第19章 百年ぶりの一杯
扉をくぐったネイルを最初に迎えたのは、深く煎られた豆の香りだった。
店の奥で、大きな湯沸かし釜が白い息を吐いている。
外気に冷えた頬を、湯気を含んだ温かな空気がゆっくり撫でた。
蜜蝋の灯りが、樹洞をそのまま部屋へ仕立てたような店内を柔らかく照らしている。二人掛けの低いソファは互いの会話が届かないほど離れ、訪れた一人が静かに息をつけるよう置かれていた。
窓際では、老夫婦らしい二人のエルフが小声で語らいながら、一枚の皿から焼き菓子を取っている。
リリィには、ほかに客はいないように見えたらしい。
けれど、ネイルには蜜蝋の火に紛れる精霊も、小窓で足を揺らす妖精も見えていた。梁の上の一人と目が合う。
妖精は木の実を抱えたまま固まり、そっと柱の陰へ隠れた。
ネイルは何も見なかったことにした。
背後で扉が閉じる。
小さな鈴の余韻が消えたところで、ネイルは《薄影》を解いた。
それまで二人の上を滑っていた店内の意識が、さざ波のように戻ってくる。
窓際の老夫婦がネイルの背へ目を留めた。
濃緑のローブへ銀糸で縫われた、ユグドラシルの枝を囲む紋章。二人は驚いた顔を見合わせた後、揃って姿勢を正し、小さく頭を下げた。
ネイルも慌てて会釈を返す。
そのやり取りを、カウンターの奥にいる老人だけが静かに眺めていた。
白髪の老人が、片眼鏡越しに新聞を読んでいる。細い香葉巻から立つ甘い煙が、コーヒーの香りへ薄く溶けていた。
皺一つない上着に、磨かれた革靴。紙を閉じる時さえ、きちんと角を揃える。その几帳面さまで、記憶の中と変わっていない。
ネイルがカウンターへ近づく。
老人は王家の紋章を一度だけ見た。
次に背中の黒い杖へ視線を移し、最後に深いフードの内側を覗く。
「久しいお客さんだね」
記憶と変わらない声だった。
「分かったの?」
「その杖は、そう何本もあるものではないからね」
老人──ロンドは、店の一番奥へ目を向けた。
「それに、入ってすぐ隅の席を確かめる癖も、変わっていない」
言われて初めて、ネイルは自分がその席を見ていたことに気づいた。
壁とカウンターに挟まれ、ほかの席から最も見えにくい。昔も、来るたびそこへ座っていた。
「まだ、空けてあるよ」
「ずっと?」
「まさか。いつ来ても座れる程度には、という意味さ」
ロンドの口元が緩んだ。
ネイルは目を細める。
昔も、こうして時々からかわれた気がする。
ロンドは注文を尋ねず、温めてあった白いカップへ黒褐色の液体を注いだ。湯気とともに、懐かしい香りが立つ。
『深樹の雫』。
ネイルが昔、この店でいつも頼んでいたものだった。
「味は、変わっていないと思うよ」
「ありがとう、ロンド」
「どういたしまして」
百年ぶりの客ではなく、昨日も来た客へ返すような声だった。
それが、ネイルには心地よかった。
カップを受け取り、奥の席へ向かう。
昔と同じ椅子へ腰を下ろすと、隣を指先で軽く叩いてリリィを招いた。
リリィは店内を見回しながら、その隣へ静かに座る。
「すごく大人っぽくて、いいお店だね」
店の静けさへ合わせたのか、声がいつもより二回りほど小さい。
ネイルは満足そうに頷いた。
ほかの客から見えにくい席まで来たことで、ようやくフードを少しだけ後ろへ下げる。
白い髪が数本、肩へこぼれた。
カップを両手で包み、一口含む。
最初に穏やかな苦みが舌へ触れ、その後から、深い香りがゆっくり鼻へ抜けていく。
百年という時間だけが、そこには入っていなかった。
ネイルの肩から、知らずに入っていた力が抜けた。
「お帰り、と言った方がよかったかな」
ロンドが尋ねた。
ネイルはカップの中へ目を落とし、一拍考える。
「……ただいま、でいいのかな」
「君がそう思うなら、それでいいさ」
ロンドはそれ以上、どこへ行っていたのかも、なぜ戻ったのかも尋ねなかった。
代わりにリリィへ向き直る。
「私はロンド。この店を営んでいる。何か食べたいものはあるかい?」
リリィは壁へ掛けられた小さな品書きを見上げた。
「『陽だまりの包み飯』をお願いします」
「あるよ。茸と香草の炒め飯を、柔らかな卵で包んだものだ。それでいいかい?」
「それがいいです」
「飲み物は、そちらのお嬢さんと同じもので?」
リリィはネイルのカップを覗き込む。
「私も、飲んでみます」
「分かったよ」
ロンドはもう一つカップを温め、『深樹の雫』を注いだ。
リリィは両手で受け取り、恐る恐る口をつける。
最初の苦みに眉を寄せたが、すぐにもう一口飲んだ。
「少し苦いけど、おいしい。飲んだ後の方が、いい香りがする」
「そう。それが好きなんだ」
ネイルが、自分のことを褒められたように頷く。
ロンドは二人を見比べ、笑った。
香葉巻の火を消したロンドは、手を洗ってエプロンを巻き、使い込まれた黒鉄の平鍋を炉へ置いた。
茸と米を炒める乾いた音が、小さな店へ心地よく響く。
刻んだ香草が加わると、コーヒーとは別の温かな香りが立ち上った。
「最後に来たのは、いつだったかな」
炒め飯を皿へ移し、鍋へ油を薄く引きながら、ロンドが尋ねる。
「この国を出る少し前だったと思う」
「そうか」
ロンドは驚かなかった。
「旅へ出ると、珍しく楽しそうに話していたのは覚えているよ」
「僕、楽しそうだった?」
「少なくとも、ここではね。昨日のことのように覚えている」
ロンドが手首を返すと、淡い金色が崩れず宙を舞った。
「おお……」
リリィの口から、小さな感嘆が漏れた。
「長く続けていれば、これくらいはね」
大したことではないように答える。やがて卵は、香草の匂いを立てる炒め飯を柔らかく包んだ。
その言葉の置き方も、褒められた時の困ったような間も、どこかネイルに似ていた。
リリィはロンドとネイルを見比べ、一人で納得したように頷く。
「僕も、それがいい」
調理の様子を見ていたネイルが、遅れて注文した。
「分かったよ」
ロンドは理由を尋ねず、二つ目の卵を手に取った。
やがて二人の前へ、同じ皿が並ぶ。
茸と香草の炒め飯を包む、柔らかな金色の卵。その上には、甘酸っぱい赤い実のソースが細く引かれていた。
リリィが木匙で端を割る。
卵の内側から湯気が昇り、香草の匂いがふわりと広がった。
一口分を頬張る。
「……すごくおいしい」
「連れてきて、よかった」
ネイルの声が、普段より弾んだ。
自分が褒められたわけでもないのに、どこか誇らしそうだった。
リリィはその横顔を見て笑う。
広場で王家の紋章に気づいた時とは違う、柔らかな笑みだった。
◇
皿の中身が半分ほど減った頃、リリィが木匙を置いた。
「それで、ネイルちゃん」
「うん」
「王城で、何があったの?」
先ほどまでより真剣な声だった。
ネイルもカップを卓上へ戻す。
何から話すべきか考えている間に、二人の周囲を透明な膜が包んだ。外へ出た声は、湯の音や食器の触れ合う音へほどけていく。
リリィは気づいていない。
ネイルだけがロンドを見る。
ロンドは膜の外で新聞を開き、片眼鏡を直した。
聞かない。尋ねない。外へ漏らさない。込み入った話が始まると、ロンドは昔からそうしてくれた。
ネイルはもう一度、リリィへ向き直る。
「二つ、頼まれた」
「女王陛下に?」
「うん。一か月後の式典で、勲章を受け取ること。一般公開だって」
「勲章!? すごいじゃない!」
声が店中へ響いたように聞こえたが、窓際の老夫婦は顔も上げなかった。
「断ろうとしたら、『受け取りなさい』って」
リリィが口元を押さえる。
隠しているつもりらしいが、肩が震えていた。
「笑わないで」
「ご、ごめん。でも、ネイルちゃんが一言で負けるところ、想像できなくて」
「僕も、あんなに早く負けるとは思わなかった」
「もう一つは?」
リリィが続きを促す。
ネイルは視線を逸らした。
「《王樹魔導衆》の指南役。この国にいる間だけ」
リリィの笑みが消えた。
「危なくないの?」
「ハルラスさんが剣に手を掛けたから、僕は下がった。少し、試されたんだ」
「ネイルちゃん、ちゃんと逃げるんだね」
「逃げてない。間合いを取っただけ」
そこだけは、すぐに訂正した。
「それで、指南役にも推薦された。殺気はなかったし、ルーナさんも知っていたから大丈夫」
リリィは、嘘ではないと確かめるようにネイルの目を見つめた。
「……なら、今は信じる」
完全に納得したわけではないらしいが、それ以上は追及しなかった。
ネイルはフードの縁へ指を触れる。
ここから先は、話さなくてもいいことだった。秘密は一人で抱えた方が安全だ。ずっと、それを当たり前にしてきた。
けれど、今日は話したいと思った。
ネイルはカップから手を離した。
「それと、僕、ハイエルフなんだ」
リリィの瞬きが止まった。
「えっ……ネイルちゃんが?」
「うん」
「本当に?」
「これは、本当に内緒」
ネイルは真っ直ぐリリィを見る。
「でも、リリィだから話してる」
驚きに見開かれていたリリィの目が、ゆっくりと別の色へ変わっていく。
嬉しそうで、それでも泣きそうな、混ざった表情だった。
「……そっか」
「驚いた?」
「驚いたよ。ものすごく」
リリィは息を吐く。
「でも、それより……嬉しい」
「ハイエルフなのが?」
「違うよ」
リリィは困ったように笑った。
「私になら話してもいいって、思ってくれたこと」
ネイルは目を伏せる。
言葉にして渡した秘密が、自分の手を離れて誰かの中へ収まっていく。
不思議と、怖くはなかった。
「……リリィなら、大丈夫だから」
「絶対に誰にも言わない」
リリィは胸元で両手を重ねた。
先ほどまでの驚きが嘘のように、真剣な目をしている。
「約束する」
ネイルも頷いた。
その一度で、二人の間に秘密の置き場所が決まった。
「じゃあ、このローブも、王城に泊まることになったのも、その後?」
「うん。王城で知っているのはルーナさんだけ。ほかの人には、王家の客人って伝えてるみたい」
「なるほどね」
「王家との血縁は、まだ分からないよ。勝手には調べないって」
「そこまで話したの?」
「抱きしめられて、ばれたから」
「抱きしめられた!?」
今日一番大きな反応だった。
「女王陛下に?」
「うん」
「ネイルちゃん、今日ずっと負けてるね」
「そうなんだよ」
リリィは堪えきれずに笑った。
その後も明日の迎えや訓練のことを少しずつ話した。愚痴まで混じるたび、リリィは笑い、ときどき真剣な顔で聞いた。気づけば、皿もカップも空になっていた。
リリィは空になった皿を見つめた後、ネイルのローブへ視線を移した。
濃緑の布地に、銀の紋章が覗いている。
「勲章をもらって、王城に泊まって、《王樹魔導衆》の指南役か……」
「うん」
「本当に、遠いところへ行っちゃったみたい」
先ほどまで笑っていた声が、急に細くなった。
ネイルは答えられなかった。
欲しくて得た紋章でも、肩書でもない。それでもリリィには、自分を遠ざけるものに見えるらしい。
リリィが目尻へ溜まったものを隠すように顔を伏せる。
そして次の瞬間には、椅子を寄せ、ネイルへ抱きついていた。
「リリィ?」
「少しだけ。このままでいさせて」
ネイルの身体が、最初だけ固くなる。
王城でルーナに抱き寄せられた時とは違う。
逃げなければと思わなかった。
押し返したいとも思わない。
一拍迷った後、ネイルはリリィの背中へ腕を回した。
「大丈夫」
短く告げる。
何が大丈夫なのか、うまく説明はできない。ただ、伝えたいことは一つだけだった。
「リリィは、僕にとって大事だから」
腕の中で、リリィがぴたりと動きを止めた。
「……本当?」
「うん」
今度は迷わなかった。
リリィは抱きついたまま、しばらく何も言わなかった。
ローブを握る指が、少しずつ緩んでいく。ネイルも、背中へ回した腕をそのままにして待った。
やがてリリィは片手で目元を拭い、顔を上げた。息を整えてから、ようやく小さく笑う。
「……言質、取ったからね」
声には、まだ鼻にかかった響きが残っていた。
「えっ」
「これからも私が誘ったら、ちゃんと来てくれるってことよね?」
「それは──」
「大事なんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、決まり!」
ネイルは、いつの間にか次の誘いまで引き受けたことに気づいた。
(見事に捕まったな、主)
(リリィ、泣いてたから)
(それで全部約束するのか)
(全部じゃないよ。多分)
リリィに抱きつかれたまま、ネイルは苦いコーヒーをもう一口飲みたくなった。
けれど、カップはもう空だった。
カウンターの向こうでは、新聞の端が揺れた。
ロンドが笑ったのかどうかは、最後まで分からなかった。
◇
店を出る頃には、蜜蝋の灯りが入店時より明るく見えた。
ネイルは白い髪をローブの中へ収め、フードを目深に被り直す。
リリィが財布を開く頃には、ロンドはもう二人分の代金を受け取り、釣りまでネイルへ返していた。
「今日は僕が払うよ」
「でも──」
「お金は、あるから」
「そういう問題じゃ──って、早い!」
「次は、百年も空けないでくれると助かるよ」
新聞を畳みながら、ロンドが言った。
ネイルは扉へ手を掛けたまま振り返る。
「……今度は、もう少し早く来る」
「一人で?」
ロンドの視線が、一瞬だけリリィへ向いた。
ネイルも隣を見る。
リリィは何も言わず、期待するように笑っていた。
「多分、二人で」
「今度は、ネイルちゃんからも誘ってよ」
誘われることには、少しずつ慣れてきた。自分から誰かを誘うのは、まだ難しい。
それでも、今は言葉にしてみたかった。
「僕からも、誘う」
「約束ね」
ネイルが頷くと、ロンドは満足そうに目を細めた。
「それなら、席は二つ空けておこう」
百年前には必要のなかった約束だった。
ネイルは小さく頷き、扉を開く。
外へ出る前に、ごく小さな声で《薄影》を使い直した。
扉の鈴が一度鳴る。
コーヒーと香葉巻の匂いが、ゆっくり閉じる木戸の向こうへ戻っていった。




