンの半歩後ろを歩きながら、ネイルはフードの縁を僅かに引き下げた。
(人前、嫌だな)
(百人の敵より、味方の隊列の方が怖いか)
(戦うなら何人でもいいけど、話すのは一人ずつがいい)
やがて廊下の先が開け、王城に隣接した修練場へ出た。
土を固く踏み締めた広い場では、剣士と術者が幾つもの隊形を組んでいた。前列が開けば後列の術が通り、放った者は味方の陰へ戻る。誰かの一歩が、次の一歩へ繋がっている。
見学するだけなら、少し面白いかもしれない。
そう思ったところで、幾つもの視線が出入口へ向いた。
グリンの姿に気づいたハルラスが、片手を上げる。
「総員、止め」
振り下ろしかけた木剣も、収束させていた術も止まった。
「集合」
訓練中の者たちが一斉に動く。駆け寄る速さも足を止める位置も揃い、ほどなく壇の前へ等間隔の列ができあがった。
ただ、その列に加わらず、修練場の端に残った者が三人いた。
三人の衣服も装備も揃っていない。それでも、誰かが場内へ目を配れば、別の誰かが出入口を見ていた。
「あの人たちは?」
ネイルが小声で尋ねると、グリンも声を落とした。
「《黒枝》。王家直属の者たちです。それ以上は、私からは」
「そっか」
露骨な視線は向けてこない。それでもネイルが歩けば、三人のうち誰かの視線が必ず追ってきた。
グリンの半歩後ろを進みながら、ネイルは並んだ者たちの視線を受けた。昨日までなら通り過ぎればよかった一人ひとりへ、今日からは言葉を渡さなければならない。
「ネイル様をお連れしました」
「ご苦労。列へ戻れ」
「はい」
一人残されたネイルへ、ハルラスが壇上の隣を示す。
「こちらへ、ネイル殿」
「はい」
一段だけの壇へ上がり、背筋を伸ばす。深いフードを被っていても、全員の視線が集まっていることは分かった。
「本日は、諸君に紹介したい方がいる」
ハルラスの声が修練場へ通る。
「こちらはネイル・エクセリア殿。本日より当面の間、我々《王樹魔導衆》の指南役を務めていただく」
一瞬の静寂の後、隊列の空気が揺れた。
小さな囁きが、列の端から端へ広がっていく。
ハルラスが静かに視線を巡らせると、声はすぐに止まった。
「疑問はあるだろう。だが、この人選は女王陛下の命であり、私自身の推薦でもある。諸君には、ネイル殿が冒険者として積み上げてきた実戦の判断を学んでもらう」
戸惑いに代わって、確かめるような期待が向けられる。その方が、ネイルには困った。生き残る方法を覚えてきても、それを他人へ渡せる言葉にした経験は多くない。
それでも、彼らが同じ失敗で傷つかずに済むなら、ここへ立つ意味はあった。
ハルラスが半歩下がった。
「ネイル殿。一言、お願いできますか」
「はい」
ローブの内側で一度だけ手を握り、並んだ者たちを見る。
全員がこちらを待っていた。
「ご、紹介にあずかりました。ネイル・エクセリアです」
最初の言葉が、少しだけ引っかかる。
「短い間になると思いますが、よろしくお願いします」
ぎこちなく頭を下げると、頭の内側でパレードが声を殺して笑った。
少しも殺せていなかった。
(あとで、覚えてて)
(これほど愛らしい指南役は、そういないぞ)
ハルラスが一同へ向き直る。
「指南役殿へ──礼」
「よろしくお願いいたします、ネイル指南役!」
重なった声が、修練場の壁を震わせた。
鍛えられた精鋭たちによる正式な返礼は、歓声よりも逃げ場がない。
けれど、その声には疑いも侮りもなかった。
指南役として認めたわけではなくても、まず言葉を聞こうとしてくれている。そのことだけは、ネイルにも伝わった。
「総員、訓練へ戻れ」
「はい!」
剣士は木剣を取り、術者はそれぞれの位置へ戻る。列が幾つもの訓練隊形へ分かれ、剣戟と詠唱が戻ってきた。
「ネイル殿。本日はまず、普段どおりの我々を見ていただきたい。気づいた点があれば、遠慮なく指摘してほしい」
「分かりました」
人前へ立つのは、やはり好きではない。
けれど、剣の握り方や立つ位置、術者同士の間隔を見ることまで嫌いなわけではなかった。
再開した訓練は速く、正確で、流れが途切れない。
だからこそ、その中で繰り返される小さな動きが、よく見えた。
先頭を走る剣士は、踏み込む直前に右肩が僅かに上がる。
その後ろでは、術者が詠唱へ入るより早く視線を標的へ固定していた。
壇上から逃げることを考えていたネイルの目が、静かに細くなる。
けれど、すぐには声をかけなかった。
(見つけたのではなかったのか?)
(見つけたよ)
(なら、なぜ黙っている)
(直した方がいいか、まだ分からないから)
癖は、ただ消せばいいものではない。
右肩が上がることで、踏み込みへ力を乗せやすくなっているのかもしれない。術者が先に標的を見るのも、味方へ狙いを伝える合図として働いている可能性がある。
本人が理解して使っているなら技術になる。無自覚なまま繰り返しているなら、敵に渡した合図になる。
ネイルは壇の端に立ち、もう一巡だけ訓練を見た。
前列の剣士が左右へ開く。空いた射線へ、後列の術者がほとんど間を置かず魔法を通す。防御役が破片を受け止め、その陰を使って剣士たちが次の位置へ戻る。
一度、剣士の戻りが半歩だけ遅れた。
後ろの術者は空いた場所へ術を通さず、収束した魔力を保ったまま位置をずらす。隣の剣士も前へ出ず、遅れた一人が戻るための間合いを作った。
失敗をなかったことにせず、三人で小さく直す。
その判断まで速かった。それも、強さだった。
ハルラスが隣へ戻ってきたところで、ネイルは尋ねた。
「ここに入るのって、難しい?」
「志願するだけなら、難しくはありません。エルフ種であれば、門を叩くことはできます」
ハルラスの視線が、修練場を駆ける者たちへ向く。
「もっとも、選抜を越え、長い鍛錬の中で基準を満たした者だけが、この紋章を身につけられます」
「やっぱり」
揃った剣は、舞のように見えた。斬り、避け、味方を通し、次の敵へ向かう。そうして繋がる動きを、一人の癖を消すために崩していいとは思えない。
ハルラスが、率直な目を向けた。
「彼らを、どう見ますか」
「綺麗」
「綺麗、ですか」
「うん。すごく強い」
揃った動きで、次の隊列が標的へ向かっていく。
だからこそ、少しだけ気になった。
「でも、綺麗すぎる」
ハルラスの目が細くなる。
「それが、弱点になると?」
「技は通用する。ただ、その技を綺麗に出せる状況を、相手が残すとは限らないから」
ネイルが知る戦場では、敵も同じ規則に従ってくれることの方が少なかった。
炎の後に毒霧を残し、障壁を解く瞬間を狙った魔人がいた。捕らえた兵を囮にし、助けに来た兵たちが足を止めたところを、自分の配下ごと薙ぎ払った魔人もいた。
自分の味方なら守る。拘束した相手には利用価値がある。炎なら、焼くために使う。
そうした常識を、一つずつ罠へ変える。
魔族が皆、そのように戦うわけではない。それでも一部の者は、自分の命も、配下の命も、敵の倫理も、同じように駒として使った。
ネイルには、そうした戦いに傷つけられた生もあった。殺されたことさえある。反対に、味方の苛烈な判断に救われた生もあった。
だから、相手が何を捨てられるのかを、少しだけ理解できてしまう。
昨日の謁見の間でも、本当の敵なら、柄へ触れた腕を払い、剣を抜く前に崩していた。けれど、あの場で守るべきものは、自分だけではなかった。
何を守り、何を捨てられ、相手がどこまで捨てられるのか。それによって、同じ一瞬の答えは変わる。
「少し、近くで見てもいい?」
「もちろんです。必要であれば、訓練を止めますが」
「ううん。このままで」
ネイルは壇を降り、訓練の外縁から歩いた。
最初に足を止めたのは、右肩を上げていた剣士の近くだった。
一度目の踏み込み。肩が上がり、鋭い突きが標的の中心へ入る。二度目も同じだった。
「少し、いい?」
剣士はすぐに動きを止めた。
「はい、指南役殿」
「木剣、一本借りてもいい?」
ハルラスが片手を上げる。
「この区画、止め。周囲を空けろ」
号令を受け、二組分の間隔が空いた。
ネイルは武器架から木剣を借りた。《常刃》には触れず、切っ先だけを静かに下げる。
「いつもの連撃をして。突きは、好きな時に混ぜて」
「指南役殿を相手に、ですか」
「うん。遠慮は、いらない」
戦いのことになると、ネイルの言葉から迷いだけが消える。
ハルラスの開始の声が落ちた。
右上からの斬撃。返す刃で胴を狙い、一歩退いて追撃を誘う。
速い。動きの切れ目も、ほとんど見えない。
ネイルは木剣を小さく動かし、すべてを受け流した。
剣士の右肩が、僅かに上がる。
剣先が走るより早く、ネイルは相手の懐へ滑り込んだ。
木剣を根元から払う。乾いた音とともに突きが肩口を逸れ、ネイルの切っ先は胸当ての手前で止まっていた。
「そこまで」
剣士が、止められた自分の剣を見る。
「もう一度。今度は、間を変えていい」
二度目は、踏み込みかけて止まり、いったん間合いの外へ退いた。そこから鋭く戻り、横薙ぎを見せた直後に突きへ変える。
それでも、右肩は先に動いた。
ネイルは先ほどと同じように懐へ入り、突きを脇へ逸らす。切っ先もまた、胸当ての手前で止まった。
「そこまで」
「なぜ……突きだけを」
「剣は見てないから」
「では、何を?」
「右肩。突く前、少し上がる」
剣士が自分の肩へ目を向ける。
「ならば、肩を上げなければ」
「一度、やってみて」
今度の突きは予備動作が薄い。けれど、肩、腰、足の動きが僅かにずれ、剣先が届くまでの時間も伸びた。
ネイルは正面から木剣を合わせ、静かに止める。
「今のは読みにくい。でも、さっきより遅い」
「では、どのように」
「消さなくていい。同じ動きから、違う答えを混ぜた方がいい。突く。横に斬る。何もしない」
肩の動きは、足で生んだ力を剣先まで運んでいた。それを失わず、突きだけの予告ではなくす。
「でも、一人で変えないで。隣と後ろには先に伝えて。今日は、癖があるって分かれば、それでいい」
剣士は自分の右肩へ一度だけ触れ、深く頷いた。




